ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:紫衣事件

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 今日は、江戸時代前期の1629年(寛永6)に、幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位した日ですが、新暦では12月22日となります。
 紫衣事件(しえじけん)は、江戸幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す事件で、朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効としたものでした。
 江戸幕府は、1613年(慶長18)に、「紫衣着用の際はあらかじめ知らせること」という『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出します。さらに、2年後の1615年(慶長20)には『禁中並公家諸法度』を定めて、その16条で「一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。」としていました。
 しかし、この頃は勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていたこともあり、1626年(寛永3)に後水尾天皇はこれまでの慣例どおり、幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可します。
 江戸幕府は翌年に、事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げるよう命じました。
 大徳寺住職の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩や妙心寺の単伝士印、東源慧等らの高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出して服従せず、江戸幕府は、1629年(寛永6年7月25日)に沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処します。その上、1615年(元和元)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪しました。また、同年11月8日の後水尾天皇の退位に繋がったと言われています。
 その後、1632年(寛永9)に、徳川秀忠(第2代将軍)の死去に際して、大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。1641年(寛永18)には、事件の発端となった大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も復されています。

〇後水尾天皇とは?

 第108代とされる天皇です。安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。
 1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。
 1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
 紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
 その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
 仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。

〇紫衣事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1613年(慶長18)6月16日 江戸幕府が『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出す
・1615年(慶長20)7月17日 江戸幕府は『禁中並公家諸法度』16条によって、紫衣の勅許を規制する
・1626年(寛永3) 後水尾天皇は幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可する
・1627年(寛永4) 江戸幕府は事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言する
・1629年(寛永6)7月25日 沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処する
・1629年(寛永6)11月8日 後水尾天皇が退位する
・1632年(寛永9) 徳川秀忠(第2代将軍)の死去による大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちが許される
・1641年(寛永18) 大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、紫衣も復される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細


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 今日は、江戸時代前期の正保2年に、臨済宗の僧沢庵宗彭がなくなった日(沢庵忌)ですが、新暦では1646年1月27日となります。
 沢庵宗彭(たくあん そうほう)は、安土桃山時代の1573年(天正元年12月1日)に、但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市)において、山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として生まれました。1580年(天正8)、8歳のときに但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となり、1582年(天正10)に出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得ます。
 禅に志すようになり、1586年(天正14年)に出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しました。1592年(文禄元)に董甫が宗鏡寺に来り、1594年(文禄3)には薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入ります。
 大徳寺の諸老に参じましたが、1599年(慶長4)に江州佐和山に移り、翌年の関ヶ原の戦いを経て、石田三成の没後、大徳寺三玄院に帰りました。1601年(慶長6)に堺に移り、詩文を文西に学び、翌年に和歌を細川幽斎に学び、1603年(慶長8)には一凍紹滴に参じ、翌年に一凍が印可し、初めて沢庵と号します。
 1607年(慶長12)に大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持し、1609年(慶長14)には、大徳寺の第154世住持に出世するも名利を求めず、3日で去って堺へ戻りました。1615年(元和元)に南宗寺が大坂夏の陣の兵火にかかりましたが、1619年(元和5)には再興が成ります。
 1620年(元和6)に郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入り、翌年には『理気差別論』を著しました。1626年(寛永3)に「禁中並公家諸法度」の励行が達せられ、大徳寺の出世が禁ぜられるなどの紫衣事件が起こると、翌年にはこれに反発して京に上り、大徳寺の僧侶をまとめ、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行います。
 これが幕府の忌諱に触れ、1629年(寛永6)に江戸へ召喚され、同年7月には有罪とされて出羽国上山に配流されました。しかし、1632年(寛永9年)に大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住むことになります。
 その後、後水尾天皇・第3代将軍徳川家光の厚遇を受け、家光の命により、1639年(寛永16年)に江戸品川に東海寺が完成し、開山となりました。1641年(寛永18)には、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されます。
 詩歌・俳諧・書画・茶道にも通じたものの、病を得て、1646年1月27日(正保2年12月11日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなりました。

〇沢庵宗彭の主要な著作

・『理気差別論』(1621年)
・『東国紀行』(1629年)
・『鎌倉遊覧記』(1633年)
・『木曽路紀行』(1634年)
・『東海道の記』(1636年)
・『祠堂記』(1643年)
・『不動智神妙録』
・『沢庵和尚法語』

☆沢庵宗彭関係略年表(日付は旧暦です)

