ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:経済学者

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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、経済学者篠原三代平が生まれた日です。
 篠原 三代平(しのはら みよへい)は、大正時代の1919年(大正8)10月26日に、富山県高岡市末広町において、雑貨商の家の長男として生まれました。高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を経て、1940年(昭和15)に高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学、一般均衡論を唱えた中山伊知郎に師事します。
 1941年(昭和16)に学徒出陣し、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍し、翌年に東京商科大学(現在の一橋大学)は繰り上げ卒業措置が取られ、東京商科大学特別研究生の身分となりました。1945年(昭和20)に大蔵省財政経済実勢研究室研究員となり、1950年(昭和25)には、一橋大学経済研究所の助教授に就任します。
 早くから経済の実証的分析と景気循環論が評価され、日本経済の成長と景気循環の研究ですぐれた業績をあげ、1961年(昭和36)には、『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞しました。1962年(昭和37)に一橋大学経済研究所教授となり、日本経済学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長などの要職を歴任します。
 1970年(昭和45)に経済企画庁経済研究所所長となり、1973年(昭和48)に 成蹊大学教授、1980年(昭和55)には、(財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となりました。1984年(昭和59)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)に東京国際大学教授、景気循環学会会長となり、1988年(昭和63)には、『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞しています。
 1989年(平成元)に『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となりました。1998年(平成10)に文化功労者となり、2006年(平成18)に文化勲章を受章、2007年(平成19)には、武蔵野市名誉市民となっています。しかし、2012年(平成24)12月7日に、東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇篠原三代平の主要な著作

・『所得分配と賃金構造』(1955年)
・『日本経済の成長と循環』(1961年)
・『産業構造論』(1966年)
・『経済学入門』(1994年)

☆篠原三代平関係略年表

・1919年(大正8)10月26日 富山県高岡市末広町において、雑貨商の家に長男として生まれる
・1932年(昭和7) 定塚小学校を卒業する
・1937年(昭和12) 高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を卒業し、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)へ入学する
・1940年(昭和15) 高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学する
・1941年(昭和16) 学徒出陣、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍する
・1942年(昭和17) 東京商科大学(現在の一橋大学)を繰り上げ卒業し、東京商科大学特別研究生となる
・1945年(昭和20) 大蔵省財政経済実勢研究室研究員となる
・1950年(昭和25) 一橋大学経済研究所助教授となる
・1961年(昭和36) 『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞する
・1962年(昭和37) 一橋大学経済研究所教授となる
・1970年(昭和45) 経済企画庁経済研究所所長となる
・1973年(昭和48)  成蹊大学教授となる
・1980年(昭和55) (財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となる
・1984年(昭和59)  紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60) 東京国際大学教授、景気循環学会会長となる
・1988年(昭和63) 『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞する
・1989年(平成元)  『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4)  物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となる
・1998年(平成10) 文化功労者となる
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2007年(平成19) 武蔵野市名誉市民となる
・2012年(平成24)12月7日 東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、小説家・経済学者南條範夫の生まれた日です。
 南條範夫(なんじょう のりお)は、東京府東京市京橋区南紺屋町(現在の東京都中央区銀座)において、代々の医師の家に生まれましたが、本名は古賀英正(こが ひでまさ)と言いました。中国山東省の青島(チンタオ)中学、旧制山口高校を経て1930年(昭和5)東京帝国大学法学部を卒業しましたが、再度経済を学び、1933年(昭和8)に同大学経済学部を卒業し、助手となります。
 1936年(昭和11)に満鉄調査部東京支社に入り、1937年(昭和12)に宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加、1940年(昭和15)には、東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師となりました。1941年(昭和16)に日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長となり、1943年(昭和18)に上海で法幣の価値維持工作に従事、1944年(昭和19)には、三井本社研究室次長となります。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に日本経済再建委員会常務理事、1949年(昭和24)には、國學院大學政経学部教授となりました。1951年(昭和26)に都市不燃化同盟常務理事となりましたが、一方で小説を書くようになり、『出べそ物語』で、週刊朝日懸賞小説に入選します。
 1952年(昭和27)に立正大学教授となり、『マルフーシャ』が、「サンデー毎日」の懸賞小説に入選、1953年(昭和28)には、歴史小説『子守の殿』で、第1回オール讀物新人杯を受賞しました。1956年(昭和31)に首都圏整備委員会専門委員となり、『燈台鬼』で第35回直木三十五賞を受賞して一躍人気作家となり、1959年(昭和34)には、武家社会の非情さをえがいた短編集『残酷物語』で残酷ものブームを起こします。
 大学では、金融論を講義し、1960年(昭和36)には、『日本金融資本論』を刊行しました。1975年(昭和50)に紫綬褒章を受章しましたが、1979年(昭和54)には、國學院大學を定年退官となり、小説執筆に専念することとなります。
 1982年(昭和57)に『細香日記』で第16回吉川英治文学賞を受賞、また、勲三等瑞宝章も受章し、高齢となっても執筆を続けてきたものの、2004年(平成16)10月30日に、東京において、肺炎のために、95歳で亡くなりました。

