ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:美術

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 今日は、平成時代の2007年(平成19)に、日本画家高山辰雄の亡くなった日です。
 高山辰雄(たかやま たつお)は、明治時代後期の1912年(明治45)6月26日に、大分県大分市で鍛冶業の家に生まれました。1930年(昭和5)に上京し、荻生天泉、小泉勝爾に師事し、翌年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学します。
 松岡映丘の画塾に入って師事し、在学中の1934年(昭和9)に帝展に『温泉』が初入選しました。1936年(昭和11)に卒業制作の『砂丘』が首席となって卒業し、映丘の木の華社へ入り、翌年には映丘と門下による日本画研究団体の瑠爽画社に参加します。
 1939年(昭和14)から新文展に出品する一方、1941年(昭和16)には一采社の結成に参加しました。太平洋戦争後は、日展に出品し、1946年(昭和21)に『浴室』、1949年(昭和24)に『少女』が特選となって注目されます。
 以後も日展に出品を続け、1953年(昭和28)から審査員、評議員、理事を経て、1975年(昭和50)には日展理事長となりました。また、1960年(昭和35)に『白翳』で日本芸術院賞、1964年(昭和39)に『穹』で芸術選奨文部大臣賞、1970年(昭和45)には日本芸術大賞と数々の栄誉に輝きます。
 そして、1972年(昭和47)に日本芸術院会員、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)には文化勲章も受章しました。人間存在を追求した人物画にすぐれ、1985年(昭和60)には、「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催したりしましたが、2007年(平成19)9月14日に、東京において、95歳で亡くなっています。

〇高山辰雄の主要な作品

・『温泉』(1934年)帝展初入選
・『砂丘』(1936年)卒業制作の首席 東京藝術大学蔵
・『浴室』(1946年)第2回日展特選 大分県立芸術会館蔵
・『少女』(1949年)第5回日展特選
・『沼』 (1956年)日本芸術院蔵
・『白翳(はくえい)』 (1960年)日本芸術院賞受賞
・『穹(きゅう)』 (1964年) 芸術選奨文部大臣賞受賞 東京国立近代美術館蔵
・『食べる』(1973年)大分県立芸術会館蔵
・『日(六曲屏風)』(1985年)
・『月(六曲屏風)』(1985年)成川美術館蔵
・『赤い服の少女』(1997年)康耀堂美術館蔵
・『二人』(1997年)康耀堂美術館蔵
・『草原の朝』(2001年)康耀堂美術館蔵
・『星辰』

☆高山辰雄関係略年表

・1912年(明治45)6月26日 大分県大分市で鍛冶業の家の二男として生まれる
・1930年(昭和5) 上京し、荻生天泉、小泉勝爾に師事する
・1931年(昭和6) 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学する
・1933年(昭和8) 松岡映丘の画塾木之華社に入る
・1934年(昭和9) 在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選する
・1936年(昭和11) 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科の卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業する
・1937年(昭和12) 映丘門下の浦田正夫、杉山寧ら結成した瑠爽(るそう)画社に参加する
・1940年(昭和15) 瑠爽画社が解散する
・1941年(昭和16) 瑠爽画社旧会員を中心として新たに一采社を結成する
・1943年(昭和18) 川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会の第1回展に出品する
・1946年(昭和21) 第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる
・1949年(昭和24) 第5回日展に「少女」を出品し、再び特選となる
・1951年(昭和26) 第7回日展で「樹下」が白寿賞となる
・1959年(昭和34) 第2回新日展に「白翳」を出品、日展評議員となる
・1960年(昭和35) 「白翳」で日本芸術院賞を受賞する
・1963年(昭和38) 第7回新日展に「穹」を出品する
・1964年(昭和39) 「穹」で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1969年(昭和44) 日展理事となる
・1970年(昭和45) 日本芸術大賞を受賞する
・1972年(昭和47) 日本芸術院会員となる
・1973年(昭和48) 個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、日展常務理事となる
・1975年(昭和50) 日展理事長となり、美術家代表団として中国訪問する
・1977年(昭和52) 日展理事長を辞める
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 東京芸術大学客員教授となり、文化勲章を受章する
・1983年(昭和58) 大分市名誉市民に推挙される
・1985年(昭和60) 東京はじめ日本の5都市で「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催する
・1987年(昭和62) 世田谷区名誉区民として顕彰され、『文芸春秋』の表紙絵を担当する
・1989年(平成元) 東京国立近代美術館で回顧展を開催する
・1990年(平成2) 平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作する
・1993年(平成5) 「聖家族 1993年」と題した個展を開催する
・1995年(平成7) 海外で初めての個展をパリ、エトワール三越で開催する
・1999年(平成11) 高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納する
・2006年(平成18) 第38回日展に「自寫像2006年」を出品する
・2007年(平成19)9月14日) 東京都世田谷区の自宅において、95歳で亡くなる

