ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:絵画

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 今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、日本画家下村観山の亡くなった日です。
 下村観山(しもむら かんざん)は、明治時代前期の1873年(明治6)4月10日に、和歌山県で代々紀州徳川家に幸流の小鼓(こつづみ)で仕えていた家で、篆刻(てんこく)を業とした父・下村豊次郎、母・寿々の3男として生まれましたが、本名は晴三郎と言いました。
 1881年(明治14)、8歳のときに一家で上京し狩野芳崖に師事、北心斎東秀の号を名乗って少年時から天才と噂されます。1886年(明治19)には橋本雅邦に師事し、1889年(明治22)に第1期生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学、観山の号を用いはじめました。
 岡倉天心の薫陶を受け、1894年(明治27)に卒業後、同校の助教授となります。1898年(明治31)に、「美術学校騒動」によって、天心が美術学校を辞して日本美術院を創立すると、橋本雅邦、横山大観らと共に連袂辞職し、美術院正員となりました。
 1901年(明治34)に、要請されて東京美術学校教授となり、1903年(明治36)に、文部省の命で水彩画研究のためイギリスに派遣され、2年後ヨーロッパを回って帰国します。1906年(明治39)に、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、菱田春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深め、卓越した技法で気品高い数々の作品を発表しました。
 また、翌年より文部省美術展覧会 (文展) 審査員となったものの、1914年(大正3)にこれを辞退し、大観、安田靫彦らと日本美術院を再興し、主導的役割を果たします。1917年(大正6)に帝室技芸員となり、1919年(大正8)に帝国美術院会員に推挙されますが、大観と共に辞退し、在野を貫きました。
 伝統的日本画のもつ格調の高さを現代に生かし、気品に満ちた美しい色彩の作品を描き続け、1928年(昭和3)にフランス政府よりコンマンドゥール・カムボーシュ勲章を受章しましたが、1930年(昭和5)5月10日に、東京において、58歳で亡くなっています。

〇下村観山の主要な作品

・『熊野観花(ゆやかんか)』(1894年)
・『光明皇后』(1897年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・『修羅道』(1900年)東京国立博物館蔵
・『鵜鴎図』(1901年)滋賀県立近代美術館蔵
・『ダイオゼニス』(1903年)東京国立近代美術館蔵
・『木の間の秋』(1907年)東京国立近代美術館蔵 国指定重要文化財
・『大原御幸』(1908年)東京国立近代美術館
・『闍維(じゃい)』
・『日蓮上人(にちれんしょうにん)』
・『鵜図屏風』(1912年)東京国立博物館蔵
・『白狐(びゃっこ)』(1914年)東京国立博物館蔵
・『弱法師 (よろぼうし) 』(1915年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『春雨』(1916年)東京国立博物館蔵
・『楠公』(1921年)東京国立博物館蔵
・『景雲餘彩』(1922年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、日本画家上村松園の生まれた日です。
 上村松園(うえむら しょうえん)は、京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれましたが、本名は津禰(つね)と言いました。
 早くに父を亡くし、画才を見抜いた母の手で育てられ、1887年(明治20)に京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年に師事します。1890年(明治23)の第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品し、一等褒状を受賞しました。
 1893年(明治26)に幸野楳嶺に師事、1895年(明治28)には楳嶺の死去にともない、竹内栖鳳に師事します。1907年(明治40)第1回文展に『長夜』を出品、三等賞を受賞して評判となり、以後受賞を重ねました。
 優雅な作風の美人画で知られ、1916年(大正5)に文展無鑑査となり、1941年(昭和16)に帝国芸術院会員、1944年(昭和19)に帝室技芸員となります。太平洋戦争下で、1945年(昭和20)に奈良県平城村(現在の奈良市)の唳禽荘(れいきんそう)に疎開しましたが、戦後の1948年(昭和23)には、女性として初めて文化勲章を受章しました。しかし、1949年(昭和24)8月27日に、疎開先の奈良県において、74歳で亡くなっています。
 尚、息子は日本画家の上村松篁(しょうこう)として知られるようになりました。

