ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:総合雑誌

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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足した日です。
 「中央公論」(ちゅうおうこうろん)は、明治時代からの歴史を持つ、中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌でした。明治時代前期の1886年(明治19)4月6日に、反省会が京都西本願寺普通教校内に結成されて創業し、1887年(明治20)8月に機関誌「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」と改題)を創刊、1899年(明治32)1月15日に、「中央公論」と改題されて発足し、その後宗門から独立します。
 1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになりました。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになります。
 1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されました。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となります。
 昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになりました。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれます。
 戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎました。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになります。
 広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えました。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化します。
 その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれました。

〇「中央公論」関係略年表

・1886年(明治19)4月6日 「反省会」が京都西本願寺普通教校内に結成され、創業する
・1887年(明治20)8月 『中央公論』の前身『反省会雑誌』を創刊。
・1892年(明治25)5月 『反省会雑誌』を『反省雑誌』と改題する
・1896年(明治29)12月 社屋を京都から東京市本郷区駒込西片町へ移転する
・1899年(明治32)1月15日 『反省雑誌』を『中央公論』と改題する
・1904年(明治37)1月 麻田駒之助が『中央公論』の編集と反省社の経営にあたる。(初代社長就任)
・1905年(明治38)11月 『中央公論』200号記念号を発刊、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』などを掲載する
・1912年(大正元)9月 滝田樗陰が中央公論主幹となる
・1914年(大正3)1月 社名を「中央公論社」と改める
・1916年(大正5)1月 『婦人公論』を創刊、嶋中雄作が主幹となる
・1923年(大正12)4月 新築された丸ビルに事務所を移転する
・1928年(昭和3)8月1日 嶋中雄作が社長に就任する
・1929年(昭和4)10月 中央公論社出版部の第一作としてルマルク著、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』を刊行する
・1935年(昭和10)10月 中央公論社創業50周年記念祝賀会が挙行される
・1944年(昭和19)7月 中央公論社と改造社が陸軍情報局に招致され自発的廃業を勧告され、『中央公論』が休刊、会社を7月31日限りで解散する