〇南條範夫の主要な著作

・『燈台鬼(とうだいき)』(1956年)第35回直木三十五賞受賞
・短編集『残酷物語』(1959年)
・『日本金融資本論』(1961年) 
・『抛銀 (なげがね) 商人』(1962年) 
・『細香日記』(1982年)第16回吉川英治文学賞受賞

☆南條範夫関係略年表

・1908年(明治41)11月14日 東京府東京市京橋区南紺屋町(現在の東京都中央区銀座)において、代々の医師の家に生まれる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学経済学部を卒業、助手となる
・1936年(昭和11) 満鉄調査部東京支社に入る
・1937年(昭和12) 宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加する
・1940年(昭和15) 東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師となる
・1941年(昭和16) 日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長となる
・1943年(昭和18) 上海で法幣の価値維持工作に従事する
・1944年(昭和19) 三井本社研究室次長となる
・1946年(昭和21) 日本経済再建委員会常務理事
・1949年(昭和24) 國學院大學政経学部教授となる
・1951年(昭和26) 都市不燃化同盟常務理事となり、『出べそ物語』で、週刊朝日懸賞小説に入選する
・1952年(昭和27) 立正大学教授となり、『マルフーシャ』が、「サンデー毎日」の懸賞小説に入選する
・1953年(昭和28) 歴史小説『子守の殿』で、第1回オール讀物新人杯を受賞する
・1956年(昭和31) 首都圏整備委員会専門委員となり、『燈台鬼』で第35回直木三十五賞を受賞する
・1959年(昭和34) 武家社会の非情さをえがいた短編集『残酷物語』で残酷ものブームをおこす
・1975年(昭和50) 紫綬褒章を受章する
・1979年(昭和54) 國學院大學を定年退官となり、小説執筆に専念する
・1982年(昭和57) 『細香日記』で第16回吉川英治文学賞を受賞、勲三等瑞宝章を受章する
・2004年(平成16)10月30日 東京において、肺炎のために、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1918年(大正7)武者小路実篤が宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に「新しき村」を建設する詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細
1986年(昭和61)小説家・劇作家円地文子の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1888年(明治21)に、経済学者・財政学者で、法政大学総長だった大内兵衛が生まれた日です。
 大内兵衛(おおうち ひょうえ)は、兵庫県三原郡松帆村(淡路島)に生まれましたが、旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42)に第五高等学校を卒業しました。その後、東京帝国大学法科大学経済科に進み、1913年(大正2)に同校を卒業後、大蔵省に書記官として入省します。
 1918年(大正7)に東京帝国大学農科大学講師(嘱託)となり、翌年には、東京帝国大学経済学部新設に伴い、財政学担当助教授となり財政学を担当しました。しかし、1920年(大正9)に「森戸事件」に連座し、東京帝国大学を退官し、大原社会問題研究所に入所、翌年からドイツに私費留学します。
 1922年(大正11)の留学中に、特赦により東京帝国大学に復職が決まり、翌年に留学先から帰国、東京帝国大学教授に就任して財政学第二講座を担当しました。1930年(昭和5)に科学的社会主義の立場からの財政学を初めて体系化した『財政学大綱』を出版、1938年(昭和13)に人民戦線事件のいわゆる「教授グループ」事件において、「治安維持法」違反容疑で検挙・起訴され、東京帝国大学を休職となったものの、1944年(昭和19)に第二審において、無罪となります。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に東京帝国大学に復帰、財政学第一講座を担当、1946年(昭和21)に内閣統計委員会委員長となり、1947年(昭和22)には、学位論文「財政学大綱」により経済学博士となりました。1948年(昭和23)に日本学士院会員となり、1949年(昭和24)には、東京大学を定年退官、社会保障制度審議会会長に就任します。
 1950年(昭和25)に財団法人全国統計協会連合会会長に就任、社会主義協会の設立に参加、東京大学名誉教授の称号を受け、法政大学総長(~1959年)となりました。1952年(昭和27)に統計委員会廃止に伴い、委員長を辞任、統計審議会設置に伴い会長、1953年(昭和28)に日本統計学会会長に就任、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会の代表世話人となります。
 1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章を受章、1967年(昭和42)には、美濃部東京都知事のブレーンを務めましたが、1980年(昭和55)5月1日に、神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなりました。