〇上村松園の主要な作品

・『四季美人図』(1890年)第3回内国勧業博覧会一等褒状受賞
・『清少納言』(1892年)
・『人生の花』(1899年)
・『長夜』(1907年)第1回文展三等賞受賞
・『月かげ』(1908年)第2回文展三等賞受賞
・『舞支度』(1914年)
・『娘深雪(むすめみゆき)』(1914年)
・『花がたみ』(1915年)第9回文展二等賞受賞
・『焔(ほのお)』(1918年)
・『楊貴妃』(1922年)
・『待月、良宵之図』(1926年)
・『簾のかげ、新蛍』(1929年)
・『春秋図』(1930年)
・『伊勢大輔』(1930年)
・『母子』(1934年)国指定重要文化財
・『青眉(あおまゆ)』(1934年)
・『序の舞』(1936年)パリ万国博覧会入賞 国指定重要文化財
・『草紙洗小町』 (1937年)
・『雪月花』(1937年)
・『砧(きぬた)』(1938年)
・『晴日』(1941年)
・『夕暮』(1941年)
・『晩秋』(1943年)
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、洋画家児島虎次郎の生まれた日です。
 児島虎次郎(こじま とらじろう)は、岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)で、旅館仕出し業を営んでいた、父・児島弥吉と母・雪の次男として生まれました。
 1901年(明治34)絵画を学ぶため上京し、翌年東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学します。倉敷の実業家大原家の奨学生となり、成績優秀のため飛び級して、1904年(明治37)に卒業しました。
 1907年(明治40)に、東京府勧業博覧会で『情の庭』が一等賞となって、宮内省買い上げとなり、翌年から大原孫三郎の援助で渡欧します。1909年(明治42)に、ベルギーのガン市立美術学校に入学、印象派を学び、ソシエテ・ナシオナルのサロンにたびたび出品、1912年(明治45)には同校を首席で卒業しました。
 欧州各地を見学旅行し、同年11月に帰国後、岡山県倉敷市にアトリエを構え、毎年パリのサロンに出品します。1919年(大正8)~1921年(大正10)、1922年(大正11)から翌年にかけて、再度渡欧し、大原家の依嘱により美術の収集にあたり、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入、大原美術館の基礎をつくりました。
 この間、パリのサロン=ナショナル、サロン=デ=チュイルリーなどの正会員となり、1927年(昭和2)には帝展審査員にもなります。明るい彩調の印象主義画風として知られましたが、1929年(昭和4)3月8日に、47歳で亡くなりました。

〇児島虎次郎主要な作品

・『支倉常長像』(制作年不詳)東京芸術大学大学美術館蔵
・『静物(草花)』(制作年不詳)神奈川県立近代美術館蔵
・『漁夫』(1905年)東京芸術大学大学美術館蔵
・『里の水車』(1906年)大原美術館蔵 
・『登校』(1906年)高梁市成羽美術館蔵
・『情の庭』(1907年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵 東京府勧業博覧会一等賞授賞
・『宵の灯』(1907年)倉敷市立美術館蔵
・『化粧』(1908年)大原美術館蔵
・『裸婦素描』(1910年)岡山県立美術館蔵
・『ベゴニヤの畠(はたけ)』(1910年)大原美術館蔵
・『日本服を着たる白耳義の少女』(1911年)三重県立美術館蔵
・『奈良東大寺』(1916年)岡山県立美術館蔵
・『アルハンブラ宮殿』(1920年)大原美術館蔵
・『ストックホルム』(1922年)茨城県立近代美術館蔵
・『中山茂子像』(1923年)公益財団法人東京富士美術館
・『酒津の庭(水連)』(1924年–1928年頃)静岡県立美術館蔵
・『水仙を持つ少女』(1926年)岡山県立美術館蔵
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、日本画家小林古径の生まれた日です。
 小林古径(こばやし こけい)は、新潟県高田(現在の上越市)で、父・小林株、母・ユウの子として生まれましたが、本名は茂と言いました。
 4歳の頃に母、12歳の頃に兄、13歳の頃に父を亡くし、青木香葩(こうは)に日本画を習うようになります。1899年(明治32)に上京し、梶田半古の塾に入って歴史風俗画を学び、古径と号するようになりました。
 同年、日本美術院展に初出品した『村上義光』が入選、続けて同会に出品して受賞を重ねます。1907年(明治40)に第1回文展に『闘草』が入選、1910年(明治43)には、安田靫彦、今村紫紅らの紅児会の会員となりました。
 1912年(大正元)の第6回文展で『極楽井』が褒状を受けて脚光を浴び、1914年(大正3)の日本美術院再興に参加します。その第1回展に『異端』を出品し、同人に推され、以後続けて出品する中心メンバーとなり、1918年(大正7)には評議員となりました。
 1922年(大正11)に日本美術院の留学生として、前田青邨らと渡欧し、西洋美術を研究、ロンドンで「女史箴図巻」を模写します。翌年帰国後は、1935年(昭和10)に帝国美術院会員、1937年(昭和12)に芸術院会員、1944年(昭和19)に帝室技芸員となり、同年東京美術学校教授となって後進の育成にあたりました。
 戦後も東京芸術大学教授として1951年(昭和26)まで在職し、その間、1950年(昭和25)に文化勲章受賞、翌年文化功労者ともなっています。
 身近な風俗を題材に、新古典主義といわれる装飾性豊かな作品を描いてきましたが、1957年(昭和32)4月3日に、東京において、74歳で亡くなりました。