・1945年(昭和20)10月29日 社業再発足の集いが行われる
・1946年(昭和21)1月 『中央公論』戦後再建第1号が発行される
・1949年(昭和24)1月17日 嶋中雄作社長が急逝、22日に嶋中鵬二が社長に就任する
・1954年(昭和29)10月 『折口信夫全集』(全31巻別巻1巻)刊行を開始する
・1955年(昭和30)10月 創業70周年記念出版として限定愛蔵本『潤一郎新訳源氏物語』(全5巻)を刊行する
・1956年(昭和31)11月 京橋に社屋を建築し、丸ビルから移転する
・1960年(昭和35)11月 創業75周年記念出版として全集『世界の歴史』(全16巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1961年(昭和36)2月 「風流夢譚」事件。掲載小説に憤慨した右翼少年が嶋中社長宅に押し入り、お手伝いの女性を殺害、雅子夫人も重傷を負う
・1962年(昭和37)11月 「中公新書」の刊行を開始する
・1963年(昭和38)2月 全集『世界の文学』(全54巻)の刊行を開始する
・1964年(昭和39)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の文学』(全80巻)の刊行を開始する
・1965年(昭和40)2月 創業80周年記念出版として全集『日本の歴史』(全26巻別巻5巻)の刊行を開始する
・1966年(昭和41)2月 全集『世界の名著』(全66巻)の刊行を開始する
・1967年(昭和42)1月 「中公叢書」の刊行を開始する
・1969年(昭和44)6月 全集『日本の名著』(全50巻)の刊行を開始する
・1973年(昭和48)6月 「中公文庫」の刊行を開始する
・1982年(昭和57)11月 「C★NOVELS」の刊行を開始する
・1985年(昭和60)11月 創業100周年記念出版として全集『日本の古代』(全15巻別巻1巻)の刊行を開始する
・1989年(平成元)3月 『TUGUMI(つぐみ)』(吉本ばなな著)を刊行、172万部のミリオンセラーとなる
・1996年(平成8)11月 創業111周年記念出版全集『世界の歴史』(全30巻)の刊行を開始する
・1997年(平成9)4月3日 嶋中鵬二社長が亡くなる
・1999年(平成11)2月1日 読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社として再スタートを切る
・2000年(平成12)2月 社屋改築のため「ぬ利彦ビル」に一時移転する
・2001年(平成13)3月25日 「中公新書ラクレ」の刊行を開始する
・2002年(平成14)2月 全集『日本の中世』(全12巻)の刊行を開始する
・2002年(平成14)3月 京橋新社屋完成、4月から業務開始する
・2007年(平成19)4月 全集『哲学の歴史』(全12巻)の刊行を開始する
・2015年(平成27)7日 社屋を東京都千代田区大手町へ移転する
・2015年(平成27)5月 『谷崎潤一郎全集』(全26巻)の刊行を開始する
・2016年(平成2)10月 全集『西洋美術の歴史』(全8巻)の刊行を開始する
・2019年(令和元)4月1日 WEBメディア「婦人公論.jp」が配信開始される
・2020年(令和2)1月0日 中公叢書と統合し、中公選書が新装刊される
・2021年(令和3)4月14日 『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ著)が第18回本屋大賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、総合雑誌「改造」が創刊された日です。
 総合雑誌「改造(かいぞう)」は、山本実彦創立の改造社が、3ヶ月後に創刊したもので、大正デモクラシーの思潮を背景として、進歩的な編集方針をとり、文芸欄も充実していました。「中央公論」と並ぶ二大総合誌としての声価を得ましたが、民衆解放の主張を掲げ、自由主義・社会主義的論文を多く掲載、海外新思想、新知識の導入に貢献したとされます。
