ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:続日本紀

usahachimanguu01

 今日は、奈良時代の769年(神護景雲3)に、宇佐八幡宮神託事件が起きた日ですが、新暦では10月28日となります。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上した事件です。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(和気広虫)を派遣せよと求められ、代わりにその弟の和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申しました。
 このことにより、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて、大隅に流刑とされます。しかし、天皇も道鏡を皇位につけるのを断念し、770年(神護景雲4年8月4日)に天皇が亡くなると状況が一変しました。
 同年に道鏡は、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られることになります。
 以下に、『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条の宇佐八幡宮神託事件の部分を現代語訳・注釈付きで全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇道鏡とは?

 奈良時代の法相宗の僧です。700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。
 若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。

〇和気清麻呂とは?

 奈良時代から平安時代初期に活躍した貴族で、公卿・和気氏の祖です。733年(天平5)に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)で、備前の豪族だった磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子として生まれましたが、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言いました。
 孝謙天皇の頃上京し、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得たとされます。764年(天平宝字8)に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し、765年(天平神護元)正月にその功労により、勲六等の叙勲を受けました。
 同年3月には、藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓し、翌年従五位下、次いで近衛将監に遷任され、特に封50戸を与えられます。769年(神護景雲3)に、称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき(宇佐八幡宮神託事件)に、広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され、「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏して道鏡の野心を退けました。
 そのため、道鏡の怒りを買って、名を別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と変えられ、大隅国(現在の鹿児島県)に配流されます。770年(宝亀元)に称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元)には従四位下となりました。
 その後、桓武天皇の下で、784年(延暦3)に長岡造京の功により従四位上、796年(延暦15)には平安京造営の功により、従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇ります。一方、吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』も奏上していました。
 しかし、799年(延暦18年2月21日)に、京都において数え年67歳で亡くなっています。死後、即日正三位を贈られ、遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてられました。

〇孝謙天皇(称徳天皇)とは?

 第46代・48代とされる天皇です。奈良時代の718年(養老2)に、聖武天皇の第2皇女(母は光明皇后)として生まれましたが、名は阿倍(あべ)と言いました。
 738年(天平10)に立太子し、史上唯一の女性皇太子となり、744年(天平17)に安積親王が没すると、聖武天皇の皇子がいなくなります。749年(天平勝宝元)に、父・聖武天皇の譲位により即位しましたが、母・光明皇后に後見され、皇太后のために新たに紫微中台が設置されました。
 752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を行いましたが、756年(天平勝宝8)に父・聖武上皇が亡くなり、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔が残されます。ところが、翌年に皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としました。
 同年に橘奈良麻呂や大伴古麻呂らが、新帝擁立のクーデターを計画して粛清される(橘奈良麻呂の乱)事件も起きています。758年(天平宝字2)に病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、760年(天平宝字4)には、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命されました。
 760年(天平宝字4)に、母・光明皇太后が亡くなると、淳仁天皇らと共に小治田宮に移り、翌年には保良宮に移ります。この頃、病気を患った際、傍に道鏡が侍して看病してから寵愛するようになり、淳仁天皇と対立、762年(天平宝字6)に淳仁天皇は平城宮に戻りましたたが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定めました。
 764年(天平宝字8)に、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅し、同年に五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言します。翌年には、「墾田永年私財法」の停止を勅して、貴族の墾田はいっさい禁じましたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じたものの、和気王の謀叛事件が起きました。
 766年(天平神護2)に、道鏡を法王に任じましたが、769年(神護景雲3)には、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とします。同年に、豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上(宇佐八幡宮神託事件)、和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されましたが、清麻呂を大隅国への流罪としました。
 しかし、道鏡を皇嗣とすることには失敗し、769年(神護景雲3)に道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸したものの、翌年そこで発病し、8月4日には奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)が後継となります。

☆宇佐八幡宮神託事件 (全文) 『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

   『続日本紀』巻第三十より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
(上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。銅元年春正月乙巳。
 