〇大内兵衛の主要な著作

・『財政学大綱』(1930年)
・『日本財政論 公債篇(へん)』(1932年)
・『明治財政経済史文献解題』(1933年)
・『日本インフレーションの研究』共著(1946年)
・翻訳『諸国民の富』A・スミス著全5冊 (1940~44年)
・翻訳『空想より科学へ』エンゲルス著(1948年)

☆大内兵衛関係略年表

・1888年(明治21)8月29日 兵庫県三原郡松帆村(淡路島)に生まれる
・1909年(明治42) 第五高等学校を卒業する
・1913年(大正2) 東京帝国大学法科大学経済科を卒業後、大蔵省に書記官として入省する
・1918年(大正7) 東京帝国大学農科大学講師(嘱託)となる
・1919年(大正8) 東京帝国大学経済学部新設に伴い財政学担当助教授となり財政学を担当する
・1920年(大正9) 「森戸事件」に連座し、東京帝国大学を退官し、大原社会問題研究所に入所する
・1921年(大正10) ドイツに私費留学する
・1922年(大正11) 留学中、特赦により東京帝国大学に復職する
・1923年(大正12) 留学先から帰国、東京帝国大学教授に就任して財政学第二講座を担当する
・1930年(昭和5) 『財政学大綱』を出版する
・1938年(昭和13) 人民戦線事件のいわゆる「教授グループ」事件で検挙・起訴され、東京帝国大学を休職となる
・1944年(昭和19) 第二審において、治安維持法違反容疑について無罪となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学に復帰、財政学第一講座を担当する
・1946年(昭和21) 内閣統計委員会委員長となる
・1947年(昭和22) 学位論文「財政学大綱」により経済学博士となる
・1948年(昭和23) 日本学士院会員となる
・1949年(昭和24) 東京大学を定年退官、社会保障制度審議会会長に就任する
・1950年(昭和25) 財団法人全国統計協会連合会会長に就任、社会主義協会の設立に参加、東京大学名誉教授の称号を受け、法政大学総長となる
・1952年(昭和27) 統計委員会廃止に伴い、委員長を辞任、統計審議会設置に伴い、会長に就任する
・1953年(昭和28) 日本統計学会会長に就任する
・1955年(昭和30) 日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わる
・1957年(昭和32) 計審議会会長を退任、これに伴い大内賞委員会委員長を退任する
・1958年(昭和33) 憲法問題研究会の代表世話人となる
・1959年(昭和34) 法政大学総長を辞め、経済理論学会代表幹事に就任する
・1965年(昭和40) 勲一等瑞宝章を受章する
・1967年(昭和42) 美濃部東京都知事のブレーンを務める
・1970年(昭和45) 財団法人全国統計協会連合会会長を辞任する
・1980年(昭和55)5月1日 神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1863年(文久3)江戸幕府が洋書調所を開成所と改称する(新暦10月11日)詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細
1959年(昭和34)三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まる詳細
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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、経済学者森嶋通夫の生まれた日です。
 森嶋通夫(もりしま みちお)は、大阪府大阪市において、生まれましたが、幼少期は神戸に在住しました。七年制の旧制浪速高等学校を卒業後、1942年(昭和17)に京都帝国大学経済学部に入学しましたものの、翌年には、学徒出陣により徴兵され、大日本帝国海軍に入隊、敗戦を海軍中尉とし迎えます。
 1946年(昭和21)に京都大学を卒業し、1948年(昭和23)に同大学経済学部助手となり、1950年(昭和25)には助教授に昇任し、『動学的経済理論』を発表して注目されました。1951年(昭和26)に人事に抗議し京都大学を退職、大阪大学法経学部助教授となり、1956年(昭和31)からイギリスに留学し、1958年(昭和33)に帰国します。
 1954年(昭和29)に大阪大学経済学部附属社会経済研究施設(現在の大阪大学社会経済研究所)の創設とともに、助教授として併任し、1963年(昭和38)には教授に昇進しました。1965年(昭和40)に日本人として初めてエコノメトリック・ソサエティー(国際計量 経済学会)会長に就任、1968年(昭和43)に渡英し、エセックス大学客員教授となり、1970年(昭和45)には、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授となります。
 1973年(昭和48)に『近代社会の経済理論』、邦訳『マルクスの経済学』を発表、マルクス理論の多くを評価しつつも独自の解釈を示して国内外で注目を浴びました。1976年(昭和51)に、日本の経済学を国際的水準にまで引き上げたとして、文化功労者となり、文化勲章を受章、1977年(昭和52)には、邦訳『ワルラスの経済学』を発表、ワルラスの理論を分析・解釈します。
 1978年(昭和53)にSuntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines(STICERD という研究所の設立に貢献し、初代所長となり、1979年(昭和54)には、関嘉彦との共著『大論争・戦争と平和』で、第41回文藝春秋読者賞を受賞しました。1982年(昭和57)にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスジョン・ヒックス卿教授となりましたが、1989年(平成元)には定年により退任しています。
 1992年(平成4)に大阪大学名誉教授となったものの、2004年(平成16)7月13日に、イギリスのエセックス州の病院において、老衰のために、80歳で亡くなりました。