 河上肇、櫛田民蔵、山川均、大森義太郎ら社会主義思想家の寄稿を多く求め、B.ラッセル、サンガー夫人、アインシュタインなどの外国知識人を招いて、海外の新思想の紹介に努めました。一方で、文芸欄にも力を注ぎ、志賀直哉の『暗夜行路』、芥川龍之介の『河童』、堀辰雄の『風立ちぬ』、幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』など、近代の日本文学史に残る名作を掲載、また、新進作家の登龍門としても知られています。
 しかし、戦時下においては、泊事件、横浜事件などの思想・言論弾圧を受け、1944年(昭和19)の6月号で休刊となりました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に復刊しましたが、経営は思うに任せず、1952年(昭和27)の山本実彦の死去により急速に衰退し、1954年(使用を29)末以来の解雇を発端とする争議の結果、改造社の倒産と運命を共にして、1955年(使用を30)2月号で廃刊となります。
 以下に、山本実彦著の「『改造』の十五年」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「『改造』の十五年」 山本実彦著

 『改造』を創めてからこの四月で満十五年だ。あれもこれも考えればまるで夢のようだ。廻り燈籠のように舞台がく るくる廻っていることが感ぜられるのみだ。だが、静かに眼を閉じて十五年の足あとをふり返えれば、その間におのずから元気の消長が事績を公平に物語ってい る。命をかけてした仕事はいつまでたってもカチンと響く生命がこもっているが、食うためにやったような仕事は見るさえ、思い出すさえ恥ずか しくて見るにたえぬ。感激でかいたものは、たといそれが推敲されていないにしても、いつまでもなつかしく読めるように、しようことなしにかいたものには生 き恥をのこすほかの何ものでもあり得ない。私は今、その間の感激や、倦怠の跡をざっとかいつまんでみよう。
 雑誌『改造』が品川浅間台の一角で呱々の声を挙げたのは、ちょうど、欧州大戦が片づいた大正八年の桜花ほほ笑む四月で、我が国は社会運動や労働運動に漸 く目が開けそめたときであった。
 何でも、八時間労働制や、労働組合公認問題が興味がひかれるときで、政治的デモクラシーの声が民衆的に飽きあきされて来つつあったときだ。福田、河上氏 らが論壇に大きく崛起して、社会主義的論調が活発溌地にインテリ層に潮の如く浸り込んで行くときで、当時『中央公論』は吉野氏を主盟としておったが、我が 誌には新鋭山川、賀川君らがつぎつぎに執筆しておった。また『改造』より二カ月遅れて生誕した『解放』には福田、堺両氏及び帝大新人会の一派が相拠ってい たが、このうち福田氏は約一年ののち、『改造』に専ら執筆するようになり、十数年間博大の筆陣を布(し)いて一世の注目を惹いていたのであった。このほ か、河上肇氏は個人雑誌『社会問題研究』によって、社会思潮に鮮鋭な解釈と批判とを下だしており、それが学生連の人気となって何でも二万部ぐらいを一時は 発行していたという。
 この頃からジャーナリズムに断然たる特殊性が現われて来た。社会思想の根拠のないものはだんだん指導性を失って来た。雑誌『改造』がそれらにたいし鋭き 批判を下だすと、刺激と感激とが極端に起こってきた。あるものは我が誌を蛇蝎(だかつ)の如く排忌するものもあれば、一面には一方の救世主の如く感激する ものもあった。しかし、そのどちらもわれわれの意図を誤解していた。我が誌は決して啓蒙運動の境を出でなかった。批判的境地を厳守した。全面的に我が国の 方向を誤らしてはならぬ。世界にいわれなく孤立してはならぬ。こうしたモットーの前に進んで来たのであった。
 だが、世界の一角に発生、展開を示しつつあるソ連の諸機構はひいて我が国に重要の影響力あるべきを思い、そしてなまなかそれが秘密秘密で蓋を掩いかぶさ れていては、却って我が国の方途に不測の禍害のもたらさるべきであろうことを思ったので、ソ連の諸機構、諸現象には、批判を加えることを常に怠らなかっ た。