【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
(上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

daibutsukaigenkuyou0

 今日は、奈良時代の752年(天平勝宝4)に、奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われた日ですが、新暦では5月26日となります。
 盧舎那大仏開眼供養(るしゃなだいぶつかいげんくよう)は、いくつか行われてきていますが、奈良時代の752年(天平勝宝4年4月9日)に、東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養会を指す場合が一般的でした。開眼とは新造の彫像、鋳像、画像などに筆墨などで眼に点睛を加え、魂を入れる仏教儀式のことで、この時は、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后を初めとする要人が列席し、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)によって行われています。
 参列者は1万数千人に及んだといわれ、『華厳経』の講義や読み上げが行われ、五節・久米・楯伏・踏歌などの歌舞もあり、『続日本紀』では、この様子を「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」と記しました。この際に使用された器物が正倉院に多く収められ、宝物とされています。
 以下に、『続日本紀』巻第十八の天平勝宝4年条の盧舎那大仏の開眼供養の記述を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第十八の天平勝宝4年条の盧舎那大仏の開眼供養の記述

<原文>

夏四月、丁丑朔乙酉、盧舍那大佛像成、始開眼。
 是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。五位已上者、著禮服、六位已下者、當色。請僧一万。既而雅楽寮及諸寺種種音楽、並咸来集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西発声。分庭而奏。所作奇偉、不可勝記。仏法東帰。斎会之儀。未嘗有如此之盛也。

<読み下し文>

夏四月、丁丑朔乙酉、盧舎那大仏[1]の像も成りて始て開眼[2]す。
 この日東大寺[3]に行幸す。天皇みずから文武百官[4]を率い、斎を設けて[5]おおいに会せしむ。その儀もはら元日に同じ。五位已上は、禮服[6]を著し、六位已下は、當色[7]なり。僧一万を請ず。すでにして雅楽寮[8]及び諸寺より種々の音楽[9]並びにことごとく来集す。また王臣[10]諸氏の五節[11]、久米舞[12]、楯伏[13]、踏歌[14]、袍袴[15]等の歌舞、東西より声を発し、庭を分ちて奏す。作す所の奇偉[16]あげて記すべからず。仏法東帰より、斎会の儀[17]いまだかって批の如くの盛なること有らざるなり。

【注釈】

[1]盧舎那大仏:るしゃなだいぶつ=華厳経などで中心となる仏の大きな仏像。
[2]開眼:かいげん=新作の仏像・仏画を供養し、眼を点じて魂を迎え入れること。また、その儀式。
[3]東大寺:とうだいじ=南都七大寺の第一で、奈良市雑司町にある華厳宗の大本山。聖武天皇の発願により創建。
[4]文武百官:ぶんぶひゃっかん=文事と武事に関わるあらゆる役人。
[5]斎を設けて:=仏事のときの食事を設営して。
[6]禮服:らいふく=宮中儀式に用いた装束で、身分としては五位以上の官吏が用いた。
[7]當色:とうじき=位階に応じて定められた衣服の色、またはその衣服。
[8]雅楽寮:うたりょう=治部省に属し、日本で古くから伝承された歌舞や、唐、三韓などから伝来した歌舞を教習した。
[9]音楽:おんがく=天上の楽やそれを模した法会の楽のこと。
[10]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。
[11]五節:ごせち=五節の豊明節会(とよのあかりのせちえ)に行なわれる少女の舞。
[12]久米舞:くめまい=宮中の儀式歌舞。もと久米氏が、のちには大伴・佐伯両氏が大嘗会などに奉仕した。
[13]楯伏:たてふし=盾・刀などを持って舞うこと。
[14]踏歌:とうか=あらればしり。古代の群集舞踏で足で地を踏み、拍子をとって歌う。
[15]袍袴:ほうこ=袍や袴をつけた舞のこと。
[16]奇偉:きい=並はずれてりっぱであること。また、そのさま。
[17]斎会の儀:さいえのぎ=食事を教養する法会の儀式。