〇森嶋通夫の主要な著作

・『動学的経済理論』(1950年) 
・邦訳『均衡・安定性・成長』(1964年) 
・『近代社会の経済理論』(1973年) 
・邦訳『マルクスの経済学』(1973年)
・『イギリスと日本──その教育と経済』(1977年) 
・邦訳『ワルラスの経済学』(1977年)
・『無資源国の経済学』(1984年)  
・『政治家の条件──イギリス・EC・日本』(1991年) 
・『イギリスと日本』 
・『続イギリスと日本』 
・『政治家の条件』 
・『思想としての近代経済学』

☆森嶋通夫関係略年表

・1923年(大正12)7月18日 大阪府大阪市において、生まれる
・1936年(昭和11) 神戸市の本山第一小学校を卒業する
・1942年(昭和17) 京都帝国大学経済学部に入学する
・1943年(昭和18) 学徒出陣により徴兵され、大日本帝国海軍に入隊する
・1945年(昭和20) 海軍中尉として敗戦を迎える
・1946年(昭和21) 京都大学を卒業する
・1948年(昭和23) 京都大学経済学部助手となる
・1950年(昭和25) 京都大学経済学部助教授に昇任し、『動学的経済理論』を発表する
・1951年(昭和26) 人事に抗議し京都大学を退職、大阪大学法経学部助教授となる
・1956年(昭和31) イギリスに留学する
・1958年(昭和33) イギリス留学から帰国する
・1954年(昭和29) 大阪大学経済学部附属社会経済研究施設(現在の大阪大学社会経済研究所)の創設とともに、助教授として併任する
・1963年(昭和38) 大阪大学経済学部附属社会経済研究施設(現在の大阪大学社会経済研究所)教授となる
・1965年(昭和40) 日本人として初めてエコノメトリック・ソサエティー(国際計量 経済学会)会長に就任する
・1966年(昭和41) 大阪大学社会経済研究所教授となる
・1968年(昭和43) 渡英しエセックス大学客員教授となる
・1970年(昭和45) ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授となる
・1973年(昭和48) 『近代社会の経済理論』を発表する
・1976年(昭和51) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1978年(昭和53) Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines(STICERD という研究所の設立に貢献し、初代所長となる
・1979年(昭和54) 関嘉彦との共著『大論争・戦争と平和』で、第41回文藝春秋読者賞を受賞する
・1982年(昭和57) ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスジョン・ヒックス卿教授となる
・1989年(平成元) 定年によりロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授を辞める
・1992年(平成4) 大阪大学名誉教授となる
・2004年(平成16)7月13日 イギリスのエセックス州において、80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1866年(慶応2)東洋史学者・評論家内藤湖南の誕生日(新暦8月27日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
1996年(平成8)薬学者・薬理学者石館守三の命日詳細