 時代の新しい潮波はだんだん飛躍し、労働組合は公認され、巷には労働運動の英雄が出現するに至った。神戸の貧民窟から 賀川豊彦君が颯爽として社会の正面に躍り出た。彼の『死線を越えて』の一著の感激はたいしたものであった。彼の行くところ、青年子女蝟集(いしゅう)して その手を握るを光栄とした。彼の声音に接するを誉れとした。支配階級の錦繍綾羅(きんしゅうりょうら)にふれるより、この一青年のボロ服にさわって見るの を喜ぶ奇現象を生んだ。大正八年(1919)――十年(1921)までの我が思想的激変は、たしかに画期的であった。この一著は高名な藝術家からはあまり 顧みられなかったが、出版史上に我が国で予想だにすることのできなかった数十万部がプロやインテリの汗手に購(あがな)われた。それのみならず、この著は ほとんど世界各国語にも翻訳された。
 何でもかでも古い伝統を打破しようとする時代であった。クロポトキンから新マルサス主義、ギルド、レニ ン、リッケルト、フッサールなど目まぐるしいまで変わった学説が歓迎される。森戸君が大正八年クロポトキン事件に坐して大学を逐われてから、思想的厄難が つぎつぎに起こって来た。
 越えて大正十年一月から思想界の第一人者バートランド・ラッセルが我が『改造』に執筆したときは、異常のセン セーションを惹起した。また同年七月彼が来朝したときの如き、神戸埠頭には全神戸の労働者四、五万が出迎うるの謀議が熟していたのを、そうしては、いろい ろ面白からぬ現象の到来を予想して、官憲の許すところとならなかったが、それでも岸壁はものすごいまでの人の山であった。
 彼は、北京で大病をしたあがりにもかかわらず慶応大学で「文明の再建」の講演をしたときなぞ、むしろ場内にはいれぬ人が多かったのであった。彼は我が国 にとりては危険人物であった。その来朝したときは警察との間に、政府との間に、たいへんに面倒ないきさつがあった。彼は、そうした雰囲気にあるのを苦悩し ておった。だが、彼はとても強い個性の持主ではあったが、そのときはたいへん隠忍していた。彼は英国貴族で、その性格はとても日本人には好かれた。お世辞 を言うのが大の嫌いであった。これは別の話だが、いつかゆっくりした時間があったとき、彼に「現存する世界の偉人は誰と思う? その三人ばかりを挙げて見 てくれ」と言ったら、彼は第一にアルベルト・アインシュタインを挙げ、第二にある人を、そして三人目には答えなかった。そのとき私は「相対性原理」なるも のが学界で如何なる地位にあるかを知らなかった。したがってアインシュタインなる人がどんな人かをも知るところがなかった。彼は余の通訳子をしてニュート ンに相対立する偉人であることをつぶさに物語ってくれた。
 それから、その翌日であったか、その日は確かにおぼえぬが、私は西田幾多郎さんに相対性理論のいかなるものであ るかをきき、さらに、石原純さんにもそのことをきいて、今度は我が学界のために四、五万円を投じてアインシュタイン氏を招聘するときめて、室伏高信君に渡 欧してもらったのであった。
 もっとも、そのことを決するまでには、いくたの我が理学者たちの意見もきいたのであったが、異口(いく)同音に、「それは大学でもかねがね招びたく思っ ているのであるが、その費用がないので」とのことがあった。
 かくて十一月十八日アインシュタイン教授夫妻は東京駅についた。その夜の光景はまるで凱旋将軍を迎うる如く、プラットホーム及び停車場の広場は数万の人 の山で、教授夫妻は三十分近くもプラットホームに立往生したのであった。
 教授は滞日中、東京帝大の特別講演をはじめ、その他京都、大阪、神戸、仙台、福岡で画期的長講演をして、至るところ、偉人としての風貌を慕われた。そし て、帝室の御殊遇を始めとし、帝国学士院でも前例のない歓迎辞を穂積院長の名を以て公にした。その内容は、「ガリレオ、ニュートンらが、力学と物理学とに おいて首唱せる原理は二百年来、万世不易なるべしと考えられていたが、教授は別天地より宇宙の状勢を洞観し、遂に時間と空間との融合を図り、以て自然現象 を究明するの針路を開かれたその業績の大なる、実に古今独歩である」というにあった。なるほど、彼の思想的革命はニュートンよりも、コぺルニクスや、ガリ レオよりも偉大であったであろう。
