ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:経国集

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 今日は、奈良時代の781年(天応元)に、公卿・文人石上宅嗣の亡くなった日ですが、新暦では7月19日となります。
 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)は、729年(天平元)に、中納言石上乙麻呂の子として生まれましたが、才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられてきました。751年(天平勝宝3)に従五位下に昇叙し、治部少輔となり、757年(天平勝宝9)には、従五位上に昇叙し、相模守となります。
 その後、759年(天平宝字3)に三河守、761年(天平宝字5)に上総守と地方官を歴任後、761年(天平宝字5)に遣唐副使となりましたが、翌年免ぜられ、藤原田麻呂と交替しました。763年(天平宝字7)に文部大輔となったものの、同年の藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画し失敗、翌年に大宰少弐に左遷されています。
 しかし、同年の藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると復権し、正五位上(越階)に昇叙、常陸守となりました。それからの道鏡政権下では順調に昇進し、765年(天平神護元)に従四位下に昇叙し、中衛中将となり、翌年に参議となって公卿に列し、同年正四位下、768年(神護景雲2)には従三位に昇叙します。
 770年(神護景雲4)に称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立するに功があり、同年、兼大宰帥、翌年には兼式部卿となりました。771年(宝亀2)に中納言となり、775年(宝亀6)に石上朝臣から物部朝臣に改姓、777年(宝亀8)には兼中務卿となります。
 779年(宝亀10)に宣勅使として唐使をもてなし、779年(宝亀10)に石上大朝臣の姓を賜わり、780年(宝亀11日)には、大納言にまで進みました。一方、詩文と書にすぐれ、淡海三船と並び称された文人で、漢詩が『経国集』に収められ、和歌は『万葉集』に採られています。
 また、晩年は私邸に阿閦寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設けて公開し、日本における公開図書館の発祥とされてきました。781年(天応元)には、正三位に昇叙したものの、同年6月24日に、奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られています。
 以下に、『続日本紀』巻第三十六の天応元年(781年)6月24日の条の石上宅嗣と芸亭院の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十六の天応元年6月24日の条の石上宅嗣の死去と芸亭院の記述

<原文>
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣従一位麻呂之孫。中納言従三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚経史。多所渉覧。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辞容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自宝字後。宅嗣及淡海真人三船為文人之首。所著詩賦数十首。世多伝誦之。捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。

<読み下し文>

大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り[1]。経史[2]を愛尚して渉覧[3]する所多し。好みて文を属り、草隷[4]を工にす。勝寳三年從五位下を授けられ、治部少輔に任す。稍く文部大輔に遷て、内外に歴居す[5]。景雲二年參議[6]從三位に至る。寳龜の初め、出て大宰の帥[7]と爲る。居ること幾も無くして式部卿[8]に遷る。中納言[9]を拜す。姓を物部朝臣と賜ふ。其の情願[10]を以てなり也。尋て皇太子の傅を兼ぬ。改めて姓を石上大朝臣と賜ふ。十一年、大納言[11]に轉し、俄に正三位を加へらる。宅嗣、辞容[12]閑雅[13]にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船[14]を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦[15]す。其の旧宅を捨して以て阿閦寺[16]となし、寺内の一偶に特に外典[17]の院を置く。名けて芸亭[18]と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式[19]を記して後に貽す。其の略に日く。「内外の両門[20]は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典[21]を足すけんがために外書[22]を加え置く。地は是れ伽藍[23]、事須く禁戒[24]すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有[25]に滞ること無くして兼ねて物我[26]を忘れ、異代[27]に来たらん者は、塵労[28]を超出して覚地[29]に帰せんことを」と。其の院今見に存せり。臨終に遺教[30]して薄葬[31]せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む[32]。

