ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:翻訳家

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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の亡くなった日です。
 内田魯庵(うちだ ろあん)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月5日)に、江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれましたが、本名は貢(みつぎ)、別号は不知庵(ふちあん)と言いました。立教学校、東京専門学校、大学予備門 (のちの第一高等学校) などで英語を学んだものの、いずれも中退しています。
 遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
 一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
 1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
 その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
 進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。

〇内田魯庵の主要な著作

・評論『山田美妙大人の小説』(1888年)
・体系的文学論『文学一斑』(1892年)
・社会小説『くれの廿八日』(1898年)
・短編小説集『社会百面相』(1902年)
・随筆集『貘(ばく)の舌』(1921年)
・随筆集『バクダン』(1922年)
・文壇回想録『思ひ出す人々』(1925年)

☆内田魯庵関係略年表

・1868年(慶応4年閏4月5日) 江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれる 
・1887年(明治20年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する
・1888年(明治21年) 評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場する
・1889年(明治22年) 処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載する
・1890年(明治23年) 春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねる
・1892年(明治25年) 体系的文学論『文学一斑』を刊行、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビューする
・1894年(明治27年) 三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行する
・1898年(明治31年) 社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表する
・1901年(明治34年) 丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集する
・1902年(明治35年) 短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博す
・1905年(明治38年) トルストイ『復活』を翻訳する
・1906年(明治39年) トルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を出版する
・1911年(明治44年) 大逆事件に対する静かなる抵抗としてワイルド『悲劇・革命婦人』を朝日新聞に連載する
・1913年(大正2年) トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行う
・1921年(大正10年) 随筆集『貘(ばく)の舌』を刊行する
・1922年(大正11年) 随筆集『バクダン』を刊行する
・1925年(大正14年) 文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行する
・1929年(昭和4年)6月29日 東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の生まれた日です。
 高畑勲(たかはた いさお)は、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれ、1938年(昭和13)に同県津市に転居、1942年(昭和17)には、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学しました。1943年(昭和18)に父・浅次郎が岡山一中校長となるに伴って岡山市へ転居、岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入、1945年(昭和20)に太平洋戦争下の岡山空襲に遭っています。
 戦後、岡山大学付属中学校を経て、1954年(昭和29)に岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学、文学部仏文科に進みましたが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいました。1959年(昭和34)に東京大学卒業後、東映動画(現在の東映アニメーション)に演出助手として入社します。
 テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビューし、1968年(昭和43)に劇場用長編初演出の『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価されました。一方で、東映動画労働組合で副委員長に就き、組合運動を通じ宮崎駿と知り合い親交を深めます。
 1971年(昭和46)に宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍、1973年(昭和48)には、宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現在の日本アニメーション)へ移りました。1974年(昭和49)からテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』の全話を演出、1976年(昭和51)には、テレビアニメ『母を訪ねて三千里』の全話を演出します。
 1979年(昭和54)にテレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出しましたが、1981年(昭和56)には、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍しました。1982年(昭和57)に『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開、1984年(昭和59)には、『風の谷のナウシカ』をプロデュースします。
 1985年(昭和60)にスタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立、翌年には『天空の城ラピュタ』をプロデュースしました。その後、『柳川堀割物語』(1987年)、『火垂るの墓』(1988年)、『おもひでぽろぽろ』(1991年)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を脚本・監督し、高い評価を得ます。
 それらの業績により、紫綬褒章(1998年)、ロカルノ国際映画祭名誉豹賞(2009年)、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭名誉功労賞(2014年)、フランス芸術文化勲章オフィシエ、第43回ウィンザー・マッケイ賞(2015年)など数々の栄誉に輝きました。しかし、2017年(平成29)夏頃から体調を崩して入退院を繰り返し、翌年4月5日に、肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなっています。

