ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:織田信長

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 今日は、安土桃山時代の1568年(永禄11)に、織田信長に支援された足利義昭が室町幕府第1
5代将軍に就任した日ですが、新暦では11月7日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。
 1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
 その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
 しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
 翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
 以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
 1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに室町幕府の発足となりました。しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となります。
 しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化します。
 そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

・初代 尊氏(たかうじ)在職年:1338年(建武5)~1358年(延文3)
・2代 義詮(よしあきら)在職年:1358年(延文3)~1367年(貞治6)
・3代 義満(よしみつ)在職年:1368年(応安元)~1394年(応永元)
・4代 義持(よしもち)在職年:1394年(応永元)~1423年(応永30)
・5代 義量(よしかず)在職年:1423年(応永30)~1425年(応永32)
・空白 4代義持が代理 在職年:1425年(応永32)~1428年(応永35)
・6代 義教(よしのり)在職年:1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・7代 義勝(よしかつ)在職年:1442年(嘉吉2)~1443年(嘉吉3)
・8代 義政(よしまさ)在職年:1449年(文安6)~1473年(文明5)
・9代 義尚(よしひさ)在職年:1473年(文明5)~1489年(長享3)
・空白 8代義政が代理 在職年:1489年(長享3)~1490年(延徳2)
・10代 義稙(よしたね)在職年:1490年(延徳2)~1493年(明応2)
・11代 義澄(よしずみ)在職年:1494年(明応3)~1508年(永正5)
・(再) 義稙(よしたね)在職年:1508年(永正5)~1521年(大永元)
・12代 義晴(よしはる)在職年:1521年(大永元)~1546年(天文15)
・13代 義輝(よしてる)在職年:1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・14代 義栄(よしひで)在職年:1568年(永禄11)~1568年(永禄11)
・15代 義昭(よしあき)在職年:1568年(永禄11)~1573年(天正16)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)日本初の全国政党「自由党」の結成大会が行われる詳細
1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1943年(昭和18)財団法人大日本育英会(後の日本育英会)が創立される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細
1980年(昭和55)遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1570年(永禄13)に、織田信長が殿中御掟追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示した日ですが、新暦では2月27日となります。
 「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭に承認させた掟であり、1569年(永禄12年1月14日)に9か条、2日後の16日に追加7か条が出されましたが、制定した後も義昭はこれを守ることをしなかったので、新たに、1570年(永禄13年1月23日)に5か条が追加され、計21か条となりました。これによって、義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないようにして、必ず信長の副状をつけることや義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し、再検討すべきことなどを定め、将軍としての権限を大幅に制約するものとなります。
 しかし、その後も義昭がこれらの殿中御掟を遵守した形跡もありませんでした。
 以下に、「殿中御掟」の追加を含めた21か条を現代語訳付で掲載しておきますからご参照下さい。

〇「殿中御掟9か条」 1569年(永禄12年1月14日)

・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
・公事篇内奏御停事之事
・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
・公事可被聞召式目、可為如前々事
・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする。
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

〇「殿中御掟追加7か条」 1569年(永禄12年1月16日)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・(幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること。
・請取沙汰を停止する事。
・喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪。
・理不尽に催促する事の禁止。
・将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止。
・もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと。
・占有地については関係を把握して差配すること。

〇「殿中御掟追加5か条」1570年(永禄13年1月23日)

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

<現代語訳>

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
・天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
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1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1557年(天正5)に、手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した日ですが、新暦では11月3日となります。
 手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、上杉謙信軍と織田信長軍による加賀国・手取川周辺(現在の石川県白山市湊町)で起きた戦いのことでした。この当時、越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)を統治していたのは、織田信長の重臣・柴田勝家でしたが、1576年(天正4)に、勝家は加賀国(現在の石川県)へ「加賀一向一揆衆」の鎮圧のため侵攻を開始します。
 この動きに呼応して、上杉謙信は、織田軍を迎撃するため、越中国から進軍しました。能登国と越中国を結ぶ要所にある七尾城主・畠山氏の重臣だった長続連は、1557年(天正5)閏7月に、使者として三男長連龍をを安土城に派遣して織田信長に援軍を要請、信長は柴田勝家を総大将とする4万の軍勢の派遣を決定し、8月8日に織田軍は北国に向けて出陣します。
 しかし、9月15日には、七尾城において長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城してしまいました。9月17日に上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配します。
 柴田勝家率いる織田軍は七尾城落城を知らないまま進軍を続け、9月23日には、織田軍が手取川を渡河したところで、上杉謙信軍と激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫しました。その後、上杉謙信は越前丸岡城下坂井郡に進出し、9月26日には七尾城に帰陣し普請に着したとされます。
 10月3日に、柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還しました。

