
そして、1935年(昭和10)2月18日の貴族院本会議で菊池武夫議員が、美濃部達吉らの著作を挙げて天皇機関説を排撃し、2月25日には貴族院本会議にて、美濃部達吉の「一身上の弁明」演説が行われます。これを契機に国家主義団体、軍部、官僚などによる国体明徴運動が起こり、攻撃されて政治問題化しました。
その結果、美濃部達吉は貴族院議員を辞職させられ、その『憲法撮要』、『憲法講話』など主著は発禁とされ、天皇機関説は大学の講壇から排除されるに至ります。これにより、大日本帝国憲法下における立憲主義の統治理念は、公然と否定されることとなりました。
これに関連して、1936年(昭和13)2月21日に、東京府下吉祥寺町の美濃部宅へ右翼の小田十壮が偽名を使い弁護士と称して訪問し、隠し持っていたけん銃を発砲、美濃部が重傷を負う「天皇機関説テロ事件」が起きています。
1897年(明治30)に大学卒業後、内務省に勤務し、1899年(明治32)よりドイツ、フランス、イギリスに留学することになります。1902年(明治35)帰国後、すぐに東京帝国大学法科大学に助教授として向かい入れられ、2年後教授になりました。
1911年(明治44)帝国学士院会員になり、1912年(大正元)に出した『憲法講話』で、天皇機関説を発表して、君権絶対主義を唱える上杉慎吉と論争することになります。1932年(昭和7)に貴族院議員となりますが、1935年(昭和10)国体明徴問題で右翼・軍部に攻撃され、貴族院議員を辞任し、著書「逐条憲法精義」「憲法撮要」などは発禁処分となりました。これに関連して、1936年(昭和13)2月21日に、東京府下吉祥寺町の美濃部宅へ右翼の小田十壮が偽名を使い弁護士と称して訪問し、隠し持っていたけん銃を発砲、美濃部が重傷を負う「天皇機関説テロ事件」が起きています。
敗戦後の1946年(昭和21)に枢密顧問官に任じられ、現行憲法案の審議に参加しましたが、1948年(昭和23)5月23日に76歳で、亡くなりました。東京都知事を務めた、美濃部亮吉は長男です。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
799年(延暦18) | 奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日) | 詳細 |
1800年(寛政12) | 第120代の天皇とされる仁孝天皇の誕生日(新暦3月16日) | 詳細 |
1911年(明治44) | 関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印(4月4日公布)される | 詳細 |
1942年(昭和17) | 「食糧管理法」公布される | 詳細 |
1951年(昭和26) | 東ドイツの東ベルリンで世界平和評議会第1回総会が始まる | 詳細 |
1988年(昭和63) | 内科学者・第10代東北大学学長黒川利雄の命日 | 詳細 |
1990年(平成2) | 新交通システムである神戸新交通六甲アイランド線[通称:六甲ライナー]が開業する | 詳細 |