 私は全世界の思潮を風靡したるこの大偉人と、四十日間に亙りて起居を同じくし、藝術の話や、音楽の話、さては社 会、経済の諸機構の話に至るまで何かといい指示を受けた。ただ、いつか私に対して「自分は数学が得意でないから」と洩らしたことがある。私は理論物理の不 世出の偉人にしては、ずいぶんおかしいことと思って、さらにきき直してみたことがあったが、やはり、それは私の誤りではなかった。教授はまた数学では有名 な京大の園正造教授にただし、もしくは石原純氏にたいして、いろいろ相談的の会話があるのを聞いたことがあった。そして東北大学金属科の本多光太郎さんに たいしても、ある質問をするのを見受けたことがある。
 私は思った。もうこれほどの人物になれば、自分の地位とか身分とかいうものを超越する。国家をも、国際をも超越 する。一つの長所を尊敬し、そして自分の不足をいつまでも補って行こうとする真理探究者のあの謙虚な態度に頭が下がったのであった。これだけの態度を見せ させられただけでも、私は今回教授を招いた価値のとても高貴であったことを感ぜずにはいられなかった。私は、この方の学問には聾唖で、こんな深奥な理論な どは皆目わかるはずがない。しかし、その人格的に感じたことから推しても、市井(しせい)で眺めたり、つき合ったりする人びとより一まわり、二まわりの大 きさを感ぜずにはいられなかった。
 教授は音楽が好きであった。ベルリンからヴァイオリンを携(たずさ)えて日本に来朝したのであったが、日本内地 を旅行中も、夕食後の気もちのいい時などには私などを慰める意味もこもっていたであろうが、ときどき提琴をきかさるるときがあった。私はそのとき、あの大 きな頭や、あのふくよかな顔をつくづく見入るのであったが、その瞬間ほど教授にとりて幸福な時間はないようであった。すべてを打ち忘れ、あらゆるものを超 越し、身の苦悩も、身の海外万里の地にあるのも打ち忘れて満身法悦にひたっているように見られたのであった。
 私は、教授の思想と、夫人との思想的立場が、どうであろうかはもちろん知るによしなきことではあるが、しかし、 夫人を愛するというよりは、いたわりつつむ至人的の態度にも打たれたのであった。
 夫婦の地位、教養の距たりは、ともすれば一方を侮蔑するがような、もしくは、心の窓を三分の一も展(ひら)かないようなものが有識者には殊に多いのに、 この人を知り、その夫人を知って、教授の心の領域が聖者にも近いものがあると私は感じたのであった。教授の宇宙を越え得べき精神思索、理想探求の奥は窺う こともできない私ではあるが、そのポツリ、ポツリ話し出す言葉を、私は、あたかもロダンの藝術にでも接するように、むさぼり味わったのであった。
 私は、この人は東洋のさびもわかる人である、とも思った。お能を見たとき、伶人の古楽をたのしみきいたとき、そ の批評がなかなか堂に入ったものであった。『改造』の十五年を叙して、思わぬ横町の風景にまではいってしまったが、私は教授の如く、文明、文化、百年、千 年のため、常に第一義的聖線に立ち得る資格について、深刻な瞑想にさそわるることもたびたびあった。自分たちは今、いかなる人間としての役割についている のか。発売禁止とか、切取りとかの険を冒して、何のために営々努力しているのか。われわれの最後の一線は、どこにあるのか。文化のためとか、文明のためと か、国家や、民族のためと、漠然とは言い得るにしても、さて、具体的にわれわれの方途を解剖し、理論づけることのできないプアな状態にあったその当時の私 であった
 だが、その当時からすれば我が日本もいちじるしく大人になった。そして万事が大国的に、外の大民族と対等の文化 的姿勢を取れるようになった。我が民族は伸び行く地力と、咀嚼とがあった。さりながら、私はそのときから十四年も経過して、依然呉下の阿蒙たる地位を脱す ることの出来ない身である。天才の恵まれているもののない私である。どうも同じ人間であっても、何だか、そこに非常な段階のあるような気がしてならぬ。少 くとも、私の頭というものが、テンポの速い我が日本の現勢にたいし、どれだけ今後、役立ち得るかということを考えて、私は自信がつきかねた。と同時に、す べての日本の思想的呑みこみの早さと、荒ッポさと、飽きッぽさにも合点のゆかぬふしだらけだ。
 アインシュタイン教授を迎える前に、米の哲学者デュウイ教授や、産児制限のサンガー女史をも迎えた。ところが女 史は横浜まで来て上陸が出来ぬ始末で、何とも気の毒の至りにたえなかった。しかし、神田青年会館で一回の演説を限ってやることを私から内務省に誓約して、 やっとのことで上陸ができたのであった。