〇上杉謙信(うえすぎ けんしん)とは?

 戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将・戦国大名です。1530年(享禄3)1月21日に、越後守護代の父・長尾為景の四男(母・長尾顕吉の娘)として生まれましたが、幼名は虎千代と言いました。1536年(天文5)に、父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぎましたが、1542年(天文11)には、父・為景が亡くなっています。
 1543年(天文12)8月15日 元服して長尾景虎と名乗り、9月には兄・晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入りました。1548年(天文17)に、守護上杉定実の仲介で、兄・晴景の養子となる形で春日山城主となり、1551年(天文20)には、義兄の長尾政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現します。
 1552年(天文21)、関東管領上杉憲政は北条氏康に攻められ、景虎を頼って、越後国へ逃亡してきたので、それを助けて関東に出兵しました。1553年(天文22)に、武田信玄との第一次川中島の戦いが起こりますが、その後11年にわたり好敵手として、第五次まで断続して戦います。
 一方、1553年(天文22)に、初めて上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁し、翌年には、北条氏康・今川義元と甲相駿三国同盟が結ばれました。1559年(永禄2)に再度上洛し、将軍足利義輝に謁見、正親町天皇から従五位下弾正少弼に任ぜられ、翌年には、北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まります。
 1561年(永禄4)に、北条氏を小田原の本城まで追い詰めますが破れず撤退するものの、翌年には上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗りました。1569年(永禄12)に、北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和、翌年には入道して謙信と名乗ります。
 1572年(元亀3)に、織田信長との同盟を機に越中を平定、1577年(天正5)には、七尾城を陥落させ、能登を手中とし、手取川の戦いでも織田軍を破りました。しかし、1578年(天正6)3月13日に、越後春日山城内で、数え年49歳で亡くなっています。

☆手取川の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<1577年(天正5)>

・5月 畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた冨木・熊木の両城が落とされる
・7月18日 畠山氏の重臣だった長綱連が穴水城を攻め、乙ヶ崎合戦で大勝する
・閏7月 謙信は再び能登に侵攻したため、長綱連は七尾城に撤退する
・閏7月23日 織田信長は長続連の使者が安土城に派遣されて、援軍の派遣を決定、柴田勝家を総大将とする4万の軍勢とする
・8月8日 織田軍は北国に向けて出陣する
・9月15日 長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城する
・9月17日 上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配する
・9月23日 手取川の戦いにおいて上杉謙信軍と織田信長軍が激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫する
・9月26日 上杉謙信は七尾城に帰陣し普請に着く
・9月25日 能登珠洲郡の松波城将の松波義親、上杉謙信と戦って死ぬ
・10月3日 柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還する
・10月25日 謙信は、能登各城に鰺坂長実・遊佐盛光連署による、十三箇条の制札を掲げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

785年(延暦4)長岡京造営中に、藤原種継暗殺事件が起きる(新暦10月30日)詳細
1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細
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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」にて砲撃したモリソン号事件が起きる(新暦7月30日)詳細
1875年(明治8)新聞紙条例」と「讒謗律」が発布される詳細
1948年(昭和23)福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出す詳細
1951年(昭和26)小説家林芙美子の命日(芙美子忌)詳細 
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kayazukosenjyouhi01

