ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:織田信長

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 安土桃山時代の1575年(天正3)に、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日ですが、新暦では6月29日となります。
 長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
 決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
 現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
 以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』(第八巻)

三州長篠御合戦の事

 五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
 志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
 五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
 信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
 かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
 討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
 中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
 岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。

【注釈】

[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。

<現代語訳>

 5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
 5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
 設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
 5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
 信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
 このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
 5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
 中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
 5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
 また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
 信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。
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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、豊臣秀吉により茶人千利休が自刃させらけた日ですが、新暦では4月21日となります。
 千利休(せん の りきゅう)は、戦国時代の1522年(大永2)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれた(1521年生誕説あり)とされますが、幼名は田中与四郎と言いました。
 初め茶の湯を北向道陳に学び、10歳代で武野紹鴎に師事しましたが、19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。1544年(天文13)に、松屋久政らを招いて茶会を開いた記録が残され、茶人としての才能をあらわしました。
 1568年(永禄11)に織田信長が上洛し、翌年以降堺を直轄地としていく過程で、関わりをもつようになります。1574年(天正2)には、織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれ、翌年には、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受けました。
 1582年(天正10)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉に仕えるようになります。翌年には、秀吉の依頼て茶室待庵を完成させ、近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めました。
 1585年(天正13)に、秀吉が禁中茶会を催した際に、正親町天皇に茶を献じて、利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立、同年に黄金の茶室を設計、1587年(天正15)には、北野大茶湯を主管します。その中で、村田珠光以来の侘び茶を大成、茶会の形式、点前作法などに創意工夫を施し、織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子を育てました。
 1590年(天正18)には秀吉の小田原攻略に従軍しますが、翌年に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受けて堺に蟄居させられます。そして、1591年(天正19年2月28日)に京都の聚楽屋敷内において、数え年70歳で切腹させられました。
 その後、利休の茶道の流れは3世宗旦から分かれた表千家、裏千家、武者小路千家の3千家として今日に伝えられています。

〇千利休関係略年表(日付は旧暦です)

・1522年(大永2年) 堺の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれる
・1544年(天文13年) 奈良の塗師松屋久政らを招いて茶会を開く
・1574年(天正2年3月) 織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受ける
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変及び山崎の戦いの後は豊臣秀吉に仕える
・1582年(天正10年8月) 秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられる
・1583年(天正11年3月) 茶室待庵(現存する利休作の唯一の茶室)を完成させる
・1583年(天正11年5月) 秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤める
・1584年(天正12年) 秀吉が築城した大坂城内に二畳の茶室を作る
・1585年(天正13年) 秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立
・1587年(天正15年) 北野大茶湯を主管する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原攻略に従軍する
・1591年(天正19) 利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受け堺に蟄居させられる
・1591年(天正19年2月28日) 秀吉により自刃させられる
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 今日は、戦国時代の1573年(天正元)に、織田信長との一乗谷城の戦いに敗れた朝倉義景が自決し、朝倉氏が滅亡した日ですが、新暦では9月16日となります。
 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、1573年(天正元年8月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた合戦でした。
 1570年(元亀元)に織田・徳川姉川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で、「姉川の戦い」があり、織田・徳川連合軍が勝利し、浅井氏・朝倉氏は苦境に追い込まれていきます。
 1573年(天正元年4月)に織田信長と対抗していた武田信玄が死去しました。この機に、信長は敵対していた室町幕府第15代将軍足利義昭を同年7月に京都から追放します。
 そして、同年8月8日に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入り、浅井長政の小谷城を攻撃しますが、長政は5千の軍勢で籠城しました。
 これを援護するために、朝倉義景は2万の大軍をもって与呉(よご)に本陣を敷きますが、朝倉方に寝返りが出て形勢が不利となり、8月13日に、大嶽砦の陥落を知った義景は撤退を決断し、15日には一乗谷城に帰陣します。
 織田信長はその後を追い、17日に大軍をもって、越前に攻め入り、18日には一乗谷の市街地を制圧して、焼き払いました。
 義景はそれ以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、大野郡へと移り、六坊賢松寺を仮の宿所とします。ところが、20日には裏切りが出て、宿舎を囲まれ、抵抗するものの、義景の自刃に至りました。
 この後、織田信長は軍を北近江に返し、小谷城を攻撃、浅井氏も滅ぼします。
 尚、一乗谷城跡は、現在土塁や庭園石組みが残されていて、1930年(昭和5)に史跡名勝に指定、1973年(昭和48)に「一乗谷朝倉氏遺跡」として国の特別史跡となり、発掘調査後、城下町の街路や一部建物、下城戸門の石垣などの復元が行われました。

〇「一乗谷朝倉氏遺跡」とは?