 『改造』に外国のそれぞれの権威から寄稿したものは前記のほか、フッサール、リッケルト、ゴンパース、シド ニー・ウェッブ、カウツキー、コール、パンクハースト、へイウッド、バルビュッス、ハヴエロック・エリス、ベルンシュタイン、ゴールキー、胡適、クローデ ル、トロツキー、タゴール、ヨッフェ、ロマン・ローラン、ウェルズ、レーデラー、ピリニャーク、チャプリン、ムッソリニ、チャーチル、パンルヴェー 、バーナード・ショウ、魯迅、プリボイ、等々燎爛をきわめている。その多角・多彩的な顔ぶれを回想すれば、我が国が思想的に幾変遷したことが、ほぼ推知さ れるのである。
 このうちヨッフェの寄稿は、大正十二年初頭はじめて日ソ通商復活のため彼が労農特派使節として来朝し、囂々(ごうごう)たる我が国排ソの重囲にありて、 それも三十九度、四十度を越す重態の床上にありて執筆した労農政府を代表する重要な論文であった。「労農新旧経済政策」と題する熱烈、堂々たる構策で、こ れにたいし我が使節代表たる後藤新平氏も「対露意見」を翌月我が誌に発表して一世の注目を惹いた。
 それから我が誌の創作欄は創刊号において幸田露伴氏の「運命」がかなり問題となったが、大正十年新年号に志賀直 哉氏の一大長篇「暗夜行路」出ずるに及んで異常の衝動を与えた。芥川龍之介の如きは、明治以来の何人も企及することのできぬ出来栄えの確かな傑作であると 賞揚した。それまで志賀氏は短篇作家として十枚、二十枚のものを発表していたが、本篇は数年に亙って『改造』に連載された。また、谷崎潤一郎氏の中篇小説 「愛すればこそ」「卍 (まんじ)」も非常の歓迎を受けた。その他、評判の高かったものも多いのであるが、これらについては『改造』十周年号に千葉亀雄氏が批評したものと重複す るからここに省くこととする。
 私は、五、六年前までは、たいていの小説や戯曲は一読しておったが、自分の仕事のひろがるとともに、それもでき なくなった。ところが、昨年十一月から雑誌『文藝』を刊行するようになって、また以前のように月に幾つかは目にふれるようになった。そして『改造』の懸賞 創作の当選者たちとも、ときどき逢ってみる。私はこれらの人びとから他日、立派なものをかいてくれる人が出ることを念ずる。
 また私が、雑誌に関係するようになってから、ずいぶん、多くの文壇人が死んだ。鴎外氏の晩年ごろは、私はときどき上野に訪問した。そしていろいろの人に 紹介してももらった。ブッキラボウのようで深切味のある人であった。
 有島武郎氏とは、郷里が同じいので、ときどき原稿もかいてもらった。「宣言」や「描かれたる花」その他を記憶し ている。氏は内面的には強い人であったようだが、人から頼まれれば断わりきれないところがあった。私に紹介されたある社会主義者のために、私は、その死骸 までも片づけなければならぬこともあった。それから芥川君や、葛西君も、したしい交遊があり、特色のある人びとであり、まだ将来藝術的に何かを期待されて いたのに、惜しいことをしたものだ。岩野泡鳴君も、ちょいちょい、遊びにやって来た。君は私を苦手だといっておった。そしてときどき議論でもすると、すぐ に耳が真赤になったことをもおぼえている。
 私の日記から、文壇人とのいろいろの交際のことを抽き出してかいて置けば、案外、何かの役に立つであろうことが 少なくはないと思うが、今では、その気もなければ、その暇もない。また、大杉栄君や、福田徳三氏や、高畠素之君等、とても特長のある人びとに関してもその 通りだ。
 次に、私の社からの出版物としては第一に円本の先駆をなした『現代日本文学全集』を挙げ、それから『アインシュ タイン全集』、『経済学全集』、『マルクス・エンゲルス全集』、『資本論』、『日本地理大系』その他数十の全集を発行して来た。私はその代表的であり、画 期的である円本全集のいわれを一言してみたい。
