
5代将軍に就任した日ですが、新暦では11月7日となります。
1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。
しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化します。
そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1898年(明治31) | 安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する | 詳細 |
1939年(昭和14) | 「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 財団法人大日本育英会(後の日本育英会)が創立される | 詳細 |
1945年(昭和20) | 小説家葉山嘉樹の命日 | 詳細 |
1955年(昭和30) | 長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する | 詳細 |
1980年(昭和55) | 遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の命日 | 詳細 |