<現代語訳>

夏4月9日、盧舍那大仏像が完成して、開眼供養を行った。
 この日、天皇は東大寺へ行幸した。天皇みずからが文武の官人どもを率い、供養のための食事を設営して、盛大に催された。その儀式は、まるで元日と同じようであった。五位以上の官人は礼服を着用、六位以下の官人は位階に見合った朝服を着用した。僧は一万人が招請された。すでに雅楽寮および諸寺より種々の楽人がことごとく集められた。また王臣諸氏の五節の舞、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等の歌舞が催された。東西に分かれて声を発し、庭に分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、書き尽せないほどであった。仏法が東方から伝来してより、食事を供与する法会としていまだかってこのような盛大なものはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

chikuzenijyoirei01

 今日は、奈良時代の711年(和銅4)に、「蓄銭叙位令」が出された日ですが、新暦では12月7日となります。
 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)は、銭貨の流通を図り、政府への還流をもくろんで出された、売位制度の一種ともいえる法令で、「蓄銭叙位法」とも呼ばれてきました。708年(和銅元)に鋳造した貨幣の和同開珎 (かいちん) が、当時の米や布などの物品経済になかなか浸透しなかったため、銭を一定額蓄えた者に対し、その銭の政府への納入を条件として、位を昇進させることにしたものです。
 ちなみに、銭1000文を1貫と換算して、八位~従六位では10貫以上で1階、20貫以上で2階位を進め、初位では5貫ごとに1階進め、初位から従八位下に入るときには10貫とし、正六位以上で10貫以上蓄銭したものは臨時の勅によって処遇するとされました。最初は有位者のみを対象としましたが、同年12月20日に、無位・白丁から有位者となる際の銭の額を定める追加法が出されています。
 しかし、この法令が出来たことにより、かえって地方の有力者に銭貨が死蔵される結果となり、800年 (延暦19) に廃止されました。

〇「蓄銭叙位令」711年(和銅4年10月23日)発令 (12月20日)追加発令

<原文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔曰。夫銭之為用。所以通財貿易有無也。当今百姓。尚迷習俗、未解其理。僅雖売買。猶無蓄銭者。随其多少。節級授位。其従六位以下。蓄銭有一十貫以上者。進位一階叙。廿貫以上進二階叙。初位以下。毎有五貫進一階叙。大初位上若初位。進入従八位下。以一十貫為入限。其五位以上及正六位。有十貫以上者。臨時聴勅。(中略)夫申蓄銭状者。今年十二月内。録状并銭申送訖。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又制蓄銭叙位之法。無位七貫。白丁十貫。並為入限。以外如前。

 『続日本紀』より

<読み下し文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔して日く、「夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する[1]所以なり。当今百姓なほ習俗に迷ひて[2]、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して[3]位を授けん。其れ従六位以下[4]蓄銭一十貫[5]以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。大初位もしくは初位から上、従八位下に進めて入るは、一十貫をもって入る限りとなす。其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け[6]」(中略)夫れ蓄銭の状を申むは、今年十二月の内に、状を并せて銭を録して申し送り訖れ。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又蓄銭叙位之法を制す。無位七貫。白丁[7]十貫。並に入る限りとなす。以外は前の如し。

【注釈】

[1]貿易する:ぼうえきする=品物を交換する。
[2]習俗に迷ひて:しゅうぞくにまよいて=古い習慣に従って。
[3]節級して:せっきゅうして=等級・段階を設けて。
[4]従六位以下:じゅろくいいか=従六位以下としたのは、五位以上は天皇の裁決による勅授とされていたために、区別している。
[5]一十貫:いちじゅっかん=銭千枚(1枚が1文)で一貫、十貫は和同開珎にして一万枚。
[6]勅を聴け:ちょくをきけ=天皇の裁決による。
[7]白丁:はくてい=官途につかず、口分田を班給されて税を納め課役を負担する者。無位無官の公民。

<現代語訳>

(和銅4年(711年)冬10月23日の条)
 詔して言うことには、「およそ銭というものは、財を普及し、必要な品物を交換するのにまことに有益なものである。ところが、現在では人々はなお古い習慣に従って、いまだにその理由を理解していない。わずかに銭を用いて売買するといっても、なおそれを蓄える者はいない。そこで銭を蓄えた額の多少に応じて、等級・段階を設けて位を授けることにした。従六位以下で、10貫以上の銭を蓄えた者には、位を一階昇進させよう。20貫以上の銭を蓄えた者には、位を二階昇進させよう。初位以下は、5貫ごとに一階昇進させよう。大初位・初位から上の従八位下に進めて入るには、10貫以上が必要なものとする。その五位以上及び正六位は、10貫以上の銭を蓄えた者は、臨時の天皇の裁決による。」(中略)それ蓄銭叙位令に基づいての申請は、今年12月の内に、申請状と銭を併せて記録して申し送りおわれ。

