遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1866年(慶応2) | 洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日) | 詳細 |
1868年(慶応4) | 明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌) | 詳細 |
1928年(昭和3) | 「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする | 詳細 |
1945年(昭和20) | 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人) | 詳細 |
1946年(昭和21) | GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される | 詳細 |