その後、時代とともに変化し、また地域や業種によっても差異がありました。それが統一されるのは、1590年(天正18)に豊臣秀吉が太閤検地を開始してからのこととなります。
以下に、度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布した記事のある『続日本紀』巻第二の大宝二年三月の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。
学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。
今日は、奈良時代の734年(天平6)に、「得度・授戒の制」が定められた日ですが、新暦では12月20日となります。
「得度・授戒の制」(とくど・じゅかいのせい)は、一般に剃髪(髪を剃ること)し、弟子となるために求められる戒のお授けをいただいて仏弟子となる儀式ですが、聖武天皇の御代に厳格化されました。
当時は、僧侶になれば税を逃れられるため、勝手に出家する人々も多く、規律も乱れ始めます。それまで、家を出て仏門にはいる人は、嘱託請求によるところが多かったのですが、法華経一部、あるいは最勝王経一部を暗誦し、併せて仏を礼拝することを理解し、清浄な行いが3年以上の者のみを選ぶようにしたものでした。
この後、聖武天皇は、この国が仏法によって守護されることを願い、741年(天平13)に、「国分寺建立の詔」を出し、全国に国分寺、国分尼寺を創建、743年(天平15)に「大仏造立の詔」を発し、仏教興隆のために邁進していきます。
以下に、『続日本紀』卷第十一の天平6年11月21日の条に書かれている「得度・授戒の制」について、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『続日本紀』卷第十一 天平6年11月21日の条
<原文>
戊寅。太政官奏。仏教流伝、必在僧尼。度人才行、実簡所司。比来出家、不審学業。多由嘱請。甚乖法意。自今以後。不論道俗。所挙度人。唯取闇誦法華経一部。或最勝王経一部。兼解礼仏。浄行三年以上者。令得度者。学問弥長。嘱請自休。其取僧尼兒詐作男女。令得出家者。准法科罪。所司知而不正者与同罪。得度者還俗。奏可之。
<読み下し文>
戊寅[1]。太政官[2]奏すらく、「仏教の流伝[3]は、必ず僧尼に在り。度人[4]の才行[5]は、実に所司[6]に簡ぶ。比来出家[7]は、学業を審らかにせず、多く嘱請[8]に由る。甚だ法意[9]に乖けり。今より以後、道俗[10]を論ぜず、挙する所の度人[4]は、唯法華経[11]一部、或は最勝王経[12]一部を闇誦[13]し、兼ねて礼仏[14]を解し、浄行[15]三年以上の者を取りて得度[16]せしめば、学問弥長えにして、嘱請[8]自ら休まん。其の僧尼兒を取り詐て男女と作して、出家[7]することを得令めは、法に准して罪を科せん。所司[6]知て而正さざれば、者与同罪、得度[16]の者をば還俗[17]せしめんとす。」と。これを奏可す。
【注釈】
[1]戊寅:ぼいん=十干と十二支とを組み合わせたものの第一五番目。こでは11月21日のこと。
[2]太政官:だじょうかん=令制で、国政の最高機関。八省以下の百官を総轄し、国家の大政を総理する。
[3]流伝:るでん=世に広まり伝わること。広く言い伝えられること。
[4]度人:どじん=得度する人。
[5]才行:さいこう=才知と品行。才能と身持ち。
[6]所司:しょし=僧侶の職名。行事・勾当・公文など寺務をつかさどる僧の総称。
[7]出家:しゅっけ=家を出て仏門にはいること。俗世を離れ仏法修行の道にはいること。
[8]嘱請:しょくせい=嘱託請求。
[9]法意:ほうい=法の趣意。
[10]道俗:どうぞく=僧侶と俗人。仏道にはいっている人と俗世間の人。
[11]法華経:ほっけきょう=大乗仏教経典の一つで、「妙法蓮華経」の略称。
[12]最勝王経:さいしょうおうきょう=仏教の教典の一つで「金光明最勝王経」のこと。
[13]闇誦:あんしょう=文章などをそらで覚えて口に出すこと。そらよみ。
[14]礼仏:らいぶつ=仏を礼拝すること。
[15]浄行:じょうぎょう=清浄な行い。特に、淫欲をつつしむこと。
[16]得度:とくど=涅槃(ねはん)の彼岸に渡ること。転じて、出家して僧尼となること。
[17]還俗:げんぞく=出家した者がふたたび俗人に戻ること。
<現代語訳>
11月21日。太政官が奏上した。「仏教が世に広まり伝わるかは、必ず僧尼によります。出家して僧尼となろうとする人の才知と品行は、実に担当僧侶が選ぶところです。この頃の出家は、学業を究めないで、多くが嘱託請求に由っています。はなはだ法の趣意に乖離するものです。今より以後は、僧侶と俗人を問わず、推挙され出家して僧尼となろうとする人から、ただ法華経一部、あるいは最勝王経一部を暗誦し、併せて仏を礼拝することを理解し、清浄な行いが3年以上の者のみを選んで、出家して僧尼となるようにすれば、学問にもよく長じて、嘱託請求は自ら少なくなるでしょう。その僧尼の子供をもらい受け、偽って自分の家の男女となして、出家することをさせたならは、法に準拠して罪を科すことにします。担当僧侶が知っていて正さなかったならば、その者も同罪とし、出家して僧尼になった者も俗人に戻させることとします。」と。これを許可された。