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、日本画家堂本印象の亡くなった日です。
 堂本印象(どうもと いんしょう)は、明治時代後期の1891年(明治24)12月25日に、京都の醸造業の家に生れましたが、本名は三之助と言いました。1910年(明治43)に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、西陣の織物工房に勤め、図案描きの仕事をしていましたが、画家を志して、1918年(大正7)に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に入学します。
 在学中から西山翠嶂に師事し、1919年(大正8)、帝展初出展作『深草』が入選、1921年(大正10)の第3回帝展では『調鞠図』が特選、翌年の第4回帝展出品の『訶梨帝母』で無鑑査となり、帝展審査員ともなりました。1924年(大正13)には、研究科を修了し、第6回帝展に出展した『華厳』は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められ、寺院の襖絵などを数多く制作します。
 1934年(昭和9)より画塾東丘社を主宰、1936年(昭和11)より京都市立絵画専門学校教授、1944年(昭和19)には帝室技芸員ともなりました。太平洋戦争後も日展を中心に活躍を続け、日本画における抽象表現の追求へと向かい、1950年(昭和25)に日本芸術院会員、1961年(昭和36)には文化勲章を受章します。
 翌年密教学芸賞も受賞し、1966年(昭和41)に京都府立常本印象美術館も開館しましたが、1975年(昭和50)9月5日に、京都において、83歳で亡くなりました。

〇堂本印象の主要な作品
・『深草(ふかくさ)』(1919年)第1回帝展入選
・『調鞠(ちょうきく)図』(1921年)第3回帝展特選
・『訶梨帝母(かりていも)』(1922年)第4回帝展無鑑査 京都国立近代美術館蔵
・『瑞彩』(1924年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・『華厳(けごん)』(1925年)第6回帝展出品 帝国美術院賞受賞
・『木華開耶媛』(1929年)京都府立堂本印象美術館蔵
・『蒼龍』(1933年)東福寺本堂蔵
・『瓜・西瓜』(1934年)東寺(教王護国寺)蔵
・『水郷欲雨』(1935年)京都市美術館蔵
・『柳に鷺』(1935年)信貴山成福院蔵
・『柳樹と流水』(1936年)醍醐三宝院蔵
・『高野山根本大塔壁画』(1936~43年)
・『四天王寺宝塔壁画』(1939~43年)1945年大阪大空襲で焼失
・『朝顔』(1942年)東京国立近代美術館蔵
・『新聞』(1950年)京都国立近代美術館蔵
・『聖徳太子憲法御宣布』(1951年)最高裁判所蔵
・『婦女喫茶』(1958年)智積院宸殿蔵
・『規範への抵抗』(1960年)京都国立近代美術館蔵
・『栄光の聖母マリア』(1962年)大阪カテドラル聖マリア大聖堂蔵
・『遍界芳彩』(1969年)西芳寺(苔寺)西来堂蔵
・『香雲満堂』(1971年)法然院望西閣蔵
・『静風自来』(1971年)法然院方丈蔵
・『兎春野に遊ぶ』京都府立堂本印象美術館蔵 (1999年 特殊切手「切手趣味週間」図案)
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 今日は、江戸時代後期の1820年(文政3)に、備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の亡くなった日ですが、新暦では10月10日となります。
 浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう)は、江戸時代中期の1745年(延享2)に、備前岡山藩の支藩鴨方藩士の家に生まれましたが、姓は紀、名は弼(ひつ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門と言いました。7歳のとき父を亡くし、家督を嗣ぎましたが、母一人子一人の孤独な境遇となります。
 9歳で『小学』を読み、10歳で藩校へ入学し、儒学を学び、16歳の年には藩学において大生となりました。この年に1歳年上の藩主池田政香の御側詰となりましたが、政香は1768年(明和5)に25歳で没します。
 1774年(安永3)から翌年にかけての江戸詰の際には、崎門学派の玉田黙翁に師事して朱子学を修め、多紀藍渓について琴を学び、また自宅を訪れた司馬江漢や春木南湖、海量ら文人墨客と交流、『玉堂琴譜』を出版しました。1779年(安永8)には、明の顧元昭作の琴を手に入れ、のちその銘「玉堂清韻」によって号を玉堂とします。
 武士としては、大目付にまで進みましたが、次第に好事の世界へ傾斜し、1787年(天明7)43歳のときには、大取次御小姓支配役へと左遷されました。48歳で妻を亡くし、自由な文人生活にあこがれて、1794年(寛政6)50歳のときには、春琴、秋琴の2児を連れて脱藩、画筆と琴を持って全国を遊歴しながら、詩情豊かな山水図を多く描くようになります。
 晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送り、詩人としての評価も得ましたが、1820年(文政3年9月4日)に、数え年76歳で亡くなりました。

