
平安の乱世を舞台に、武士の死をめぐり、妻や盗賊等の告白が一つ一つ食違う多義的な真実を映画化した異色時代劇です。第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第1回ブルーリボン賞で脚本賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞しました。
本作の受賞は、国際的にはほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめ、日本映画産業が国際市場に進出する契機となります。
1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
887年(仁和3) | 第58代天皇とされる光孝天皇の命日(新暦9月17日) | 詳細 |
1617年(元和3) | 第107代の天皇とされる後陽成天皇の命日(新暦9月25日) | 詳細 |
1896年(明治29) | 北海道函館区の明治29年箱館大火「テコ婆火事」で、2,280戸が焼失する | 詳細 |
1931年(昭和6) | 官僚・政治家・総理大臣濱口雄幸の命日 | 詳細 |
1945年(昭和20) | 占領軍用の慰安施設のために、特殊慰安施設協会(RAA)が設立される | 詳細 |
1988年(昭和63) | 奈良そごう建設予定地で大量の木簡が発見され、長屋王邸跡であることが判明する | 詳細 |
1993年(平成5) | 東京港連絡橋(レインボーブリッジ)が開通する | 詳細 |