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今日は、奈良時代の715年(霊亀元)に、元正天皇が「陸田での麦・粟を奨励する詔」を出した日ですが、新暦では11月7日となります。
「陸田での麦・粟を奨励する詔」(りくでんでのむぎ・あわをしょうれいするみことのり)は、人民の浮浪・逃亡が顕著となる中で、少しでも人民の生活を安定させるために、元正天皇によって出された詔でした。内容は、陸田(畑)での麦や粟の栽培を奨励するもので、稲の代わりに粟で納税することも許可するとしています。
古代律令体制下の奈良時代初頭には、過酷な支配に耐え切れず、人民の浮浪・逃亡の実態が顕著になり、元明天皇は、715年(霊亀元年5月1日)に、「浮浪の扱いに関する勅」、717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出についての詔」を出しました。そして、元正天皇の代になって、人民の生活を少しでも安定させるために、この詔が出されたものの、その後も浮浪・逃亡が続き、口分田の不足も深刻化してきたので、722年(養老6年閏4月25日)に「百万町歩開墾計画」を作成、723年(養老7年4月17日)に田地の不足を解消するために「三世一身法」を制定します。
さらに、743年(天平15年5月27日)に聖武天皇によって、「墾田永年私財法」が制定されるに及び、公地公民の大原則が崩れ、社寺・貴族による大土地所有が活発化し、荘園制成立の要因となっていきました。
以下に、『続日本紀』卷第七(元正紀一)霊亀元年の条の「陸田での麦・粟を奨励する詔」を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「陸田での麦・粟を奨励する詔」 『続日本紀』卷第七(元正紀一)霊亀元年の条
<原文>
冬十月乙夘。詔曰。國家隆泰。要在冨民。冨民之本。務從貨食。故男勤耕耘。女脩絍織。家有衣食之饒。人生廉耻之心。刑錯之化爰興。太平之風可致。凡厥吏民豈不勗歟。今諸國百姓未盡産術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋稼若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存教導。宜令佰姓兼種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗。於諸穀中。最是精好。宜以此状遍告天下。盡力耕種。莫失時候。自餘雜穀。任力課之。若有百姓輸粟轉稻者聽之。
<読み下し文>
冬十月乙夘[1]。詔して日く、「國家の隆泰[2]は要、民を富ますにあり。民を富ますの本は務めて貨食[3]よりす。故に男は耕耘[4]に勤め、女は機織[5]を脩め、家に衣食の饒[6]有りて、人に廉耻の心[7]生ぜば、刑錯の化[8]、爰に興り、太平の風[9]致るべし。凡そ厥の吏民[10]、豈に勗めざらめや。今諸国の百姓未だ産術[11]を尽くさず、唯水沢の種[12]に趣いて陸田[13]の利を知らず。或は撈旱[14]に遭えば更に余穀[15]なく、秋稼[16]若し罷めば多くは飢饉をいたす。此れ乃ち唯百姓の懈懶[17]のみに非ず。固に國司[18]教導[19]を存ぜ不る由る。宜く百姓[20]をして麦禾[21]を兼ね種うること、男夫[22]一人ごとに二段[23]ならしむべし。凡そ粟[24]の物たる、支うること久しくして敗れず、諸の穀[25]の中に於て最もこれ精好[26]なり。宜く此の状を以てあまねく天下に告げて、力をつくして耕種[27]せしめ、時候[28]を失うことなかるべし。自余の雑穀は力に任せて之を課せよ。若し百姓[20]粟[24]を輸して稲に転ずる者あらば之を聴せ。」と。
【注釈】
[1]乙夘:おつぼう=十干と十二支とを組み合わせたものの第五十二番目。ここでは、10月7日のこと。
[2]隆泰:りゅうたい=栄えてよく治まること。
[3]貨食:かしょく=貨幣と飲食物。財貨と食物。転じて、経済のこと。
[4]耕耘:こううん=田畑を耕して雑草を除去すること。たがやして作物を作ること。
[5]機織:きしょく=はたを織ること。はたおり。
[6]衣食の饒:いしょくのじょう=衣食を豊かにすること。
[7]廉耻の心:れんちのしん=清らかで恥を知る心。
[8]刑錯の化:けいおくのか=刑罰をさしおいて用いない変化。天下がよくおさまり、犯罪がおこらないことのたとえ。
[9]太平の風:たいへいのふう=世の中がおだやかに治まる風習。世の中が静かで平和な状態。
[10]厥の吏民:けつのりみん=彼の役人と人民。
[11]産術:さんじゅつ=生業の技術。産業の方法。
[12]水沢の種:すいたくのしゅ=湿地の種子。ここでは湿地での稲作のこと。
[13]陸田:りくでん=はたけ。また、律令制下で、五穀をつくる乾田のこと。
[14]撈旱:ろうかん=大水や日照り。水害と干害。
[15]余穀:よこく=貯えている穀物。
[16]秋稼:しゅうか=秋のとりいれ。秋の収穫。
[17]懈懶:おこたり=怠り。惰り。