【注釈】

[1]姿儀有り:けいし=姿が整っている。風采が立派。
[2]経史:けいし=経書と史書。
[3]渉覧:しょうらん=いろいろと回って広く見る。多方面に通じる。
[4]草隷:そうれい=草書と隷書。転じて、書道。
[5]歴居す:そうれい=歴任する。
[6]參議:さんぎ=四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの。
[7]大宰の帥:だざいのそち=大宰府の長官。
[8]式部卿:しきぶきょう=式部省の長官。内外文官の名帳、考課、選叙、礼儀、版位、位記などをつかさどる。
[9]中納言:ちゅうなごん=令外の官。大納言に次ぎ、大臣と政事を議し、献替の任にあたる重職で、相当位は従三位。
[10]情願:じょうがん=実状を述べて願い出ること。心から願うこと。嘆願。懇願。
[11]大納言:だいなごん=太政官の次官にあたる要職で、天皇に近侍して庶政に参画し、大臣が参内しないときは代わって政務を行った。
[12]辞容:じよう=言葉や立ち居ふるまい。
[13]閑雅:かんが=しとやかで優雅なこと。また、そのさま。
[14]淡海真人三船:おうみのまひとみふね=奈良時代の文人(学者)で、大友皇子の曽孫、文章博士・大学頭などを歴任した。
[15]伝誦:でんしょう=代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること。
[16]阿閦寺:あしゅくじ=781年(天応元)に石上宅嗣が平城京付近にあった私邸を寺にしたもの。
[17]外典:げてん=仏教以外の教えを説く書籍。特に儒教の経典。
[18]芸亭:うんてい=日本最初の公開図書館で、石上宅嗣が私邸を阿閦寺とし、その一隅に図書を集め、好学の士に閲読させたもの。
[19]条式:じょうしき=規則。
[20]内外の両門:ないがいのりょうもん=仏教と儒教。
[21]内典:ないてん=仏教の典籍。
[22]外書:がいしょ=仏教以外の書籍。外典。
[23]伽藍:がらん=僧が集まり住んで、仏道を修行する、清浄閑静な場所。
[24]禁戒:きんかい=禁じ戒めること。また、おきて。法度。
[25]空有:くうう=実体のないことと、あること。
[26]物我:ぶつが=物と我。外物と自己。他者と自己。
[27]異代:いだい=異なった時代。別の世代。
[28]塵労:じんろう=俗世間での苦労。煩悩。
[29]覚地:かくち=迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。
[30]遺教:いきょう=死ぬときに残したことばや教訓。
[31]薄葬:はくそう=簡略にした葬儀。
[32]悼む:いたむ=人の死を悲しみ嘆く。

<現代語訳>

大納言正三位兼式部卿の石上大朝臣宅嗣が亡くなった。(光仁天皇)詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣・従一位麻呂の孫で、中納言従三位・弟麻呂の子である。賢明で悟りが早く、姿が整っている。経書と史書を愛読して、多方面に通じる所も多かった。好んで文章を作り、書道が巧みであった。天平勝宝3年(751年)に從五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。しばらくして文部大輔に遷り、内外の官職を歴任した。神護景雲2年(768年)に参議・従三位に至る。宝亀の初め、出向して大宰の帥となる。在任わずかにして式部卿に遷って、中納言を拝命した。その懇願によって、物部朝臣の姓を賜わった。次に皇太子の傅を兼任し、改めて石上大朝臣の姓を賜わった。宝亀11年(780年)に大納言に昇進し、ほどなくして正三位を加へられる。宅嗣、言葉や立ち居ふるまいがしとやかで優雅で、当時は有名であった。風景山水に出会う度に、筆を執って詩文などの主題と成した。天平宝字の頃より後、宅嗣および淡海真人三船を文人の首座となした。著作するところの漢詩や賦は数十首あり、世間の多くで口から口へと唱え伝えられている。その旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一偶に特別に仏教以外の教えを説く書籍のための院を設置し、芸亭と命名した。もし学問を志す者が有って、閲覧を欲したならば、自由にこれを許可し、そのために規則を決めて後世に残す。その概略として言っていることは、「仏教と儒教は根本は一つである。斬新的と極端の違いはあるといっても、よく導けば異なるものではない。自分の家を喜捨して寺とし、仏門に帰依してからも久しいが、仏教の典籍の理解を助けるために、仏教以外の書籍を加えて置いておく。この地は仏道を修行する、清浄閑静な場所であって、何事においても禁じ戒めるべきである。どうか、同じ志を持って入居した者は、実体のないこととあることを論じて滞ることなく、あわせて他者と自己を忘れ、別の世代として来た者は、俗世間での苦労を超越して真理をつかまんことを」と。その院は現在も存在している。臨終にあたって簡略にした葬儀にするようにと教え残した。亡くなったのは53歳であった。当時の人はこれを悲しみ嘆いた。