〇高畑勲の主要な監督作品

・『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)タシケント国際映画祭監督賞
・『パンダコパンダ』(1972年)
・『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(1973年)
・『アルプスの少女ハイジ』(1974年、1975年、1979年)
・『母をたずねて三千里』(1976年、1980年)
・『赤毛のアン』(1979年)厚生省児童福祉文化賞
・劇場版『じゃりン子チエ』(1981年)
・『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)第36回毎日映画コンクール大藤信郎賞
・『柳川堀割物語』(1987年)第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞
・『火垂るの墓』(1988年)日本カトリック映画大賞、文化庁優秀映画、国際児童青少年映画センター賞、シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞、シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位
モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ
・『おもひでぽろぽろ』(1991年)1992年芸術選奨文部大臣賞
・『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、1995年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ
・『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞
・『かぐや姫の物語』(2013年)第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、2015年 東京アニメアワード監督賞

☆高畑勲関係略年表

・1935年(昭和10)10月29日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の子として生まれる
・1938年(昭和13) 三重県津市に転居する
・1942年(昭和17) 三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学する
・1943年(昭和18) 父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入する
・1954年(昭和29) 岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部文科二類に入学する
・1956年(昭和31)4月 東京大学文学部仏文科に進むが、同期に大江健三郎、海老坂武らがいた
・1959年(昭和34)3月 東京大学を卒業する
・1959年(昭和34)4月 東映動画に演出助手として入社する
・1968年(昭和43) 劇場用長編初演出『太陽の王子・ホルスの大冒険』で評価をうける
・1971年(昭和46)6月10日 宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクションへ移籍する
・1973年(昭和48) 宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現・日本アニメーション)へ移籍する
・1974年(昭和49) テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』全話を演出する
・1976年(昭和51) テレビアニメ『母を訪ねて三千里』全話を演出する
・1978年(昭和53) 宮崎駿の『未来少年コナン』に(絵コンテ・演出)参加する
・1979年(昭和54) テレビアニメ『赤毛のアン』を脚本・演出する
・1981年(昭和56) テレコム・アニメーションフィルムへ移籍する
・1982年(昭和57) 『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)を公開する
・1983年(昭和58) 『NEMO/ニモ』の準備作業をするが米国側と意見が合わず演出を降板する
・1984年(昭和59) 『風の谷のナウシカ』(プロデューサー)を公開する
・1985年(昭和60) スタジオジブリを宮崎駿・鈴木敏夫らと共に設立する
・1986年(昭和61) 『天空の城ラピュタ』(プロデューサー)を公開する
・1987年(昭和62) 『柳川堀割物語』(脚本・監督)を公開する
・1988年(昭和63) 『火垂るの墓』(脚本・監督)を公開する
・1989年(平成元) 『魔女の宅急便』(音楽演出)を公開する
・1991年(平成3) 『おもひでぽろぽろ』(脚本・監督)を公開する
・1994年(平成6) 『平成狸合戦ぽんぽこ』(原作・脚本・監督)を公開する
・1995年(平成7) 若手演出家養成のための第1期東小金井村塾を主催する
・1998年(平成10) 秋の紫綬褒章を受章する
・1999年(平成11) 『ホーホケキョ となりの山田くん』(脚本・監督)を公開する
・2009年(平成21) ロカルノ国際映画祭名誉豹(ひょう)賞を受賞する
・2012年(平成24) ドキュメンタリー映画『いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜』(出演)を公開する
・2013年(平成25) 『かぐや姫の物語』(原案・脚本・監督)を公開する
・2014年(平成26) フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で名誉功労賞を受賞する
・2015年(平成27) フランス芸術文化勲章オフィシエを受章、第43回ウィンザー・マッケイ賞を受賞する
・2017年(平成29)夏頃 体調を崩し入院する
・2018年(平成30)4月5日 肺がんのため東京都内の病院において、82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の生まれた日です。
 尾崎喜八(おざき きはち)は、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれました。1909年(明治42)に京華商業学校(現在の学校法人京華学園)を卒業し、中井銀行に就職、この頃から文学を愛好するようになります。
 1911年(明治44)に銀行を退職して三省堂器械標本部に就職、「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知りました。翌年に高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあけ、1913年(大正2)に三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社、1914年(大正3)には、武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始めます。
 1915年(大正4)に父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社、翌年には、ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載したものを『近代音樂家評傅』として刊行しました。1920年(大正9)に朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るものの、病気を理由として辞職し、東京に戻り、翌年には、「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿するようになります。
 1922年(大正11)に第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場、30歳を過ぎてから山へ登るようになり、1924年(大正13)に詩集『高層雲の下』、1927年(昭和2)に詩集『曠野の火』を刊行、“山と高原の詩人”と称されました。1928年(昭和3)に家督を相続し、東京都京橋区新川の実家へ転居、1933年(昭和8)に詩集『旅と滞在』、1938年(昭和13)には散文集『雲と草原』を刊行しています。
 1945年(昭和20)に太平洋戦争下の空襲で、東京の青山南町の家を焼かれ、戦後の1946年(昭和21)には、妻子と共に長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住みました。その中で、1948年(昭和23)に詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』、1951年(昭和26)には散文集『碧い遠方』を刊行しています。
 1952年(昭和27)に東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居、1955年(昭和30)に詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行、1958年(昭和33)には、串田孫一らと「アルプ」を創刊しました。1966年(昭和41)に神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居、晩年は鎌倉で過ごすこととし、翌年には紫綬褒章を受章します。
 それからも独自の詩境を深め、1969年(昭和44)に随筆集『夕べの旋律』、1970年(昭和45)に詩集『その空の下で』を刊行するなどしましたが、1974年(昭和49)2月4日に、神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなりました。