[18]國司:こくし=令制により、中央から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称。
[19]教導:きょうどう=教え導くこと。
[20]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[21]麦禾:ばくか=麦と稲、粟。
[22]男夫:だんぷ=成年男子。
[23]段:たん=面積の単位、1町の10分の1。
[24]粟:あわ=イネ科の一年草で五穀の一、実は小粒で黄色、古くから栽培され、粟飯・粟餅などにして食べた。
[25]穀:こく=田畑でつくられ、人が常食にするもの。また、麦、粟、キビ、ヒエ、豆などのこと。
[26]精好:せいこう=細かな点にまで注意して工夫をこらし、良い結果や良いできばえのもの。
[27]耕種:こうしゅ=田畑をたがやし、種や苗を植えること。田畑をたがやし作物を作ること。
[28]時候:じこう=ものごとを行なうのにふさわしい時期。
[29]自余:じよ=その他。
[30]輸して:ゆして=税として。
<現代語訳>
冬10月7日。詔して言うことには、「国家の栄えてよく治まることの要は、人民を富ますことである。人民を富ますことの基本は財貨と食物を増やすことに務めることである。よって男は田畑を耕して作物を作ることに勤め、女ははたを織ることに勤め、家の衣食を豊かにすることが有って、人に清らかで恥を知る心が生じれば、天下がよく治まり、犯罪が起こらないような変化が興り、世の中が静かで平和な状態となるであろう。およそ彼の役人と人民は、努力しないで良いのだろうか。今諸国の人民はいまだに生業の技術を尽くしておらず、ただ湿地での稲作に精を出し、陸田(畑)の良さを知らない。従って水害や干害に遭遇すれば、さらに貯えている穀物もなく、秋の収穫がもしダメになれば、多くは飢饉に見舞われてしまう。これはただ人民の怠りのみではない。もとより国司の教え導かないことによる。ぜひとも人民に命じて麦と共に稲、粟を栽培させること、成人男子一人ごとに二段の割合とするようにせよ。そもそも粟という物は、長期間保存しても腐らず、諸々の穀物の中において最もこれはすぐれたものである。ぜひともこのことを広く天下に告げて、力を尽くして田畑を耕し作物を作らせ、適期を逸しないようにさせよ。その他の雑穀は人民の力に任せてこれを課せ。もし人民が粟を税として、稲の代わりにする者があったならばこれを許可せよ。」と。
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今日は、奈良時代の717年(養老元)に、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出された日ですが、新暦では6月30日となります。
浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)は、古代律令体制下で、農民などが戸籍・計帳に登録されている本籍地から離脱した状態にあることでした。厳密には、本籍地を離れた者の内で、他国にあっても課役をすべて負担している場合を浮浪、課役を負担していない場合を逃亡と言うとされています。
すでに奈良時代初頭には、この実態が顕著になり、715年(霊亀元年5月1日)には、「浮浪の扱いに関する勅」で、諸国の朝集使に対して、浮浪の事実を追認して、3ヶ月を経過している者は、現地で把握して、調・庸を徴収するように命じました。717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出され、これらの人民を王族・臣下が本籍地の役所を通さずに私的に使用することが禁止されていて、あらためて罰するように命じ、僧尼になるのも16歳以下の者が国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならないと厳命しています。
その後も、この状況は続き、計帳を見るとその1割近くが浮浪・逃亡していたとされていました。しかし、後を絶たないので、8世紀末にはついに「浮浪人帳」を作成し、現地で把握して、調・庸を徴収するようにしています。
これらのことは、律令制を揺るがせ、徐々に荘園制へと移っていくことにもなりました。
以下に、『続日本紀』の卷第六霊亀元年(715年)5月1日の「浮浪の扱いに関する勅」と卷第七(元正紀一)養老元年(717年)5月の条の「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『続日本紀』卷第六(元明紀三) 霊亀元年(715年)5月1日「浮浪の扱いに関する勅」
<原文>
霊亀元年五月辛巳朔。勅諸国朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。経三月以上者。即云断輸調庸。随当国法。
<読み下し文>
霊亀元年五月辛巳朔。諸国の朝集使[1]に勅して日く、「天下の百姓[2]、多く本貫[3]に背きて、他郷に流宕[4]して課役[5]を規避[6]す。其の浮浪[7]逗留[8]して、三月以上を経たる者は、即ち土断[9]して調[10]庸[11]を輸さしむること、当国の法に随え。」
【注釈】
