ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:続拾遺和歌集

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 今日は、鎌倉時代の弘安元年に、藤原為氏が『続拾遺和歌集』(二十一代集の12番目)を撰上した日ですが、新暦では1279年2月9日となります。
 『続拾遺和歌集』(しょくしゅういわかしゅう)は、第12勅撰和歌集で、1276年(建治2年)7月に亀山上皇の命によって、藤原為氏が編纂を開始しました。『万葉集』や三代集(『古今和歌集』・『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)の時代の歌は除外し、一条朝正暦年間(990~995年)以後の歌から選定し、『拾遺和歌集』の体裁に従っています。
 弘安元年12月27日(1279年2月9日)に、撰上され奏覧となりましたが、20巻で1,459首が収載され、構成は序はなく、1巻(春上)・2巻(春下)・3巻(夏)・4巻(秋上)・5巻(秋下)・6巻(冬)・7巻(雑春)・8巻(雑秋)・9巻(羇旅)・10巻(賀)・11巻(恋一)・12巻(恋二)・13巻(恋三)・14巻(恋四)・15巻(恋五)・16巻(雑上)・17巻(雑中)・18巻(雑下)・19巻(釈教)・20巻(神祇)となっていました。主な歌人は、藤原為家(43首)、後嵯峨院(33首)、藤原定家(29首)、西園寺実氏(28首)、藤原俊成(22首)、藤原信実(21首)、藤原為氏(21首)、亀山院(20首)、一条実経(20首)、藤原基家(20首)で、二条派中心ではあるものの、関東武士の歌も多いのが特徴とされています。
 尚、御家人の作が多いことから、警固の時などにたく篝火(かがり)になぞらえ、「鵜舟集(うぶねしゅう)」の異名を以て揶揄されたと伝えられています。

〇勅撰和歌集とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成されて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

〇「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

966年(康保3)三蹟の一人とされる能書家・歌人小野道風の命日(新暦967年2月9日)詳細
1980年(昭和55)経済学者山田盛太郎の命日詳細
1987年(昭和62)小説家・児童文学者椋鳩十の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、第90代の天皇とされる亀山天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月4日となります。
 亀山天皇(かめやまてんのう)は、1249年(建長元年5月27日)に、京都において、後嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれましたが、名は恒仁(つねひと)と言いました。1258年(正嘉2)に10歳で立太子し、翌年には、兄の後深草天皇の譲位により、践祚、即位します。
 1265年(文永2)に元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行なしました。1272年(文永9)に父・後嵯峨法皇が亡くなり、治天の君の継承と皇室領荘園の問題が起こります。
 1274年(文永11)には、皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して、上皇として院政を開始しますが、同年に第1回元寇(文永の役)が起こりました。これにより炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納めたりしましたが、1281年(弘安4)に再度の元寇(弘安の役)に見舞われます。
 その後は、1285年(弘安8)に、公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節』を制定、鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、1286年(弘安9)には、評定制を大改革するなど意欲的に政治を行ないました。しかし、1287年(弘安10)に後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇の院政が開始されて総領権を奪われます。
 1289年(正応2)に出家(法名は金剛源)して、法皇となり、1291年(正応4年)には、離宮を喜捨して禅寺としますが、これが南禅寺の起源となりました。笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、『続拾遺和歌集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くし、勅撰集には計106首入集しています。
 この間、天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争う渦中にもありましたが、1305年(嘉元3年9月15日)に、京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「世のために 身をばをしまぬ 心とも あらぶる神は てらしみるらむ」(亀山院御集)
・「あまつかぜ 空にたちつつ あらかねの 土の色にぞ 秋もみえける」(嘉元百首)
・「とほざかる 声ばかりして 夕ぐれの 雲のいづくに 雁のなくらん」(続拾遺和歌集)
・「おしなべて 月やひとへに やどるらん 花の千種の 秋の白露」(続後拾遺和歌集)
・「しづかなる ねざめ夜ぶかき 暁の 鐘よりつづく 鳥のこゑごゑ」(新後撰和歌集)

〇亀山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1249年(建長元年5月27日) 京都において、御嵯峨天皇の第三皇子(母は大宮院結子)として生まれる
・1258年(正嘉2年8月) 10歳で立太子する 
・1259年(正元元年) 兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚、即位する
・1265年(文永2年) 元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、神社に異国降伏の祈願を行う
・1267年(文永4年) 皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生む
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てる
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる
・1274年(文永11年1月) 皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始する
・1274年(文永11年) 元寇(文永の役)により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり、敵国降伏の宸筆を納める
・1275年(建治元年) 熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる
・1276年(建治2年7月) 藤原為氏に勅撰集の編纂を命ずる
・1278年(弘安元年12月27日) 『続拾遺和歌集』として完成し、撰進される
・1281年(弘安4年) 再度の元寇(弘安の役)がある
・1285年(弘安8年) 公家の礼儀作法をまとめた『弘安礼節(こうあんれいせつ)』編纂させる
・1286年(弘安9年) 亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下される
・1286年(弘安9年) 評定制の改革を断行する
・1287年(弘安10年10月) 後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる
・1289年(正応2年9月) 出家(法名は金剛源)して、法皇となる
・1291年(正応4年) 離宮を喜捨して禅寺とする(南禅寺の起り)
・1302年(乾元元年) 後伏見上皇の願いで蹴鞠を伝授する
・1303年(乾元2年) 後伏見上皇の願いで朗詠を伝授する
・1290年(正応3年) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1305年(嘉元3年9月15日) 京都の亀山殿で数え年57歳で亡くなる

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