・1573年(天正元年12月1日) 山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。
・1579年(天正7年) 父綱典が沢庵の出家を約束する。
・1580年(天正8年) 8歳のとき但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となる。
・1582年(天正10年) 出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得る。
・1585年(天正13年) 禅に志す。
・1586年(天正14年) 出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名する。
・1591年(天正19年) 勝福寺の希先が示寂する。 
・1592年(文禄元年) 董甫が宗鏡寺に来る。
・1594年(文禄3年) 薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入る。 
・1596年(慶長元年) 大徳寺の諸老に参じる。 
・1599年(慶長4年) 江州佐和山に移る。
・1600年(慶長5年) 大徳寺三玄院に帰る。
・1601年(慶長6年) 堺に移り、詩文を文西に学ぶ。 
・1602年(慶長7年) 和歌を細川幽斎に学ぶ。 
・1603年(慶長8年) 一凍紹滴に参じる。
・1604年(慶長9年8月4日) 一凍紹滴が印可し、初めて沢庵と号する。
・1606年(慶長11年) 一凍紹滴が示寂し、父秋庭能登守も亡くなる。 
・1607年(慶長12年) 母(枚田氏)が亡くなる。大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持する。 
・1608年(慶長13年) 一絲が生まれる。
・1609年(慶長14年) 大徳寺の第154世住持に出世するも、3日で大徳寺を去り、堺へ戻る。 
・1611年(慶長16年) 円鑑国師が示寂し、大仙院に住する。
・1612年(慶長17年) 南宗寺にいて詠歌音義を作る。
・1613年(慶長18年) 『大灯国師年譜』を編する。
・1614年(慶長19年) 八瀬の橋をかける。 
・1615年(元和元年) 南宗寺が兵火にかかる。大徳寺法度が配布される。
・1616年(元和2年) 宗鏡寺が再興される。
・1617年(元和3年) 南宗寺の再興に着手する。
・1619年(元和5年) 南宗寺の再興が成る。
・1620年(元和6年) 郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入る。
・1621年(元和7年) 『理気差別論』を著する。子の一絲が相国寺に入る。
・1622年(元和8年) 烏丸光広が出石に来る。 
・1624年(寛永元年) 高松宮が出石に来られる。 
・1626年(寛永3年) 「禁中並公家諸法度」の励行を達し、大徳寺の出世を禁ずる。 子の一絲が沢庵に参ずる。
・1627年(寛永4年) 正隠を出世させる。紫衣事件に反発して京に上り、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行う。
・1628年(寛永5年) 祥雲寺を開く。紫衣事件に関連して幕府は大徳寺を責め、弁明書を書く。 
・1629年(寛永6年) 幕府により江戸へ召喚される。
・1629年(寛永6年7月) 幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵は出羽国上山に流される。『東国紀行』、『碧巌九十偈』を作る。 
・1630年(寛永7年) 槍術の奥儀書を作る。
・1632年(寛永9年) 大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住む。 
・1633年(寛永10年) 『鎌倉遊覧記』を作る。 家光が柳生を通して質問する。
・1634年(寛永11年) 『木曽路紀行』を書き上洛し、二条城で家光に会い、次いで院参し但馬に帰る。
・1635年(寛永12年) 出石から江戸に帰る。
・1636年(寛永13年) 家光がしきりに召し、上洛し『東海道の記』を作る。但馬に帰る。
・1637年(寛永14年) 江戸に下り途中で病む。日光に社参する。
・1638年(寛永15年) 東海寺が建立されることにる。上洛し上皇に原人論を御進講申し上げ、国師号は辞退する。柳生に芳徳寺を開く。 
・1639年(寛永16年) 東海寺が落成し、新寺に移る。
・1640年(寛永17年) 日光に社参し、熱海に浴する。 
・1641年(寛永18年) 長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡される。
・1642年(寛永19年) 病にかかる。
・1643年(寛永20年) 『祠堂記』、『万年石の記』を作る。子の一絲が永源寺に住する。
・1644年(正保元年) 上京し参院して但馬に帰る。
・1645年(正保元年) 円相に賛を作る。
・1645年(正保元年11月29日) 発病する。
・1646年(正保元年12月11日) 江戸において、「夢」の一字を残し、数え年73歳で亡くなる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細


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 今日は、江戸時代前期の1629年(寛永6)に、江戸幕府の高僧への紫衣の勅許の停止(紫衣事件)に抗議した沢庵らを東北へ流罪にした日ですが、新暦では9月12日となります。
 紫衣事件(しえじけん)は、江戸幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す事件で、朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効としたものでした。
 江戸幕府は、1613年(慶長18)に、「紫衣着用の際はあらかじめ知らせること」という『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出します。さらに、2年後の1615年(慶長20)には『禁中並公家諸法度』を定めて、その16条で「一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。」としていました。
 しかし、この頃は勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていたこともあり、1626年(寛永3)に後水尾天皇はこれまでの慣例どおり、幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可します。
 江戸幕府は翌年に、事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げるよう命じました。
 大徳寺住職の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩や妙心寺の単伝士印、東源慧等らの高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出して服従せず、江戸幕府は、1629年(寛永6年7月25日)に沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処します。その上、1615年(元和元)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪しました。また、同年11月8日の後水尾天皇の退位に繋がったと言われています。
 その後、1632年(寛永9)に、徳川秀忠(第2代将軍)の死去に際して、大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。1641年(寛永18)には、事件の発端となった大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も復されています。

〇紫衣事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1613年(慶長18)6月16日 江戸幕府が『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出す
・1615年(慶長20)7月17日 江戸幕府は『禁中並公家諸法度』16条によって、紫衣の勅許を規制する
・1626年(寛永3) 後水尾天皇は幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可する
・1627年(寛永4) 江戸幕府は事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言する
・1629年(寛永6)7月25日 沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処する
・1629年(寛永6)11月8日 後水尾天皇が退位する
・1632年(寛永9) 徳川秀忠(第2代将軍)の死去による大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちが許される
・1641年(寛永18) 大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、紫衣も復される
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