[1]朝集使:ちょうしゅうし=律令制で、四度の使いの一。国・群の公文書を中央に進上する役人。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]本貫:ほんがん=本籍・ 本籍地のこと。律令制下では戸籍に記された土地。
[4]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[8]逗留:とうりゅう=旅先などに一定期間とどまること。滞在。
[9]土断:どだん=移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせること。土着。
[10]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[11]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。
<現代語訳>
霊亀元年(715年)5月1日。諸国の朝集使に対して、天皇から命令が出された。「諸国の人民、多くが本籍地を離れて、他国に流浪のまますごして租税や労役を巧妙にのがれている。その本籍を離れて他国に流浪して一定期間とどまっていて、3ヶ月以上を経過した者は、すなわち移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせ調・庸を負担させることとし、その国の法に従わせよ。」と
〇『続日本紀』卷第七養老元年(717年)5月の条「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」
<原文>
丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。
<読み下し文>
丙辰。詔して曰はく、「率土[1]の百姓[2]、四方[3]に浮浪[4]して、課役[5]を規避[6]し、遂に王臣[7]に仕えて、或は資人[8]を望み、或は得度[9]を求む。王臣[7]、本属[10]を経ずして、私に自ら駈使[11]し、国郡に嘱請[12]して、遂にその志を成す[13]。茲に因りて、天下に流宕[14]して、郷里に帰らず。若し斯の輩[15]有りて、輙く私に容止[16]せば、状を揆り[17]て罪を科せむこと、並に律令[18]の如くせよ。また、令に依るに、僧尼は年十六以下の庸[19]・調[20]を輸さぬ者を取りて童子[21]とすることを聴す。而れども国郡を経るに非ずは、輙く取ることを得じ。また、少丁[22]以上は聴すべからず。」と。
【注釈】
[1]率土:そつど=陸地の続くかぎり。国の果て。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[4]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。 上級官僚である王族・臣下。
[8]資人:しじん=律令制における下級官人。親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。
[9]得度:とくど=剃髪して出家具戒すること。僧侶になること。古代では国家から許可されることによって出家となった。
[10]本属:ほんぞく=律令制で、その人の本籍の地の役所。また、その人の生まれ育った家や土地。
[11]駈使:くし=追いたてて使うこと。こき使うこと。「
[12]嘱請:しょくせい=頼み込むこと。
[13]志を成す:こころざしをなす=思い通りにする。
[14]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[15]輩:ともがら=同類の人々をさしていう語。仲間。
[16]容止:ようし=かくまうこと。
[17]揆り:はかり=はかり考え。やり方や方法を考え。
[18]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令で、律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[19]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。
[20]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[21]童子:どうじ=寺院へ入ってまだ得度剃髪せずに、仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年。
[22]少丁:しょうてい=大宝令制で、17歳以上20歳以下の男子の称。正丁の四分の一の税を負担した。
<現代語訳>
5月17日。詔の中で次のように述べられた。「国の果てまでの人民が、本籍を離れて諸国に流浪して、租税や労役を巧妙にのがれ、ついには王族・臣下に仕え、あるいは下級官人を望み、あるいは僧侶になることを求めている。王族・臣下の方でも、本籍の地の役所を通さずに、私的に自ら追い使い、国司や郡司に頼み込んで、ついにその思い通りにしてしまう。このために、世間に流浪のまま過ごして、郷里に帰らなくなってしまう。もしこのような連中がいて、軽々しく私的にかくまうならば、状況をはかり考え、罪を科すこと、律令のごとくにせよ。また、令によると、僧尼は16歳以下の庸・調を出さない者から選んで、寺院に入って修行する者とすることが許されている。けれども国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならない。また、少丁(17歳以上20歳以下の男子)以上の者は許されるものではない。」と。