(和銅4年(711年)12月の条)
 20日。また蓄銭叙位令を(追加)制定する。無位は7貫以上、白丁は10貫以上の蓄えは、有位者となるに必要なものとする。それ以外は前と同じである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の743年(天平15)に、「墾田永年私財法」が出された日ですが、新暦では6月23日となります。
 「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」は、聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた古代の土地法で、墾田永代私有法、墾田永世私有法、墾田永世私財法とも呼ばれてきました。令制の班田収授法は、人口の増加により田地の不足をきたし、これを補うため、723年(養老7)に「三世一身法」が出され、期限付きで開墾者の田主権を認めましたが、収公の期限が近づくと耕作の意欲が衰え、そのために墾田の荒地化が目立ってきます,そこで、位階による制限面積を超えないこと、国司の許可を得ること、許可後3年以内に開墾し終わることなどの条件のもとで、墾田の永世私有を許したもので、これによって公地公民の大原則が崩れ、社寺・貴族による大土地所有が活発化し、荘園制成立の要因となります。以下に、これを記した『続日本紀』天平十五年(743年)五月乙丑(27日)条を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

☆『続日本紀』天平十五年(743年)五月乙丑(27日)条

<原文>

(天平十五年五月)乙丑。詔曰。如聞。墾田、依養老七年格。限満之後。依例収授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任為私財、無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品・四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領・少領三十町。主政・主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隠欺、科罪如法。国司在任之日。墾田一依前格。但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。

<読み下し文>

(天平十五年五月)乙丑。詔して日く、「聞くが如くんば、墾田は養老七年の格[1]に依りて、限満つるの後、例に依りて収授す[2]。是に由りて農夫怠倦して、開ける地復た荒れると。今自り以後は、任[3]に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉永年取る莫れ[4]。其の親王[5]の一品[6]及び一位[7]には五百町、二品及び二位には四百町、三品四品及び三位には三百町、四位には二百町、五位には一百町、六位已下八位已上五十町、初位已下庶人に至るまでは十町。但し郡司は大領[8]・少領[9]には三十町主政[10]・主帳[11]には十町。若し先に給える地、茲の限りより過多なる有らば、便即ち公に還せ。姦作隠せらば、罪を科すること法の如くにせよ。其の国司在任の日は墾田は、一に前格によれ。但し人、田を開かんが為に地を占めんは、先ず国に就きて申し請い、然る後にこれを開け。茲に因りて百姓の妨げ有る地を占請すること得ざれ。若し地を受くるの後、三年に至るも本主開かざれば、他人の開墾を聴せ。」と。

【注釈】

[1]養老七年の格:ようろうななねんのきゃく=格は律令を修正・追加した法令で、「三世一身法」をいう。
[2]例に依りて収授す:れいによりてしゅうじゅす=三世もしくは一身を過ぎると収公する。
[3]任:まま=意のままに。
[4]取る莫れ:とるなかれ=収公してはいけない。
[5]親王:しんのう=天皇の兄弟や皇子。
[6]一品:いっぽん=親王の位階で一品から四品まで四階級あった。
[7]一位:いちい=官人の位階は一位から八位までと初位の位階があり、正一位から少初位下まで三十階級あった。
[8]大領:かみ=郡司の四等官の長官(一番目)。
[9]少領:すけ=郡司の四等官の次官(二番目)。
[10]主政:じょう=郡司の四等官の判官(三番目)。
[11]主帳:さかん=郡司の四等官の主典(四番目)。

