ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長だった花森安治が亡くなった日です。
 花森安治(はなもり やすじ)は、明治時代後期の1911年(明治44)10月25日に、兵庫県神戸市において生まれました。旧制兵庫県立第三神戸中学校を経て、旧制松江高等学校に進み、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学します。
 1935年(昭和10)の在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わり、1937年(昭和12)には、卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召されました。1938年(昭和13)に結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院、1940年(昭和15)には、疾病を理由として除隊になります。
 1941年(昭和16)に大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わり、翌年には、戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定しました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊、1948年(昭和23)には、婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊し、他社広告を掲載しない編集方針を掲げます。1949年(昭和24)に、朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務、キャッチコピーからデザイン、レイアウトを一手で引き受けました。
 1954年(昭和29)に「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題、1956年(昭和31)には、商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりが評価され、第4回菊池寛賞を受賞します。1967年(昭和42)から戦時中の暮らしの記録を集めるようになり、1969年(昭和44)には、それらをまとめて『戦争中の暮しの記録』を刊行しました。
 1971年(昭和46)に『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行、翌年この著作で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞、また、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞します。実証主義ジャーナリズムを展開して、庶民の日常生活の防衛と変革、消費者運動の推進に大いに寄与してきましたが、1978年(昭和53)1月14日に、東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなりました。

〇花森安治の主要な著作

・『暮らしの眼鏡』(1953年)
・『風俗時評』(1953年)
・『戦争中の暮しの記録』(1969年)
・『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』(1971年)読売文学賞随筆・紀行賞受賞

☆花森安治関係略年表

・1911年(明治44)10月25日 兵庫県神戸市において、生まれる
・1933年(昭和8) 松江高等学校卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する
・1935年(昭和10) 在学中に、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わる
・1937年(昭和12) 卒業論文「社会学的美学の立場から見た衣粧」を書いて、東京帝国大学文学部美学科を卒業後、徴兵検査を受けて、応召される
・1938年(昭和13) 結核に冒されたため、満州の陸軍病院に入院する
・1940年(昭和15) 疾病を理由として除隊になる
・1941年(昭和16) 大政翼賛会に入り、宣伝部で戦時スローガン制作などの仕事に携わる
・1942年(昭和17) 戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!」、「屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定する
・1946年(昭和21) 編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に「衣裳研究所」を設立し、雑誌「スタイルブック」を創刊する
・1948年(昭和23) 婦人家庭雑誌「美しい暮しの手帖」を大橋鎮子と創刊する
・1949年(昭和24) 朝日麦酒(後のアサヒビール)広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務する
・1954年(昭和29) 「美しい暮しの手帖」を「暮しの手帖」と改題する
・1956年(昭和31) 商品テストなど消費者の立場からの雑誌づくりで、第4回菊池寛賞を受賞する
・1969年(昭和44) 『戦争中の暮しの記録』を刊行する
・1971年(昭和46) 『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』を刊行する
・1972年(昭和47) 『一戔五厘の旗』で、第23回読売文学賞随筆・紀行賞、「暮しの手帖」の活動により、ラモン・マグサイサイ賞を受賞する
・1978年(昭和53)1月14日 東京において、心筋梗塞により66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

允恭天皇42年第19代の天皇とされる允恭天皇の命日詳細
1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
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miyawakishyunzou01

 今日は、平成時代の2003年(平成15)に、編集者・紀行作家宮脇俊三の亡くなった日です。
 宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう)は、大正時代の1926年(大正15)12月9日に、埼玉県川越市で、陸軍大佐だった父・宮脇長吉の7人兄弟の末子(三男)として生まれました。父の陸軍予備役編入と共に、東京市渋谷町(現在の東京都渋谷区)に一家で移住します。
 東京府青山師範学校附属小学校を経て、旧制成蹊高等学校卒業後、1945年(昭和20)に東京帝国大学理学部地質学科に入学しました。その後、文学部西洋史学科に移って、1951年(昭和26)に卒業、中央公論社(現在の中央公論新社)に入社します。
 翌年に肺結核のために休職し、熱海の妻の実家で療養しましたが、1954年(昭和29)には休職期限が切れ退社しました。1956年(昭和31)に中央公論社に復帰、以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任、以後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任します。
 その間に、「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などの刊行に関わりました。1978年(昭和53)に中央公論社を退社、同年に国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビューし、第5回日本ノンフィクション賞と第9回新評賞を受賞します。
 その後、1981年(昭和56)に『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞、1985年(昭和60)に短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞、1992年(平成4)に『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞、1999年(平成11)には、作家活動全般に対して第47回菊池寛賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。鉄道紀行文を文芸ジャンルとして確立し、小説や歴史紀行も手がけましたが、2003年(平成15)2月26日に入院中の東京・虎の門病院で肺炎のため、76歳で亡くなっています。