〇浦上玉堂の主要な作品

・『凍雲篩雪図(とううんしせつず)』川端康成記念会所蔵 国宝
・『山中結廬図』(1792年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『煙霞帖』(1811年)梅沢記念館蔵 国指定重要文化財
・『秋色半分図』(1818年)愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・『酔雲醒月図』(1818年)愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・『山水図(深山渡橋図)』(1818年)愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・『五言絶句』(1818年)愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・『山紅於染図(さんこうおせんず)』愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・『双峯挿雲図』出光美術館蔵 国指定重要文化財
・『籠煙惹滋図(ろうえんじゃくじず)』出光美術館蔵 国指定重要文化財
・『一晴一雨図』個人蔵 国指定重要文化財
・『山雨染衣図』個人蔵 国指定重要文化財
・『鼓琴余事帖』個人蔵 国指定重要文化財
・『野橋可立図』

〇浦上玉堂の主要な著作

・『玉堂琴譜』
・『玉堂詩集』
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 今日は、江戸時代後期の1863年(文久3)に洋画家原田直次郎の生まれた日ですが、新暦では10月12日となります。
 原田直次郎(はらだ なおじろう)は、江戸小石川において、岡山藩士で幕府蕃書調所出役の兵学者だった父・原田一道と母・あいの次男として生まれました。1868年(明治元)に岡山に転居しましたが、翌年に上京し、浅草の池田侯の邸に住みます。
 1870年(明治3)に大阪に転居し、大阪開成学校に入学してフランス語を学びましたが、1873年(明治6)に東京の駿河台に転居し、東京外国語学校フランス語科に入学しました。在学中に山﨑成章に洋画を学ぶようになり、1881年(明治14)卒業後に大久保さだと結婚します。
 翌年、天絵学舎で高橋由一に師事して洋画を学び、1884年(明治17)に絵を学ぶため、妻子を残してドイツへ自費留学して、ミュンヘンの美術学校に入学しました。ガブリエル・マックスについて写実技法と歴史画を学び、『ドイツの少女』、『靴屋の阿爺(おやじ)』(2002年に国指定重要文化財)、『風景』などを制作します。
 1887年(明治20)に帰国、翌年本郷にアトリエを新築、1889年(明治22)からアトリエで画塾「鐘美舘」を開き、和田英作、三宅克己らの後進を指導しました。この年同志たちと明治美術会を創立、翌年第3回内国勧業博覧会の審査官となり、大作『騎竜観音』(2007年に国指定重要文化財)を出品したほか、シカゴ万国博覧会のための鑑査官などを務めます。
 1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に歴史画の大作『素尊斬蛇』を出品し妙技3等賞を受賞しました。この間、森鴎外の『於母影』などの挿絵や『めさまし草』の表紙絵も描きます。
 しかし、病を得て1898年(明治31)に神奈川県子安村に転居して療養したものの、翌年12月26日に、東京の病院において、36歳の若さで亡くなっています。