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 今日は、昭和時代後期の1982年(昭和57)に、経済学者・浮世絵研究家・元文部大臣高橋誠一郎が亡くなった日です。
 高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)は、明治時代前期の1884年(明治17)5月9日に、神奈川県横浜市において、新潟県の廻船問屋津軽屋の長男(一人息子)として生まれましたが、少年時代を横浜市で送りました。1898年(明治31)に、慶應義塾普通学科へ入学、三田の寄宿舎に入り福澤諭吉に親しく接するようになり、1908年(明治41)には、慶應義塾大学部政治科を卒業し、普通部の教員となります。
 1909年(明治42)に大学部予科教員となり、1911年(明治44)には、経済理論・経済学史研究のためヨーロッパ・ロンドン大学へ留学しましたが、病を得て翌年秋に帰国しました。1914年(大正3)に大学部理財科教授となり、経済原論、経済学史を担当、1920年(大正9)に「大学令」による慶應義塾大学発足に伴い経済学部教授となります。
 イギリス重商主義学説を中心として研究を広め、経済学部長となったものの、1944年(昭和19)に教授を辞め、名誉教授となりました。太平洋戦争後、1946年(昭和21)に慶應義塾長代理を務め、1947年(昭和22)には、帝国学士院会員となり、第一次吉田内閣改造内閣で文部大臣を務め、「教育基本法」と「学校教育法」の制定など、戦後教育の骨格づくりに尽力します。
 1948年(昭和23)に日本芸術院長(~1979年)、1949年(昭和24)に交詢社理事長(~1982年)、1950年(昭和25)に文化財保護委員会委員長(~1956年)、1951年(昭和26)に国際演劇協会日本センター会長(~1970年)と、要職を歴任しました。さらに、1955年(昭和30)に日本舞踊協会会長(~1981年)、1957年(昭和32)に映倫管理委員会委員長(~1978年)、1962年(昭和37)に日本浮世絵協会会長(~1982年)と文化関係で活躍、文化功労者となります。
 1964年(昭和39)に勲一等瑞宝章受章、1966年(昭和41)に国立劇場会長(~1977年)となり、1968年(昭和43)には、慶應義塾大学より名誉博士の称号も得ました。1973年(昭和48)に勲一等旭日大綬章、1979年(昭和54)に文化勲章を受章しましたが、1982年(昭和57)2月9日に、東京都新宿区の慶應義塾大学病院において、97歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈されています。
 尚、浮世絵の収集および研究でも著名で、『浮世絵講話』(1948年)、『浮世絵と経済学』(1960年)、『浮世絵二百五十年』(1961年)、『浮世絵随想』(1966年)などの著書もありました。

〇高橋誠一郎の主要な著作

・『経済学前史』(1929年)
・『重商主義経済学説研究』(1932年)
・『経済学原論』(1936年)
・『古版西洋経済書解題』(1943年)
・『経済学史略』(1948年)
・『浮世絵講話』(1948年)
・『浮世絵と経済学』(1960年)
・『浮世絵二百五十年』(1961年)
・『浮世絵随想』(1966年)
・『高橋誠一郎コレクション 浮世絵』全7巻(1975~77年)

☆高橋誠一郎関係略年表

・1884年(明治17)5月9日 神奈川県横浜市において、新潟県の廻船問屋津軽屋の長男(一人息子)として生まれる
・1888年(明治21) 横浜へ転居する
・1898年(明治31) 慶應義塾普通学科へ入学、三田の寄宿舎に入り福澤諭吉に親しく接する
・1908年(明治41) 慶應義塾大学部政治科を卒業し、普通部の教員となる
・1909年(明治42) 大学部予科教員となる
・1911年(明治44) 経済理論・経済学史研究のためヨーロッパ・ロンドン大学へ留学する
・1912年(明治45)秋 病気になって、留学先から帰国する
・1914年(大正3) 大学部理財科教授(~1920年)となり、経済原論、経済学史を担当する
・1920年(大正9) 「大学令」による慶應義塾大学発足に伴い経済学部教授(~1944年)となる
・1944年(昭和19) 慶應義塾大学経済学部教授を辞め、名誉教授となる
・1946年(昭和21) 慶應義塾長代理を務める(~1947年)
・1947年(昭和22) 帝国学士院会員、第一次吉田内閣改造内閣で文部大臣となる
・1948年(昭和23) 日本芸術院長(~1979年)となる
・1949年(昭和24) 交詢社理事長(~1982年)となる
・1950年(昭和25) 文化財保護委員会委員長(~1956年)となる
・1951年(昭和26) 国際演劇協会日本センター会長(~1970年)となる
・1955年(昭和30) 日本舞踊協会会長(~1981年)となる
・1957年(昭和32) 映倫管理委員会委員長(~1978年)となる
・1962年(昭和37) 日本浮世絵協会会長(~1982年)、文化功労者となる
・1964年(昭和39) 勲一等瑞宝章を受章する
・1966年(昭和41) 国立劇場会長(~1977年)となる
・1968年(昭和43) 慶應義塾大学より名誉博士の称号を得る
・1973年(昭和48) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1979年(昭和54) 文化勲章を受章する
・1982年(昭和57)2月9日 東京都新宿区の慶應義塾大学病院において、97歳で亡くなり、従二位、賜銀杯一組を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)政治家・佐賀藩士江藤新平の誕生日(新暦3月18日)詳細
1856年(安政3)外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日)詳細
1921年(大正10)小説家庄野潤三の誕生日詳細
1948年(昭和23)国立国会図書館の組織及び任務、所掌事務などを定めた、「国立国会図書館法」が公布される詳細
1989年(平成元)漫画家・アニメ監督・医師手塚治虫の命日詳細
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