〇宮脇俊三の主要な著作

・『時刻表2万キロ』(1978年)第5回日本ノンフィクション賞・第9回新評賞受賞
・『最長片道切符の旅』(1979年)
・『汽車旅12カ月』(1979年)
・『時刻表昭和史』(1980年)交通図書賞受賞
・『台湾鉄路千公里』(1980年)
・『終着駅は始発駅』(1982年)
・『シベリア鉄道9400キロ』(1983年)
・『殺意の風景』(1985年)第13回泉鏡花文学賞受賞
・『中国火車旅行』(1988年)
・『古代史紀行』(1990年)
・『韓国・サハリン鉄道紀行』(1992年)第1回JTB紀行文学大賞受賞
・『平安鎌倉史紀行』(1994年)
・『昭和八年澁谷驛』(1995年)
・『室町戦国史紀行』(2000年)

☆宮脇俊三関係略年表

・1926年(大正15)12月9日 埼玉県川越市で7人きょうだいの末子(三男)として生まれる
・1942年(昭和17) 開通した関門トンネルを通ってみたいが故に、戦時下にもかかわらず列車に乗って旅行に行く
・1945年(昭和20) 東京帝国大学理学部地質学科に入学する
・1951年(昭和26) 東京大学文学部西洋史学科卒業、中央公論社(現在の中央公論新社)に入社する
・1951年(昭和26)10月、日本女子大学史学科の学生だった荒木愛子と結婚する
・1952年(昭和27) 肺結核のために休職し、熱海の妻の実家で療養する
・1953年(昭和28) 脳出血で父親が急逝する
・1954年(昭和29)、休職期限が切れ退社する
・1956年(昭和31)9月 中央公論社に復帰する。以後編集者として活躍
・1965年(昭和40) 5年前から別居していた妻・愛子と離婚する
・1977年(昭和52)5月28日 国鉄足尾線を最後に国鉄全線を完乗する
・1978年(昭和53)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社する
・1978年(昭和53)7月10日 国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビューする
・1978年(昭和53)12月12日  『時刻表2万キロ』で第5回日本ノンフィクション賞を受賞する
・1981年(昭和56) 『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞を受賞する
・1985年(昭和60) 短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞を受賞する
・1992年(平成4) 『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞を受賞する
・1999年(平成11) 第47回菊池寛賞を受賞する
・2003年(平成15)2月26日 入院中の東京・虎の門病院で肺炎のため、76歳で亡くなる
・2008年(平成20)7月12日~9月15日 東京都世田谷区の世田谷文学館で「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」が開催される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる 詳細

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ishikawakeirou01

 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の亡くなった日で、「桂郎忌」とも呼ばれています。
 石川桂郎(いしかわ けいろう)は、1909年(明治42)8月6日に、東京市芝区三田聖坂(現在の東京都港区)の理髪店の息子として生まれましたが、本名は石川一雄と言いました。御田高等小学校卒業後、家業の理髪店の仕事(のち文具店)をしながら句作を始め、1934年(昭和9)に、杉田久女の門に入ります。
 1937年(昭和12)に石田波郷らの「鶴」創刊より投句し、1939年(昭和14)には同人となりました。また、同年に横光利一に師事して、小説にも手を染め、1942年(昭和17)には、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表します。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、空襲で荒廃した都心を逃れ、鶴川村能ヶ谷(現在の東京都町田市能ヶ谷)に転居、1948年(昭和23)には、水原秋桜子の「馬酔木」の同人となりました。書店勤務を経て、「俳句研究」(俳句研究社)、「俳句」(角川書店)の編集長を勤め、その中で、1954年(昭和49)に小説『妻の温泉』を書いて第32回直木賞候補となります。
 1960年(昭和35)に神山杏雨創刊の「風土」の編集長となり、翌年には第1句集『含羞』を刊行し、第1回俳人協会賞を受賞しました。1964年(昭和39)には、「風土」を主宰するようになり、1973年(昭和48)に『俳人風狂列伝』で第25回読売文学賞(随筆紀行賞)、1975年(昭和50)にはそれまでの業績で第9回蛇笏賞を受賞します。
 しかし、同年11月6日に食道癌のため亡くなり、翌年に遺句集『四温』が刊行されました。

<代表的な句>

・「あまり寒く 笑へば妻も わらふなり」(含羞)
・「柚子(ゆず)釜の 香をありありと 病臥(びょうが)かな」(四温)
・「昼蛙 どの畦のどこ 曲らうか」
・「うらがへる 亀思ふべし 鳴けるなり」

〇石川桂郎の主要な著作

・小説『剃刀(かみそり)日記』(1942年)
・小説『妻の温泉』(1954年)第32回直木賞候補
・第1句集『含羞(がんしゅう)』(1961年)第1回俳人協会賞受賞
・句集『佐渡行』(1961年)第1回俳人協会賞受賞
・句集『竹取』(1969年)
・句集『高蘆』(1973年)
・『俳人風狂列伝』(1973年)第25回読売文学賞(随筆紀行賞)受賞
・遺句集『四温』(1976年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)日独伊防共協定」が調印される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
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