 今日は、戦国時代の1552年(天文21)に、織田信長・信光と坂井大膳・甚助によって、尾張国で萱津の戦いが行われた日ですが、新暦では9月4日となります。
 萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年(天文21年8月16日)に、尾張国海東郡萱津において、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の坂井大膳・甚助と織田信長・信光との間で行われた戦いでした。清須方の坂井大膳・甚助らが、信長方の深田城(現在の愛知県海部郡大治町西條字城前田)と松葉城(現在の愛知県海部郡大治町西條字南屋敷)を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。
 これに対し、織田信長は那古野城を出陣し、守山城から駆けつけて来た織田信光(信長の叔父で信次の兄)と稲庭地(現在の名古屋市中村区稲葉地)の庄内川畔で合流し、反撃に出ました。信長方は、清須を攻める信長本隊、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊の3つに軍勢を分け、庄内川を渡って各方面へ進出します。
 清洲方面へ向かった信長本隊は萱津ヶ原(現在の愛知県あま市上萱津)で南下してきた清須方と東西に陣を敷いて対峙し、午前八時頃に開戦しました。数時間に及んだ戦いの末、双方が50名ほどの死者を出しましたが、信長方の柴田勝家が坂井大全の弟である坂井甚介を打ち取るなどして、信長方が勝利し、清須方は清須城へ逃げ帰ります。
 また、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊においても信長方が勝利し、2つの城を奪還しました。尚、愛知県あま市上萱津には、近年まで戦死者を葬ったとされる塚がいくつか残されていましたが、耕地整理等によって壊され、代わりに「萱津古戦場跡碑」が建てられています。
 以下に、萱津の戦いを記した『信長公記』首巻十二段の部分を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照ください。

〇萱津の戦い(『信長公記』首巻十二段) 1552年(天文21年8月16日)

深田・松葉両城手かはりの事

一、八月十五日[1]に清洲[2]より坂井大膳[3]、坂井甚介、河尻与一、織田三位申し談じ、松葉[4]の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉[4]の並びに、
一、深田[5]と云ふ所に織田右衛門尉[6]居城、是れ叉、押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。
一、織田上総介信長[7]、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、八月十六日払暁[8]に那古野[98]を御立ちなされ、稲庭地[10]の川端[11]まで御出勢、守山[12]より織田孫三郎[13]殿懸け付けさせられ、松葉[4]口、三本木[14]口、清洲[2]口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川[15]をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津[16]ロヘ御かかり侯。
一、清洲[2]より三十町計り踏み出だし、海津[16]と申す村へ移り侯。
信長八月十六日辰の刻、東へ向つてかかり合ひ、数刻、火花をちらし相戦ふ。
孫三郎殿手前にて、小姓立[17]の赤瀬清六とて、数度武篇いたすおぼえの仁体、先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散貼に暫く相戦ひ、討死。終に清洲[2]衆切り負け、片長、坂井甚介討死。頸は中条小一郎[18]、柴田権六[19]相討つなり。此の外、討死、坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与を初めとして、歴々五十騎計り、枕をならべて討死。
一、松葉[4]口廿町計りに取出惣構[20]へを相拘へ、追入れられ、真島の大門崎[21]つまり[22]に相支へ、辰の刻より午の刻まで取合ひ、数刻の矢軍に手負数多出来、無人になり、引き退く所にて、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。
一、深田[5]口の事、三十町計りふみ出し、三本木[14]の町を相拘へられ侯。要害[23]これなき所に侯の間、即時に追ひ崩され、伊東弥三郎、小坂井久蔵を初めとして、究竟[24]の侍三十余人討死。これによつて、深田[5]の城、松葉[4]の城、両城へ御人数寄せられ侯。降参申し、相渡し、清洲[2]へ一手につぽみ[25]侯。上総介信長、是れより清洲[2]を推し詰め、田畠薙[26]させられ、御取合ひ初まるなり。

