ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:老中

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 今日は、江戸時代中期の1772年(明和9)に、田沼意次が江戸幕府の老中に就任した日(田沼時代)ですが、新暦では2月18日しなります。
 田沼時代(たぬまじだい)は、江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった明和4年(1767年)から、老中を辞任させられた天明6年(1786年)の間とされてきました。
 その政策は、問屋、株仲間の育成を強化、貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、商品農産物栽培の奨励などで、前代の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があります。しかし、商人と結託して、賄賂が公然と上下に横行し、田沼父子の専横に批判が高まり、天明の大飢饉や百姓一揆・打ちこわし続発の中で、第10代将軍徳川家治が死後に失脚しました。
 一方で、自由な世情の中で、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の発達の機運が高まったともされます。
 
〇田沼意次(たぬま おきつぐ)とは?

 江戸時代中期の幕臣・大名・老中です。1719年(享保4年7月27日)に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)で、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。
 1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。
 1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城し、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至ります。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出しました。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まります。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されました。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

☆田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1899年(明治32)雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足する詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1961年(昭和36)横浜マリンタワーが開館する詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸幕府5代将軍徳川綱吉側近の寵臣・譜代大名柳沢吉保の亡くなった日ですが、新暦では12月8日となります。
 柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)は、1658年(万治元年12月18日)に、甲州武田の旧臣の子孫である上野国館林藩士・柳沢安忠の長男(母は側室の佐瀬氏)として江戸市ヶ谷に生まれましたが、初名は房安(ふさやす)で、通称は弥太郎と言いました。1673年(寛文13)に元服し、1675年(延宝3)には、父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名、家禄530石の小姓組番衆となります。
 1680年(延宝8年)に、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の後継者として江戸城に入ると、家臣の吉保も幕臣となり、小納戸役となりました。その後、たびたび昇進・加増を受け、1685年(貞享2)に従五位下出羽守に叙任され、1688年(元禄元)には、側用人となり、1万2000石余で大名に列します。
 1690年(元禄3)に2万石加増され、従四位下に昇叙、1694年(元禄7)に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(現在の埼玉県川越市)となり、老中格と侍従を兼帯しました。1698年(元禄11)に根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、1701年(元禄14)には松平の家号を許されると共に、綱吉の名の一字をを賜って、吉保と改名します。
 1704年(宝永1)には、従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐国(現在の山梨県)15万石余に封ぜられ、甲府城主となったものの、1709年(宝永6年2月19日)に綱吉が死去し、その甥家宣が6代将軍に就任すると、幕府内の状況が一変しました。その中で、同年6月3日に隠居して、長男吉里に柳沢家の家督を譲り、保山元養と号し、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、六義園の造営などを行ないます。
 しかし、持病の再発により病臥し、1714年(正徳4年11月2日)に、江戸本駒込において、数え年57歳で亡くなりました。

〇柳沢吉保関係略年表(日付は旧暦です)