〇小林古径の主要な作品

・『村上義光』(1899年)
・『極楽井 (ごくらくのいど) 』(1912年)東京国立近代美術館蔵
・『異端』(1914年)東京国立博物館蔵
・『阿弥陀堂』(1915年)東京国立博物館蔵
・『竹取物語』(1917年)京都国立近代美術館蔵  
・『いでゆ』(1918年)東京国立博物館蔵
・『鶴と七面鳥』(1928年)永青文庫蔵
・『清姫』(1930年)山種美術館蔵
・『髪』(1931年)永青文庫蔵 国指定重要文化財
・『弥勒』(1933年)山種美術館蔵
・『孔雀』(1934年) 永青文庫蔵
・『楊貴妃』(1951年) 足立美術館蔵
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 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、洋画家岡田三郎助の生まれた日ですが、新暦では1月22日となります。
 岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)は、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)で、鍋島藩士の父・石尾孝基の三男として生まれましたが、幼名は芳三郎と言いました。
 1887年(明治20)に岡田家の養子となり、洋画家・曽山幸彦の画塾に入門します。曽山幸彦没後、1892年(明治25)に洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受けました。翌年、大幸館規定の科目を卒業し、卒業制作として『矢調べ』を描きます。
 1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に『初冬晩暉』を出品して妙技3等賞を受け、翌年東京美術学校西洋画科助教授となり、白馬会の創立にも参加しました。1897年(明治30)から、最初の文部省留学生として渡仏し、ラファエル・コランに師事、1902年(明治35)に帰国し、東京美術学校の教授に就任します。
 1907年(明治40)に東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受け、文展の審査員にも選ばれました。1912年(大正元)に藤島武二と本郷洋画研究所を設立、1919年(大正8)には、高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成にも加わります。
 1920年(大正8)に帝国美術院会員、1934年(昭和9)に帝室技芸員、1936年(昭和11)には東京美術学校校長事務取扱いとなりました。
 1937年(昭和12)に第1回文化勲章を受章し、帝国芸術院会員ともなり、華麗な格調高い画風で知られましたが、1939年(昭和14)9月23日に、東京の自宅において、70歳で亡くなっています。

〇岡田三郎助の主要な作品

・『矢調べ』(1893年)佐賀県立美術館蔵
・『初冬晩暉』(1895年)
・『岡部次郎像』(1898年)三重県立美術館蔵
・『読書』(1903年)
・『紫の調(某夫人の肖像)』(1907年)ブリヂスチン美術館蔵
・『清楚(少女)』(1907年)佐賀県立美術館
・『大隈伯夫人像』(1909年)早稲田大学蔵
・『ヨネ桃の林』(1916年)
・『水浴の前』(1916年)ブリヂスチン美術館蔵
・『支邦絹の前』(1920年)高島屋史料館蔵
・『緑陰婦人図』(1921年)岩崎美術館蔵
・『古き昔を偲びて』(1926年)黒川古文化研究所蔵
・『あやめの衣』(1927年)ポーラ美術館蔵
・『丹霞郷』(1933年)個人蔵
・『伊豆山風景』(1935年)佐賀県立美術館蔵
・『水辺の裸婦』(1935年)ひろしま美術館蔵
・『婦人半身像』(1936年)東京国立近代美術館蔵
・『編物』(1939年)黒川古文化研究所蔵
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