ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:羽仁もと子

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 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、羽仁もと子が東京・雑司ヶ谷に自由学園を開校した日です。
 自由学園(じゆうがくえん)は、大正時代の1921年(大正10)4月15日に、羽仁吉一・もと子夫妻によって、現在の東京都豊島区雑司ガ谷に創立された私立学校です。小学校を終えた女子のために、当時の「高等女学校令」によらないで設置され、カリキュラムは文部省令にはよらず5つの家族形態に分け、日常生活を小集団で自律的に管理させていく方針をとり、キリスト教的自由主義による徹底的な生活教育を行ってきました。
 1934年(昭和9)に校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に移転しましたが、旧校舎は「自由学園明日館」として残され、1997年(平成9)に国の重要文化財に指定されています。また現在は、初等部(小学校)、中等科(中学校)、高等科(高等学校)からなり、1949年(昭和24)には高等教育にあたる最高学部が設置されましたが、これは「学校教育法」に定められた大学によらず、2年課程と4年課程からなり、各種学校扱いとなってきました。
 尚、2007年(平成19)には、幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園しています。また、長年にわたり中等科、高等科は男女別学でしたが、2024年(令和6)に、中等部・高等部を共学化、男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組しました。

〇自由学園関係略年表

・1921年(大正10)4月15日 東京府北豊島郡高田町雑司が谷(現在の東京都豊島区西池袋2丁目)に「高等女学校令」によらない学校として開校(女子部)する
・1927年(昭和2) 初等部を開設する
・1934年(昭和9) 校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に完全移転する(旧校舎は「自由学園明日館」として現存)
・1935年(昭和10) 男子部を開設する
・1938年(昭和13) 北京生活学校を開校する
・1938年(昭和13) 財団法人化(財団法人自由学園)する
・1939年(昭和14) 幼児生活団を開設する
・1945年(昭和20) 北京生活学校を閉校する
・1949年(昭和24) 最高学部を開設する
・1951年(昭和26) 学校法人化(学校法人自由学園)する
・2007年(平成19) 幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園する
・2024年(令和6) 中等部・高等部を共学化。男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組する

☆羽仁 もと子(はに もとこ)とは?

 明治から昭和時代の教育家・婦人ジャーナリストの先駆者です。明治時代前期の1873年(明治6)9月8日に、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。
 1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。
 1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。
 1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。
 1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。
 長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。
 1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。
 1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。
 しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1730年(享保15)江戸幕府が上米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻す(新暦5月31日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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hanimotoko01

 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子が生まれた日です。
 羽仁もと子(はに もとこ)は、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。
 1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。
 1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。
 1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。
 1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。
 1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。
 1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。
 太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇羽仁もと子関係略年表

・1873年(明治6)9月8日 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれる
・1879年(明治12) 八戸小学校へ入学する
・1889年(明治22) 上京し、東京府立第一高等女学校2年生に編入する
・1890年(明治23) 東京女子高等師範学校を目指すも不合格となり、洗礼を受けてキリスト教徒となるが無教会の立場であった
・1891年(明治24) 第一高等女学校を卒業、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学する
・1892年(明治25) 帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚するが、半年で離婚する
・1897年(明治30) 再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社する
・1899年(明治32) 婦人として初めて新聞記者の仕事にたずさわる
・1901年(明治34) 職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚する
・1903年(明治36) 夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生する
・1904年(明治37) 「家計簿」を創案して出版する
・1905年(明治38) 二女・涼子が誕生する
・1906年(明治39) 「主婦日記」を出版する
・1908年(明治41) 羽仁夫妻が独自に出版していた雑誌「家庭女学講義」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立する
・1909年(明治42) 三女・恵子が誕生する
・1914年(大正3) 雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版する
・1915年(大正4) 「新少女」を発刊する
・1921年(大正10) 読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立する
・1925年(大正14) 学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転する
・1927年(昭和2) 羽仁もと子著作集を刊行する
・1928年(昭和3) 自由学園初等部を設立する
・1930年(昭和5) 全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立される
・1931年(昭和6) 「家庭生活合理化展覧会」を創作する
・1932年(昭和7) 世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国する
・1935年(昭和10) 凶作の東北6か村に農村セッツルメント運動を始め、自由学園に男子部が加わる
・1938年(昭和13) 自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催する
・1939年(昭和14) 自由学園に幼児生活団を作る
・1949年(昭和24) 自由学園男子部最高学部(大学)を開学する
・1950年(昭和25) 自由学園女子部最高学部(大学)を開学する
・1951年(昭和26) 神奈川県二宮、学園創立30周年記念として「友情庵」が贈られる
・1955年(昭和30)10月26日 夫・吉一が75歳で亡くなる
・1957年(昭和32)4月7日 東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細


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