・1658年(万治元年12月18日) 上野国館林藩士・柳沢安忠の長男(母は側室の佐瀬氏)として江戸市ヶ谷に生まれる
・1664年(寛文4年12月18日) 館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する
・1672年(寛文12年) 甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねる
・1672年(寛文12年11月15日) 家臣・曽祢貞尅の介錯で半元服を行う
・1673年(寛文13年11月15日) 元服する
・1675年(延宝3年7月12日) 父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名、家禄530石の小姓組番衆となる
・1675年(延宝3年12月18日) 旗本・曽雌盛定の娘・定子と婚約する
・1676年(延宝4年2月18日) 定子と婚姻する
・1677年(延宝5年) 曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参禅し、公案を授かる
・1677年(延宝5年6月16日) 安忠正室の青木氏が死去する
・1680年(延宝8年) 館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、家臣である吉保も幕臣となる
・1680年(延宝8年11月3日) 吉保は小納戸役に任ぜられる
・1681年(天和元年4月25日) 300石を加増され、830石となる
・1681年(天和元年6月3日) 綱吉の学問上の弟子となる
・1681年(天和元年7月11日) 江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す
・1681年(天和元年12月20日) 生母の了本院を江戸へ引き取る
・1682年(天和2年4月21日) 従六位下となり、布衣を許される
・1683年(天和3年1月11日) 200石を加増されて1030石となる
・1683年(天和3年6月25日) 義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きる
・1684年(貞享元年8月21日) 邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する
・1685年(貞享2年12月10日) 従五位下・出羽守に叙任される
・1686年(貞享3年1月11日) 1000石を加増され、2030石となる
・1687年(貞享4年9月18日) 父の安忠が死去する
・1688年(元禄元年6月10日) 西の丸下から一橋内の屋敷に移る
・1688年(元禄元年11月12日) 小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任、禄高も1万2000石とされて大名に列し、上総国佐貫城に封じられる
・1689年(元禄2年) 一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する
・1690年(元禄3年3月26日) 2万石を加増される
・1690年(元禄3年12月25日) 従四位下に昇叙し、出羽守如元
・1691年(元禄4年2月3日) 常盤橋内に屋敷を拝領する
・1691年(元禄4年3月22日) 将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う
・1692年(元禄5年11月14日) 3万石を加増される
・1694年(元禄7年1月7日) 石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる
・1694年(元禄7年12月9日) 老中格と侍従を兼帯する
・1698年(元禄11年7月21日) 大老が任ぜられる左近衛権少将に転任し、出羽守如元
・1694年(元禄7年1月7日) 1万石を加増され、川越城を拝領する
・1694年(元禄7年3月11日) 常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する
・1695年(元禄8年4月21日) 駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領する(後に六義園となる)
・1697年(元禄10年7月1日) 綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる
・1698年(元禄11年7月21日) 根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となる
・1698年(元禄11年8月2日) 寛永寺根本中堂が落成する
・1698年(元禄11年8月9日) 日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招く
・1698年(元禄11年8月11日) 勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行なう
・1701年(元禄14年11月26日) 吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗り、美濃守に遷任する
・1702年(元禄15年7月12日) 吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する
・1703年(元禄16年8月26日) 幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記す
・1704年(宝永元年12月21日) 綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
・1705年(宝永2年1月15日) 国替に際した家中禁令を改定する
・1705年(宝永2年2月19日) 甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務める
・1705年(宝永2年3月12日) 駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる
・1705年(宝永2年4月10~12日) 甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なう
・1705年(宝永2年5月3日) 甲斐国内の所持者に祈祷領米を寄付する
・1705年(宝永2年5月11日) 側室の飯塚染子が死去し、龍興寺に葬られる
・1705年(宝永2年5月13日) 黄檗宗寺院の萬福寺(京都府宇治市)の悦峯道章に禅問答を行なう
・1705年(宝永2年7月9日) 甲斐国内への菩提寺建立を発意する
・1705年(宝永2年8月13日) 自身の参禅録を編纂し、これを霊元上皇に対して題を出願する
・1705年(宝永2年9月23日) 霊元上皇は吉保に「護法常王録」の題を授ける
・1706年(宝永3年1月11日) 大老格に上り詰める
・1709年(宝永6年2月19日) 将軍綱吉が薨去し、幕府内の状況が一変する
・1709年(宝永6年6月3日) 隠居して保山元養と号し、吉里が柳沢家の家督を継承する
・1712年(正徳2年) 正室・定子が死去し、甲府近郊の岩窪村に建立された永慶寺(甲府市岩窪町)において葬儀を実施する
・1712年(正徳2年11月30日) 祖父・信俊の百回忌を川越領今市の高蔵寺において実施する
・1714年(正徳4年9月27日) 持病の再発により病臥する
・1714年(正徳4年11月2日) 江戸において、数え年57歳で死去する
・1714年(正徳4年11月12~21日) 遺骸は甲斐国へ移送され、永慶寺で葬儀が実施される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1288年(正応元)第96代天皇である後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
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