<現代語訳>

 天平15年(743年)5月24日。(聖武天皇が)詔して言うことには、「聞くところによると、墾田の取扱いは、養老7年格(三世一身法)に基づき、期限がくれば、従前どおり三世もしくは一身を過ぎると収公していた。しかし、そのために開墾地を耕す農民は張り合いがなくなって怠け、せっかく開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、意のままに私財とすることを認め、三世一身の期限に関係なく、すべて永年にわたり収公してはいけないこととする。ただし、開墾私有地の限度は、親王の一品と官人の一位の位階を持つ者は500町。二品と二位は400町。三品・四品と三位は300町。四位は200町。五位は100町。六位以下八位以上は50町。初位と庶民は10町とする。ただし、郡司については、大領・少領は30町、主政・主帳は10町を限度とする。もし、前から与えられていた田地で、この限度を超えているものがあれば、すみやかに国に返還させよ。不正に土地を所有して隠匿するものがあれば、罪を科すことは法の如くとする。国司の在任中における申請手続きは、前格(三世一身法)に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾するためにその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。それから後に開拓せよ。また、百姓の妨げとなる土地を占有しようとする申請は認めない。もし許可を受けた後、3年を経ても開墾していない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。」と。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の713年(和銅6)に、元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じた日ですが、新暦では5月30日となります。
 『風土記(ふどき)』は、元明天皇の勅により、各国の物産、動植物、土地の状況や地名、古老の伝承などを記す地誌を編集して言上したものでした。写本が現存するのは、出雲国・常陸国・播磨国・肥前国・豊後国のもの五つ(五風土記)ですが、『出雲国風土記』がほぼ完本で、他の四つは一部欠損して残っていて、文体は国文体を交えた漢文体となっています。
 その他に、『釈日本紀』、『万葉集註釈』などの他の文献に引用されたりして、断片的に残っているもの(風土記逸文)も知られてきました。
 『出雲国風土記』は733年(天平5)に成立したことがはっきりしていますが、他の諸国の風土記は、だいたい天平年間 (729~749年) までに編纂されたとみられるものの、その後中央に提出されたものは多く散失したらしく、925年(延長3)12月の太政官符(だいじょうかんぷ)によって再提出の命が出されています。
 後世にも、風土記と称するものが各地で編纂されましたが、これらと区別して「古風土記」とも呼ばれてきました。
 尚、以下に諸国に『風土記』の編纂を命じた、『続日本紀』の「和銅六年五月甲子」の記述を掲載(注釈・現代語訳付)しておきましたので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』の「和銅六年五月甲子」の記述

<原文>

 和銅六年五月甲子、制。畿内七道諸国郡郷名、着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獣魚虫等物。具録色目。及土地沃塉。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍亦宜言上。

<読み下し文>

 和銅六年五月甲子、制すらく。畿内七道諸国[1]の郡郷名は好き字[2]を着けよ。其の郡内に生ずる所の、銀・銅・彩色[3]・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目[4]を録せしむ。及び土地の沃塉[5]、山川原野の名号の所由[6]、又古老の相伝旧聞[7]異事[8]は、史籍[9]に載せて亦宜しく言上すべし。

【注釈】

[1]畿内七道諸国:きないしちどうしょこく=畿内と東海道・東山道・南海道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道のこと。当時の政権が掌握していた全地域を指す。全国。
[2]好き字:よきじ=実際には地名が吉祥な漢字二字で表記された。
[3]彩色:さいしき=いろどり。
[4]色目:しきもく=品名。種類。
[5]沃塉:よくせき=土地の肥えているか痩せているかの状態。肥沃度。
[6]名号の所由:みょうごうのよるところ=名称の由来。
[7]古老の相伝旧聞:ころうのそうでんきゅうぶん=古老の伝える古い伝承。
[8]異事:いじ=珍しい話。変わった話。
[9]史籍:しせき=正式な文書記録。

<現代語訳>

和銅六年(713年)五月甲子(2日)の条
 次のように制定した。「畿内七道諸国の郡や郷の名前は良い字を選定してあてよ。其の郡内で産出する所の、銀・銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具体的にその種類を記録させよ。またその土地の肥沃度、山や川、原野の名称の由来、また古老の言い伝えや変わった話などを正式な文書記録として掲載して、政府に提出するようにせよ。」

☆各国の風土記で写本が現存または逸文として知られているもの一覧

<写本として現存しているもの>

・出雲国風土記
・播磨国風土記
・肥前国風土記
・常陸国風土記
・豊後国風土記

<逸文として知られているもの>

・山城国風土記
・摂津国風土記
・伊勢国風土記
・尾張国風土記
・陸奥国風土記
・越後国風土記
・丹後国風土記
・伯耆国風土記
・備中国風土記
・備後国風土記
・阿波国風土記
・伊予国風土記
・土佐国風土記
・筑前国風土記
・筑後国風土記
・豊前国風土記
・肥後国風土記
・日向国風土記
・大隅国風土記
・壱岐国風土記
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