☆石上宅嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・729年(天平元年) 中納言石上乙麻呂の子として生まれる
・751年(天平勝宝3年1月25日) 従五位下に昇叙する
・751年(天平勝宝3年日付不詳) 治部少輔となる
・757年(天平勝宝9年5月20日) 従五位上に昇叙する
・757年(天平勝宝9年6月16日) 相模守となる
・757年(天平勝宝9年日付不詳) 紫微少弼となる
・759年(天平宝字3年5月17日) 三河守となる
・761年(天平宝字5年1月16日) 上総守となる
・761年(天平宝字5年10月22日) 遣唐副使となる
・762年(天平宝字6年3月1日) 遣唐副使罷ぜられ、藤原田麻呂と交替する
・763年(天平宝字7年1月9日) 文部大輔となる
・763年(天平宝字7年) 藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画する
・764年(天平宝字8年1月21日) 大宰少弐に左遷される
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚する
・764年(天平宝字8年10月3日) 正五位上(越階)に昇叙、常陸守となる
・765年(天平神護元年1月7日) 従四位下に昇叙する
・765年(天平神護元年2月8日) 中衛中将となる
・766年(天平神護2年1月8日) 参議となる
・766年(天平神護2年10月25日) 正四位下に昇叙する
・768年(神護景雲2年正月10日) 従三位に昇叙する
・768年(神護景雲2年10月24日) 綿4000屯を賜わる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立する
・770年(神護景雲4年9月16日) 兼大宰帥となる
・771年(宝亀2年3月13日) 兼式部卿となる
・771年(宝亀2年11月23日) 中納言となる
・775年(宝亀6年12月25日) 石上朝臣から物部朝臣に改姓する
・777年(宝亀8年10月13日) 兼中務卿となる
・779年(宝亀10年) 宣勅使として唐使をもてなす
・779年(宝亀10年11月18日) 物部朝臣から石上大朝臣の姓を賜わる
・780年(宝亀11年2月1日) 大納言となる
・781年(天応元年) 平城京付近にあった私邸を阿閦寺とする
・781年(天応元年4月15日) 正三位に昇叙する
・781年(天応元年6月24日) 奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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 今日は、平安時代前期の840年(承和7)に、第53代とされる天皇である淳和天皇が亡くなった日ですが、新暦では6月11日となります。
 淳和天皇(じゅんなてんのう)は、奈良時代の786年(延暦5年)に桓武天皇の第七皇子(母は藤原百川の娘・旅子)として生まれましたが、名は大伴と言いました。788年(延暦7年5月4日)に2歳にして生母を失ない、文室与伎の妻・平田孫王が母代わりとなり、798年(延暦17)に元服し、三品兵部卿となっています。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなり、異母兄の安殿親王(平城天皇)が即位、そのもとで、806年(大同元)に治部卿、808年(大同3)に中務卿となりました。809年(大同4)に平城天皇の譲位を受け、異母兄の神野親王(嵯峨天皇)が即位、翌年の薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子します。
 823年(弘仁14)に嵯峨天皇の譲位を受け、第53代とされる天皇として即位しました。謙譲・温厚な性格で、兄の上皇との間は円満に終始し、律令制度再建に努め、824年(天長元)に左右検非違使庁を再置、826年(天長3)に上総国、常陸国、上野国の3ヶ国を親王の任国に定め、また巡察使の派遣などによって地方官の監督を強化するなどの治績を上げます。
 一方、詩文集や法典整備の編纂など文化政策にも努め、勅撰漢詩集『経国集』(827年)、律令を補完する法令集『新撰格式』(830年)、百科事典『秘府略』全20巻(831年)、法典整備のため『令義解(りょうのぎげ)』全10巻(833年)を編纂させました。自身も漢詩に長じ、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に多数収載されています。
 833年(天長10)に、正良親王(仁明天皇)に譲位し、太上天皇となり、淳和院(現在の京都市右京区西院淳和院町付近)へ移りました。835年(承和2)の空海の死去に際し高野山に弔書を送ったりしましたが、840年(承和7年5月8日)に京都において、数え年55歳で亡くなり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨されたとされます。

〇淳和天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・786年(延暦5年) 桓武天皇の第七皇子(母は藤原百川の娘・旅子)として生まれる
・788年(延暦7年5月4日) 2歳にして生母を失ない、文室与伎の妻・平田孫王が母代わりとなる
・798年(延暦17年4月) 元服し、三品兵部卿となる
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなり、異母兄の安殿親王(平城天皇)が即位する
・806年(大同元年) 治部卿となる
・808年(大同3年) 中務卿となる
・809年(大同4年4月1日) 平城天皇の譲位を受け、異母兄の神野親王(嵯峨天皇)が即位する 
・810年(弘仁元年9月13日) 薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子する
・823年(弘仁14年4月16日) 嵯峨天皇の譲位を受け、第53代とされる天皇として即位する
・824年(天長元年) 左右検非違使庁を設置する
・825年(天長2年) 第二皇子として恒貞親王が誕生する
・826年(天長3年) 上総国,常陸国,上野国の 3ヵ国を親王の任国に定める
・827年(天長4年) 勅撰漢詩集『経国集』が編纂される
・827年(天長4年) 正子内親王が皇后に冊立される
・830年(天長7年) 律令を補完する法令集『新撰格式』が編纂される
・831年(天長8年) 百科事典『秘府略』全20巻が編纂される 
・833年(天長10年) 法典整備のため『令義解(りょうのぎげ)』全10巻が編纂される
・833年(天長10年2月28日) 仁明天皇に譲位し、太上天皇となり、淳和院へ移る
・835年(承和2年3月21日) 空海の死去に際し高野山に弔書を送る
・840年(承和7年5月8日) 京都において、数え年55歳で亡くなり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
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