
その前に、羽黒の戦いなどがあったものの、家康・信雄が小牧山に、秀吉が犬山城に入って、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥っている時に、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策しました。それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発します。
7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告しました。これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入ります。
8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走しました。しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退します。
一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取りました。午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなります。
秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けました。翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。
その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。