〇尾崎喜八の主要な著作

・翻訳『近代音楽家評伝』(1916年)
・詩集『空と樹木』(1922年)
・詩集『高層雲の下』(1924年)
・詩集『曠野の火』(1927年)
・詩集『旅と滞在』(1933年)
・随想集『山の絵本』(1935年)
・詩集『行人の歌』(1940年)
・詩集『高原詩抄』(1942年)
・詩集『花咲ける孤独』(1955年)
・詩集『田舎(いなか)のモーツアルト』(1966年)

☆尾崎喜八関係略年表

・1892年(明治25)1月31日 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕(かいそう)店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれる
・1898年(明治31) 新港町の築地小学校に入学する
・1904年(明治37) 京華商業学校(現在の学校法人京華学園)へ入学する
・1909年(明治42) 京華商業学校を卒業し、中井銀行に就職する
・1911年(明治44) 「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知り、銀行を退職して三省堂器械標本部に就職する
・1912年(明治45) 高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあける
・1913年(大正2) 三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社する
・1914年(大正3) 武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始める
・1915年(大正4) 父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社する
・1916年(大正5) ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載、『近代音樂家評傅』として刊行する
・1920年(大正9) 朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るが、病気を理由として辞職し、東京に戻る
・1921年(大正10) 「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿する
・1922年(大正11) 第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場する
・1924年(大正13) 詩集『高層雲の下』を刊行する
・1927年(昭和2) 詩集『曠野の火』を刊行する
・1928年(昭和3) 家督を相続し東京都京橋区新川の実家へ転居する
・1933年(昭和8) 詩集『旅と滞在』を刊行する
・1938年(昭和13) 散文集『雲と草原』を刊行する
・1945年(昭和20) 東京の青山南町の家を空襲で焼かれる
・1946年(昭和21) 『麥刈の月』を刊行、妻子とともに長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住む
・1948年(昭和23) 詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』を刊行する
・1951年(昭和26) 散文集『碧い遠方』を刊行する
・1952年(昭和27) 東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居する
・1955年(昭和30) 詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行する
・1958年(昭和33) 串田孫一らと「アルプ」を創刊する
・1966年(昭和41) 詩集『田舎のモーツァルト』刊行、神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居する
・1967年(昭和42) 紫綬褒章を受章する
・1969年(昭和44) 随筆集『夕べの旋律』を刊行する
・1970年(昭和45) 詩集『その空の下で』を刊行する
・1974年(昭和49)2月4日 神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・評論家・翻訳家・英文学者阿部知二の生まれた日です。
 阿部知二(あべ ともじ)は、岡山県勝田郡湯郷村(現在の美作市)で、中学校教師であった父・阿部良平、母・もりよの次男として生まれました。父の転勤により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町に転居し、1916年(大正5)に旧制姫路中学(現在の姫路西高校)へ入学しましたが、兄の影響で文学に親しみます。
 第八高等学校を経て、1923年(大正13)に東京帝国大学英文科へ入学し、翌年に久坂栄二郎、船橋聖一らと文芸部の雑誌「朱門」を刊行、処女小説『化生』を発表しました。1927年(昭和2)に卒業後、翌年に船橋聖一らと「文芸都市」の同人となり、1930年(昭和5)には、短編『日独対抗競技』、『白い士官』を発表し、認められます。
 同年、『主知的文学論』1934年(昭和9)に『メルヴィル』と評論集を刊行、1936年(昭和11)には、長編小説『冬の宿』で第10回文学界賞を受賞し、作家としての地位を確立ました。『幸福』(1937年)、『北京』(1938年)、『風雪』(1938~39年)などの長編小説で、ヒューマニズムの立場から青春と知識人の内面を描き、多くの読者を獲得します。
 1941年(昭和16)に徴用令を受け陸軍報道班員となり、南方へ赴き、帰国してからは、1943年(昭和18)に東北大学英文科講師となりました。太平洋戦争後は、長編小説『黒い影』、『おぼろ夜の話』(1949年)などで敗戦後の知的青年の苦悶を描き、1953年(昭和28)に「群像」に発表した長編小説『人工庭園』は、翌年木下恵介監督により「女の園」として、映画化されます。
 一方で、1953年(昭和28)にメーデー事件特別弁護人を務め、1964年(昭和39)に青野季吉らと安保改定反対声明を出し、1965年(昭和40)には、中野好夫らとベトナム反戦の統一行動を提起するなど、反動的な流れに進歩革新の側から抗しようとする態度を貫きました。シャーロック・ホームズシリーズや『シートン動物記』など多彩な翻訳も手がけ、各種評論も書きましたが、1973年(昭和48)4月23日に、東京において、69歳で亡くなっています。