【注釈】

[1]八月十五日:天文21年(1552年)8月15日のこと。
[2]清州:愛知県清須市で、当時の織田信友(大和守)の居城清州城があったところ。
[3]坂井大膳:尾張守護代の織田信友(大和守)の重臣。
[4]松葉:愛知県海部郡大治町西條字南屋敷で、当時松葉城があり、織田伊賀守の居城となっていた。
[5]深田:愛知県海部郡大治町西條字城前田で、当時深田城があり、織田信次(右衛門尉)の居城となっていた。
[6]織田右衛門尉:織田信次のことで、織田信定の子で、右衛門尉を名乗り、当時は深田城主だった。
[7]織田上総介信長:織田信長のことで、織田信秀の子で、上総介を名乗り、当時は那古野城主だった。
[8]払暁:夜明け、明け方のこと。
[9]那古野:名古屋市中区で、当時那古野城があり、織田信長(上総介)の居城となっていた。
[10]稲庭地:名古屋市中村区稲葉地のこと。
[11]川端:当時の庄内川の岸を指している。
[12]守山:名古屋市守山区で、当時守山城があり、織田孫三郎の居城となっていた。
[13]織田孫三郎:織田信光のことで、通称は孫三郎、織田信定の子で、信長の叔父にあたり、当時は守山城主だった。
[14]三本木:愛知県海部郡大治村三本木のこと。
[15]いなばぢの川:庄内川のこと。
[16]海津:愛知県あま市上萱津のことで、萱津合戦の戦場となり、近年までいくつかの塚が残されていた。
[17]小姓立:小姓上がりの侍のこと。
[18]中条小一郎:中条家忠のことで、織田信長の家臣で、後に八草城・広見城主になった。
[19]柴田権六:柴田勝家のことで、織田信秀の家臣、さらに信長の重臣として、諸国を転戦して武功を上げた。
[20]惣構:城の外郭のこと。
[21]真島の大門崎:愛知県海部郡大治町真島の大門崎のこと。
[22]つまり:詰り、すみのこと。
[23]要害:城砦、守り堅固なところのこと。
[24]究竟:屈強、極めて力の強いこと。
[25]つぼみ:撤収すること。
[26]田畠薙:田畑の作物を刈り取ってしまうこと。

<現代語訳> 

深田・松葉両城手かはりの事

一、八月十五日に清州方の坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位が申し合わせて、松葉城に攻め込み、その城主織田伊賀守を人質に取った。また松葉城の並びにある、
一、深田と言われる所の織田右衛門尉の居城もまた同様に攻め込まれ、人質を取られて、敵対関係が明らかになった。
一、織田上総介信長は、御年19歳の暮れの8月だったが、この報告を聞き、8月16日明け方に那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)の庄内川畔まで出て、守山から織田孫三郎信光が駆けつけて来て、松葉口・三本木口・清洲口と三つに分かれて攻めるように言われ、自身は庄内川を越えて、信長と信光は一団となって、海津(萱津)口へ攻め込んだ。
一、清洲から三十町ほど踏み出した、海津(萱津)という村に移動した。
信長は、8月16日辰の刻(午前8時頃)に東に向かって戦端を開き、数時間火花を散らした戦いとなった。
信光の家臣で小姓上がりの赤瀬清六という者は、幾度か武功もあったが、この戦でも先陣を争い、坂井甚介に攻めかかったものの、激しい戦闘の末に討ち死にしてしまった。終には清洲方が負け、片長、坂井甚介は討死した。その首は、中条家忠と柴田勝家がともに打ち取ったという。この他に、討死したのは坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与をはじめとして、歴々50騎ほど枕を並べての討ち死にであった。
一、松葉口へは、二十町ばかり踏み出し、城の外郭の中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎へ詰めて、辰の刻から午の刻(約午前8時から正午頃)まで戦われ、数時間の矢合わせで、敵には負傷者が多数出て、戦える人もいなくなり、撤退していく際に、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六が討ち取られ、本城に退却した。
一、深田口では、三十町ばかり踏み出し、三本木の町を取り囲んだが、これといって守り堅固の場所でもなかったので、たちまちのうちに追い崩されて、伊藤弥三郎、小坂井久蔵をはじめとして、屈強の侍が30人余り討死した。これによって、深田城・松葉城の両方に、信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ一団となって撤収した。信長方は、これより追撃して清州へと至り、田畑の作物を刈り取り、以後両者の敵対関係が継続することとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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