 あの大正十二年九月一日の関東大震火災のために、東京のずいぶん大多数の図書が丸焼けになった。そして、それか らはいろいろな書籍の蒐集には甚だしい困難が伴ってくるとともに、いくら金を出しても集めることの困難なものができてきた。クラシックな書物の値段が高く なってくる。このとき一ばん困るのは読書子でなければならぬ。そこで金のあるもののところへだんだんすべての書籍が集められてしまう。そういうことになっ たら特権階級ばかりが、知識の独占者になって、それ以外の人びとは読みたい本も手に入(い)るることはできない。というので、これには円本をやるよりほか に行く道がない。円本をやるとすればどこに第一着に手をつくべきかを協議したところ、それは明治から大正までの文学の大集成がよかろうというので『現代日 本文学全集』が生るるに至ったのであった。 そしてそれを大正十五年(1926)十一月発表するに至った。
 何分、一冊に集録さるる枚数が二千枚内外であったので、市価十円のものが一円で買えるというので、出版界はひっ くり返るように驚いた。そしてこの壮挙が発表さるると共に、毎日毎日全国からは感激の手紙や端書が幾百通も、幾千通も来るという状態であった。
 我が社は、そのとき、経済状態は行き詰まっていた。この全集の成敗は我が社にとりて重要に影響してくる。そこで 全社員は二週間も、着のみ着のままで芝愛宕下一丁目の元の改造社に籠城したのであった。妻子のあるものも、帰宅しない夜が多くあるという悲壮な決意のもと にかかった。
 社はそのとき創立未だ日が浅いので、版権等の交渉についても、そして一人一冊とか、三人一冊とかの割当てについても、名状のできない困難に遭逢したので あった。
 が、同僚たちは固い信念のもとによく努力してくれる。そして文壇の人びとも、全国中を行脚(あんぎゃ)、遊説(ゆうぜい)して廻っていただくなど、ここ にも一つの前例がひらかれたのであった。結果は、世界に例のない画期的の好果にほほえむことができたのであった。それも、一昔前の夢ものがたりにすぎな い。
 私は改造社が本月を以て満十五年になるというので、社の若き人びとにいわれるままに、柄にもなく経験のとびとび や、断想のきれぎれをつなぎ合わせて見た。
 窮極のところ、こうした事業も、やっぱり一つの創作である。自分の腹からこみ上げてくる自信と創意とがなけれ ば、世を動かし、人を動かすことはできぬように思う。他の人がやってうまく行ったのを真似てみたところで、要するにそれは猿真似にすぎぬ。猿真似は心もち のいいものではないばかりか、人の腹のなかになんらの手応えをも与え得ない。
 三月はいつもいやな月である。児らの試験地獄を現前させられるいやな月である。しかし私どもの一生涯はただ単に三月ばかりでなく、その僅かの半日も、一 分間も、そしてそれが六十年、七十年を通じて間断なき試験場のようである。人類とか、民族とか、文化とか、文明とかの聖戦という美わしい名の前に、一分間 でもその努力が弛緩(しかん)することがあったならば、商業的には直ぐに落伍者となってしまうのである。
 私どもは何事をするのでも常に広い視野を一まわり見渡さねばならぬ。日本は日本ばかりで太って行くことができな いように、日本ばかりで通用する正義観や、道徳観であってはならぬことだ。われわれが毎月、毎月雑誌をつくって行く上に一ばん心を注ぐのはこの点である。 ことに、このごろの社会情勢は外国の長所を摂取することがいろいろと困難の事情が多いので、ジャーナリズムとしては一番痛心なときだ。始終ビクビクして神 経の捕虜となっている編輯者を見るにつけ、これで、どうして偉大な民族となるべきものへの糧となり得るものがつくられ得ようか? 永遠性への文化の礎柱 (そちゅう)を建立(こんりゅう)しなければならぬ社会的任務をどうして遂げ得られようかと考えさせるのだ。
 ガッチリした角力をとるには、ガッチリした体格と力量とを絶対の必要条件とするごとく、民族の偉大性を希求する ならば、その成長を自由ならしむべき方途に出でなければならぬのだ。
 私は、操觚者(そうこしゃ)として過去三十年間くらしてみたが、この一年ほど言論の自由や、発表の問題について 頭をいためたことはない。

      昭和9年『改造』4月号より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1673年(寛文13)日本黄檗宗の開祖隠元隆琦の命日(新暦5月19日)詳細
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