〇阿部知二の主要な著作

・短編『日独対抗競技』(1930年)
・短編『白い士官』(1930年)
・短編集『恋とアフリカ』(1930年)
・短編集『海と愛撫』(1930年)
・評論集『主知的文学論』(1930年)
・評論集『メルヴィル』(1934年)
・長編小説『冬の宿』(1936年)第10回文学界賞受賞
・長編小説『幸福』(1937年)
・長編小説『北京』(1938年)
・長編小説『風雪』(1938~39年)
・長編小説『街』(1939年)
・評論集『文学論』(1939年)
・翻訳書『白鯨』メルビル作(1941~55年)
・長編小説『黒い影』(1949年)
・長編小説『おぼろ夜の話』(1949年)
・評論集『ヨーロッパ紀行』(1951年)
・翻訳書『二都物語』ディケンズ作(1951年)
・翻訳書『ロビンソン・クルーソー』デフォー作(1952年)
・長編小説『人工庭園』(1953年)
・長編小説『日月の窓』(1957~58年)
・長編小説『おぼろ月夜』(1959年)
・翻訳書『シャーロック・ホームズの冒険』コナン・ドイル作(1960年)
・長編小説『白い塔』(1961~62年)
・評論集『世界文学の流れ』(1963年)
・翻訳書『シートン動物記』全5巻(1965年)
・翻訳書『旧約聖書物語』ウォルター・デ・ラ・メア作(1971年)第18回サンケイ児童出版文化賞受賞
・長編小説『捕囚』未完(1971~73年)

