今日は、江戸時代中期の1743年(寛保3)に、陶工・絵師尾形乾山の亡くなった日ですが、新暦では7月22日となります。
尾形乾山(おがた けんざん)は、江戸時代前期の1663年(寛文3)に、京都の呉服商雁金(かりがね)屋を営む父・尾形宗謙の三男として生まれましたが、光琳の実弟にあたり、初名は権平(のち深省)、名は惟允と言いました。若年から学問を好み、文化的な素養を身につけ、1687年(貞享4年)には、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けます。
1689年(元禄2)の27歳の時、仁和寺の南に習静堂を構えて隠遁、参禅や学問に励み、近くにあった御室焼の陶工野々村仁清から本格的な陶法を学びました。1699年(元禄12)の37歳の時、仁清の嫡男清右衛門から仁清の陶法伝書を受け、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開いて、作品に「乾山」の銘を記します。
1710年(宝永7)に「銹絵松鶴図六角皿」(国指定重要文化財)を作陶、兄の光琳が絵付けをするなど共同制作の作品を成しましたが、1712年(正徳2)の50歳の時、京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住、1716年(享保元年6月2日)には、兄・光琳が亡くなりました。1731年(享保16)の69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住み、作陶を行い、精力的に絵画にも筆をとるようになります。
1737年(元文2)に下野国佐野で陶芸の指導を行い、この年に江戸で『陶工必用』、佐野で『陶磁製方』という二つの陶法伝書を著しました。また、すぐれた書を陶芸品や絵画に書き添え、独自の書風を示し、琳派普及の基礎を作ったものの、1743年(寛保3年6月2日)に、江戸において、数え年81歳で亡くなっています。
〇尾形乾山の国指定重要文化財の作品
<陶芸>
・「金銀藍絵松樹文蓋物(きんぎんあいえ しょうじゅもん ふたもの)」 出光美術館蔵
・「銹藍金絵絵替皿(さびあいきんえ えがわりさら)」5枚 根津美術館蔵
・「白泥染付金彩薄文蓋物(はくでいそめつけ きんさいすすきもん ふたもの)」 サントリー美術館蔵
・「銹絵滝山水図茶碗」 個人蔵
・「色絵龍田川文透彫反鉢」 岡田美術館蔵
・「色絵十二ヶ月和歌花鳥図角皿」 MOA美術館蔵
<光琳との合作(乾山が作陶、兄の尾形光琳が絵付け)>
・「銹絵寿老人図六角皿」 大倉集古館蔵
・「銹絵観鴎図角皿」 東京国立博物館蔵
・「銹絵絵替角皿」10枚 藤田美術館蔵
・「銹絵松鶴図六角皿」(1710年) 個人蔵
・「銹絵寒山拾得図角皿」2枚 京都国立博物館蔵
<絵画>
・「花籠図」 福岡市美術館蔵
・「八橋図」 文化庁保管蔵
・「武蔵野隅田川図乱箱」(1743年) 大和文華館蔵
☆尾形乾山関係略年表(日付は旧暦です)
・1663年(寛文3年) 京都の呉服商だった雁金屋の三男として生まれる
・1687年(貞享4年) 父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受ける
・1689年(元禄2年) 27歳の時、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励む
・1699年(元禄12年) 37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く
・1710年(宝永7年) 「銹絵松鶴図六角皿」を作陶、兄の尾形光琳が絵付けをする
・1712年(正徳2年) 50歳の時、京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住する
・1716年(享保元年6月2日) 兄・尾形光琳が亡くなる
・1731年(享保16年) 69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住む
・1737年(元文2年9月~初冬) 下野国佐野で陶芸の指導を行う
・1737年(元文2年) 江戸で『陶工必用』、佐野で『陶磁製方』という二つの陶法伝書を著す
・1743年(寛保3年) 「武蔵野隅田川図乱箱」を描く
・1743年(寛保3年6月2日) 江戸において、数え年81歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1582年(天正10) | 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する | 詳細 |
1716年(享保元) | 画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日) | |
1859年(安政6) | 前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日) | 詳細 |