〇原田直次郎の主要な作品

・『神父』(1885年)信越放送株式会社蔵
・『老人像』(1886年頃)三重県立美術館蔵
・『老人』(1886年頃)東京芸術大学大学美術館蔵
・『靴屋の阿爺(おやじ)』(1886年)東京芸術大学大学美術館蔵 国指定重要文化財
・『風景』(1886年)岡山県立美術館蔵
・『ドイツの少女』(1886年頃)東京国立博物館蔵
・『西洋婦人像』(制作年不詳)岡山県立美術館蔵
・『島津久光像』(1888年)尚古集成館蔵
・『上野東照宮』(1889年)岡山県立美術館蔵
・『毛利敬親像』(1890年)山口県立山口博物館蔵 第3回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『騎竜観音(きりゅうかんのん)』(1890年)護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託)第3回内国勧業博覧会出品 国指定重要文化財
・『新島襄像』(1890年)同志社大学同志社社史資料センター蔵
・『横井小楠像』(1890年)同志社大学同志社社史資料センター蔵
・『素尊斬蛇』(1891年)第4回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『雪景』(制作年不詳)森鴎外記念館(津和野町)蔵
・『連池』(制作年不詳)森鴎外記念館(津和野町)蔵
・『徳富淇水像』(1893年)水俣市立蘇峰記念館蔵
・『高橋由一像』(1993年)東京芸術大学大学美術館蔵
・『伊藤快彦像』(制作年不詳)京都市美術館蔵
・『海浜風景』(1897年)東京芸術大学大学美術館蔵 第8回明治美術会展出品
・『安藤信光像』(1898年)東京国立博物館蔵 絶筆
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 今日は、江戸時代後期の1835年(天保6)に、南画家田能村竹田の亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
 田能村竹田(たのむら ちくでん)は、1777年(安永6年6月10日)に、豊後国竹田(現在の大分県竹田市)岡藩藩医の田能村碩庵の次男(母は水島氏)として生まれましたが、名は孝憲と言いました。藩校由学館に学び、成績優秀でしたが、1794年(寛政6年)、18歳のときに母と兄を亡くし、やがて医業を修めるようになり家の職を継ぎます。
 22歳で由学館に出仕して儒員となり、唐橋君山の下で『豊後国志』の編纂に従うなどして頭取にまで進みました。1801年(享和元)に編纂事業のため江戸に下向、かねてから文通していた谷文晁を訪問します。
 27歳で家督を相続し、12人扶持を給せられましたが、1805年(文化2)には、眼病治療と儒学を学ぶため、京都へ約2年間遊学しました。1811年(文化8)と翌年の岡藩の大一揆に際し、二度にわたって藩政改革の建白書を無視され、病気療養もあって、1813年(文化10)に辞職して、隠遁します。
 それ以後、豊後と京阪との間を往来しながら、頼山陽、岡田半江、浦上春琴、菅茶山、青木木米などの文人墨客と交わりました。その中で、清高な画風の南画を多く描きましたが、詩歌・文章・書・茶香などにも通暁しています。
 特に、画帖『亦復一楽帖 』(1830年)や師友や弟子などの小伝を収録した『竹田荘師友画録』(1833年脱稿)、画論や作品、画家評などを短文百ヶ条で綴った『山中人饒舌』(1835年)などが知られてきました。門下として高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入らを育てましたが、1835年(天保6年8月29日)に、大坂の藩邸において、数え年59歳で亡くなっています。

〇田能村竹田の主要な作品

<国指定重要文化財の作品>
・『梅花図(花卉図)』(1808年)大分市美術館蔵
・『四季花鳥図』(1809年)大分市美術館蔵
・『雁来紅群雀図』(1813年)大分市美術館蔵
・『芙蓉残雪図(富士図)』(1819年)大分市美術館蔵
・『白鶴図』(1822年)大分市美術館蔵
・『月下芦雁図』(1823年)大分市美術館蔵
・『梅花書屋図及題詩』(1824年)大分市美術館蔵
・『秋景山水図』(1828年)大分市美術館蔵
・『渓荘趁約図』(1828年)大分市美術館蔵
・『柳陰捕魚図』(1828年頃)大分市美術館蔵
・『船窓小戯帖』(1829年)個人蔵
・『稲川舟遊図』(1829年)大分市美術館蔵
・『冬籠図』(1826~30年)大分市美術館蔵
・『君子延年図』(文政末年頃)大分市美術館蔵
・『松鶴図(白鶴図)』(天保期)大分市美術館蔵
・『騎馬武者図』(天保期)大分市美術館蔵
・画帖『亦復一楽帖 (またまたいちらくじょう) 』(1830年)寧楽美術館蔵
・『歳寒三友双鶴図』(1831年)個人蔵、大分県立美術館寄託
・『暗香疎影図』(1831年)大分市美術館蔵
・『桃花流水図』(1832年)大分市美術館蔵
・『曲渓複嶺図及題詩』(1832年)大分市美術館蔵
・『秋渓間適図』(1832年)大分市美術館蔵
・『松巒古寺図』(1833年)東京国立博物館蔵
・『梅花書屋図』(1832年)出光美術館蔵
・『盆卉図』(1833年)大分市美術館蔵
・『澗道石門図』(1834年)大分市美術館蔵
・『浄土寺図』(1834年)大分市美術館蔵
・『漁樵問答図』(1834年)大分市美術館蔵
・『秋渓趁約図』(1834年)大分市美術館蔵

〇田能村竹田の主要な著書

・画論『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』(1834年)
・交友録『竹田荘師友画録(ちくでんそうしゆうがろく)』(1833年脱稿、没後に刊行)
・研究書『填詞図譜(てんしずふ)』
・『屠赤瑣瑣録』
・『竹田荘泡茶訣』
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