☆阿部知二関係略年表

・1903年(明治36)6月26日 岡山県勝田郡湯郷村(現在の美作市)で、父・阿部良平、母・もりよの次男として生まれる
・1903年(明治36)8月 生後2ヶ月で島根県大社町に移る
・1913年(大正2) 9歳のとき姫路市坊主町に移る
・1916年(大正5) 旧制姫路中学(現・姫路西高校)へ入学する
・1920年(大正9) 旧制姫路中学を4年で修了し、第八高等学校へ進む
・1923年(大正13) 第八高等学校を卒業し、東京帝国大学英文科へ入学する
・1924年(大正14) 久坂栄二郎、船橋聖一らと「朱門」を刊行、処女小説『化生』を発表する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学英文科を卒業する
・1928年(昭和3) 船橋聖一らと「文芸都市」の同人となる
・1930年(昭和5) 短編『日独対抗競技』、『白い士官』を発表し、認められる
・1934年(昭和9) 評論集『メルヴィル』を刊行する
・1936年(昭和11) 長編小説『冬の宿』で第10回文学界賞を受賞する
・1941年(昭和16) メルビル作『白鯨』を初めて翻訳、徴用令を受け陸軍報道班員となる
・1942年(昭和17) 台湾、インドシナ、ジャワ、バリ島へ赴く 
・1943年(昭和18) 東北大学英文科講師となる 
・1953年(昭和28) 長編小説『人工庭園』を「群像」に発表、メーデー事件特別弁護人を務める
・1954年(昭和29) 『人工庭園』が「女の園」として木下恵介監督により、映画化される
・1964年(昭和39) 青野季吉らと安保改定反対声明を出す
・1965年(昭和40) 中野好夫らとベトナム反戦の統一行動を提起する
・1971年(昭和46) 翻訳書『旧約聖書物語』で第18回サンケイ児童出版文化賞を受章する
・1973年(昭和48)4月23日 東京において、69歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1833年(天保4)長州藩士・政治家木戸孝允(桂小五郎)の誕生日(新暦8月11日)詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」に52ヶ国が署名する詳細
1968年(昭和43)小笠原返還協定」が発効し、小笠原諸島がアメリカから日本に返還される詳細
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 今日は、明治時代前期の1892年(明治25)に、詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の生まれた日です。
 堀口大学(ほりぐち だいがく)は、東京・本郷区森川町(現在の東京都文京区)で、長岡藩士の家系の堀口九萬一(のち外交官)の長男(母は村上藩士江坂氏の長女)として生まれました。母が早世して祖母に育てられ、1904年(明治37)に、旧制の新潟県立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学、文学に親しみます。
 1909年(明治42)に上京し、与謝野寛・晶子の「新詩社」に入り、翌年には慶應義塾大学文学部予科に入学、「三田文学」に詩歌を発表したりしました。しかし、1911年(明治44)に中退して父の任地であるメキシコへ赴き、以後父に従って、ベルギー、スペイン、ブラジル、ルーマニアと、青春時代の大部分を海外で過ごしたものの、2度日本へ帰っています。
 フランス語に精通し、その間に訳詩集『昨日の花』(1918年)、第一詩集『月光とピエロ』(1919年)、第一歌集『パンの笛』(1919年)、翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)などを発表、自由な日本語を駆使した知的抒情詩人として登場しました。1925年(大正14)に帰国しましたが、同年に出版した訳詩集『月下の一群』は高く評価され、日本近代の代表的な名訳詩集とされます。
 1928年(昭和3)に日夏耿之介、西条八十らと詩誌『PANTHÉON』を出し、次いで翌年に独力で詩誌『オルフェオン』を刊行して後進を育てました。1932年(昭和7)に『昼顔』を発行しましたが発禁処分となるものの、1935年(昭和10)には日本ペンクラブの副会長に推されます。
 その後、フランス語訳に専念しますが、戦時下において著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けました。戦火を逃れるため新潟県に疎開していましたが、太平洋戦争後は、著作活動を再開し、詩集『人間の歌』(1947年)などを出します。
 1950年(昭和25)に疎開先から神奈川県葉山町へ転居、1957年(昭和32)に日本芸術院会員となり、1959年(昭和34)に詩集『夕の虹』で第10回読売文学賞を受賞しました。1970年(昭和45)に文化功労者、1979年(昭和54)には文化勲章を受章したものの、1981年(昭和56)3月15日に、神奈川県葉山町において、89歳で亡くなっています。

〇堀口大学の主要な著作

・訳詩集『昨日の花』(1918年)
・詩集『月光とピエロ』(1919年)
・歌集『パンの笛』(1919年)
・詩集『水の面 (おもて) に書きて』(1921年)
・詩集『新しき小径』(1922年)
・翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)
・訳詩集『月下の一群』(1925年)
・詩集『砂の枕』(1926年)
・詩集『人間の歌』(1947年)
・詩集『夕の虹』(1957年)第10回読売文学賞受賞
・詩集『月かげの虹』(1971年)
・詩集『沖に立つ虹』(1974年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1944年(昭和19)「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員が強化される詳細
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