 福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏五代の遺跡です。
 一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けました。
 また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。
 何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されていました。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されています。
 江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものでした。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。
 実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かりました。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。
 近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示がありました。尚、2006年(平成18)に、財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」にも選定されています。
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催された日ですが、新暦では7月16日となります。
 これは、本能寺の変後、山崎の合戦を経て、織田氏諸将が尾張の清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議でした。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。
 この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながりました。

<清洲会議での主な領地再分配>
・嫡孫(新領主)・三法師は近江国坂田郡と安土城
・次男・信雄は尾張国
・三男・信孝は美濃国
・四男・柴秀勝(秀吉の養子)は丹波国
・柴田勝家は越前国を安堵の上で、長浜城(柴田勝豊に)と北近江3郡の割譲
・丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡加増
・池田恒興は摂津国から3郡加増
・羽柴秀吉は河内国と山城国が増領

〇本能寺の変とは?

 安土桃山時代の1582年(天正10年6月2日)に、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した事件です。これは、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。
 光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。
 それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。
 その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで明智光秀との合戦に及びます。
 その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中、小栗栖(おぐるす)において、光秀は落ち武者狩りの農民に殺害されました。

〇賤ヶ岳の戦いとは?

 安土桃山時代の1583年(天正11)に、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。
 一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。
 この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清州会議関係略年表(本能寺の変から滝川一益降伏まで) 日付は旧暦です

<1582年(天正10)>
・6月2日 京都の本能寺において、織田信長と嫡子信忠が明智光秀に攻められ、自刃する(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉と明智光秀が戦い、光秀が敗れ、近江坂本城へ敗走中に農民に殺される
・6月27日 尾張の清州城で織田家の跡目や遺領の配分を決める会議が行われる(清州会議)
・10月11日~15日 大徳寺で織田信長の葬儀(喪主:羽柴秀勝)が挙行される
・10月16日 柴田勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、不当な領地再分配等を非難する
・12月2日 羽柴秀吉は、和睦を反故にして近江に出兵、長浜城を攻撃する
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した日ですが、新暦では6月21日となります。
 この事件は、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。
 明智光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。
 その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで光秀との合戦に及びます。その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中小栗栖(おぐるす)において、落ち武者狩りの農民に殺害されました。

〇明智光秀とは?

 戦国時代から安土桃山時代の武将で、通称は十兵衛といいます。1528年(享禄元)頃に、美濃国で、土岐氏の一族の明智光綱の子として生まれたとされています。
 はじめは、越前の朝倉義景に仕え、足利義昭が朝倉氏を頼ってきたときに出仕し、その後、織田信長の家臣となって、義昭の上洛に尽力しました。そして、義昭や寺社、公家との交渉役をつとめて、名をあらわします。1571年(元亀2)には、近江坂本城主となり、各地を転戦して武功をあげ、1575年(天正3)に、その功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられました。
 それから、丹波の攻略に着手し、1579年(天正7)に八上城の波多野秀治らを下して平定し、1580年(天正8)には、亀山城主となります。1582年(天正10)には、本能寺の変で主君の織田信長を討ったものの、11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉らの連合軍に敗れ、逃走途中小栗栖で土民に殺されました。俗に、明智の「三日天下」と呼ばれています。

〇織田信長とは?

 戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
 1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。
 ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
 1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。
 翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。
 さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
 その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
 しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。

☆織田信長関係略年表(日付は旧暦です)

・1534年(天文3)5月12日 織田大和守家の奉行の父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれる
・1546年(天文15) 古渡城にて元服し、三郎信長と名乗る
・1547年(天文16) 三河へ初陣する
・1548年(天文17) 美濃の斎藤道三の娘と結婚する
・1551年(天文20) 父・織田信秀が没して、家督を継ぐ
・1555年(弘治元) 清洲城の織田信友を討って、居城とする
・1557年(弘治3) 弟織田信行らの反乱を抑える
・1559年(永禄2) 岩倉城の織田信賢を破って織田家をまとめる
・1560年(永禄3)5月19日 桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一する
・1562年(永禄5) 三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6) 美濃攻略のために本拠を小牧山城に移す
・1567年(永禄10) 斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とする
・1568年(永禄11) 足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につける
・1569年(永禄12) 北伊勢の北畠氏を屈伏させる
・1570年(元亀元)6月28日 姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破る
・1570年(元亀元)9月12日 本願寺との間で石山合戦が始まる
・1571年(元亀2)9月12日 比叡山延暦寺を焼討ちする
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れる
・1573年(天正元) 朝倉氏・浅井氏を滅亡させる
・1573年(天正元) 室町幕府15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させる
・1574年(天正2)9月29日 長島の一向一揆を壊滅させる
・1575年(天正3)5月21日 長篠の戦いで、武田勝頼を破る
・1576年(天正4) 近江に安土城を築き、天下統一への拠点とする
・1580年(天正8)4月 本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配する
・1581年(天正9)2月28日 京都御馬揃えを行う 
・1582年(天正10)3月11日 甲斐武田氏を滅ぼす
・1582年(天正10)6月2日 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する
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