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今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、墾田永年私財法の停止(加墾禁止令)が出された日ですが、新暦では3月30日となります。
「加墾禁止令(かこんきんしれい)」は、称徳天皇の寵愛をうけた僧の道鏡が政治の実権を握る中で、寺領を除く王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧するため、「墾田永年私財法」を停止する旨の太政官符の発布で、「墾田禁止令」とも呼ばれました。743年(天平15)の聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて、一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた「墾田永年私財法」が出されましたが、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態となったとして、寺院の定められた土地や当地の人々の一~二町の開墾を除いて、王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧したものです。
しかし、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、772年(宝亀3年10月14日)に墾田私有を許可(百姓を苦しませない限り)すると言う旨の太政官符が発布されました。これは、藤原氏ら富豪や大寺院などの圧力によるものと考えられています。
以下に、このことを記述した『続日本紀』巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「続日本紀」巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条
<原文>
丙申。勅。今聞。墾田縁天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦宜許之。
<読み下し文>
丙申[1]。勅すらく、「今聞く、墾田[2]は天平十六年格[3]に縁る。今より以後は、任に私財と爲し、三世一身[4]を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。」と。是に由りて、天下の諸人競ひて墾田[2]を爲し、勢力の家は百姓を駈役し、貧窮の百姓は自存するに暇無し[5]。今より以後は、一切禁斷[6]して加墾[7]せしむること勿れ。但し寺は、先來の定地開墾の次[8]は禁ずる限に在らず。又、當土の百姓[9]、一二町はまた宜しくこれを許すべし。
【注釈】
[1]丙申:へいしん=ここでは、(天平神護元年三月)五日のこと。
[2]墾田:こんでん=新たに開墾した田。
[3]天平十六年格:てんぴょうじゅうろくねんきゃく=墾田永年私財法のこと。
[4]三世一身:さんぜいっしん=本人・子・孫の代まで受け継ぐこと。
[5]自存するに暇無し:じぞんするにいとまなし=生計を立てる余裕がない。
[6]禁斷:きんだん=ある行為をしてはいけないと厳重に禁止すること。さしとめること。禁制。禁止。
[7]加墾:かこん=開墾を行うこと。
[8]先來の定地開墾の次:せんらいのていちかいこんのついで=かつて定められた土地を開墾すること。
[9]當土の百姓:とうどのひゃくしょう=その土地の人々。
<現代語訳>
(天平神護元年三月)五日、(称徳天皇は)勅した。「今聞くところでは、新たに開墾した田は、墾田永年私財法によって、任意に開墾者の私有財産と為し、本人・子・孫の代まで受け継ぐ(三世一身法)という制限なく、すべて永久に収公されないことになった。」と、これによって、天下の人々は競い合って新たに開田するようになり、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態である。今後は、一切禁止するので開墾を行ってはならない。ただし、寺はかつて定められた土地を開墾することについてはこの限りではない。また、その土地の人々が一~二町を開墾するのはこれを許可する。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1926年(大正15) | 「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される | 詳細 |
1929年(昭和4) | 社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日 | 詳細 |