今日は、平安時代中期の承平4年に、紀貫之が土佐国守の任務を終えて都へ向かい、『土佐日記』を起筆した日ですが、新暦では935年1月28日となります。
『土佐日記】(とさにっき)は、平安時代中期の935年(承平5)頃に成立した旅行日記でした。紀貫之が土佐守の任を終わって、承平4年12月21日に土佐の国府を出立し、翌年2月16日に帰京するまでの55日間のものです。
筆者を女性に仮託し、仮名で書かれた最初の日記文学として知られてきました。内容は、船中の焦燥。海賊の恐怖、土佐の国人や留守を依頼した隣人に対する風刺など多岐にわたりますが、中でも、土佐国で失った女児に対する追憶の情が叙述に強くみられます。
また、和歌に関する記事の比重が高く、歌論をわかりやすく展開しているとされてきました。仮名散文が文学表現に堪えうることを明らかにし、後の平安女流文学の基礎ともなっています。
以下に、『土佐日記】の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
筆者を女性に仮託し、仮名で書かれた最初の日記文学として知られてきました。内容は、船中の焦燥。海賊の恐怖、土佐の国人や留守を依頼した隣人に対する風刺など多岐にわたりますが、中でも、土佐国で失った女児に対する追憶の情が叙述に強くみられます。
また、和歌に関する記事の比重が高く、歌論をわかりやすく展開しているとされてきました。仮名散文が文学表現に堪えうることを明らかにし、後の平安女流文学の基礎ともなっています。
以下に、『土佐日記】の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇紀貫之(き の つらゆき)とは?
平安時代前期から中期の官吏・歌人・文学者で、三十六歌仙の一人です。貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃に、紀望行の子として生まれたとされてきました。
寛平4年(892年)から翌年に欠けて、「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平后宮歌合」に出詠、『新撰万葉集』に入選します。延喜5年(905年)に、『古今和歌集』の選者に任じられ、紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上し、「仮名序」を書いて、名実ともに歌界の第一人者となりました。
延喜6年(906年)に越前権少掾(御書所預)となり、翌年には、内膳典膳となり、宇多上皇の大井川行幸にて歌や序を供奉しています。延喜13年(913年)には、『亭子院歌合』、『内裏菊合 (だいりきくあわせ) 』に出詠しました。
延喜13年(913年)に大内記、延喜17年(917年)に従五位下となって殿上人となり、延喜17年(917年)に兼加賀介、延喜18年(918年)に兼美濃介、延長元年(923年)に大監物、延長7年右京亮となります。延長8年(930年)に土佐守となり、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を任地で編纂したものの、天皇が亡くなったため、惜しくも勅撰集とはなりませんでした。
承平4年(934年)12月には、土佐守の任を終えて、土佐国府を出立し、翌年2月15日に帰洛、その後、この紀行を参考に、『土佐日記』を書いて、初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせます。天慶元年(938年)に周防国に赴き、翌年には、周防国にて紀貫之家歌合を催しました。
天慶3年(940年)に玄蕃頭、天慶6年(943年)に従五位上、天慶8年(945年)には、木工権頭(もくのごんのかみ)となっています。天慶8年(945年)または翌年に亡くなったとされますが、家集『貫之集』を残し、勅撰集入撰歌は『古今集』以下452首に及び、後に三十六歌仙の一人となりました。
☆『土佐日記】の旅程 承平4年12月21日~承平5年2月16日(日付は旧暦です)
・12月21日 国府(高知県南国市比江周辺)出立
・12月21日~26日 大津(高知県高知市大津)
・12月27日 浦戸(高知県高知市浦戸)
・12月29日 大湊(高知県南国市前浜)
・1月9日 宇多の松原(高知県香南市岸本周辺)
・1月10日 奈半の泊(高知県安芸郡奈半利町)
・1月11日 羽根(高知県室戸市羽根町)
・1月12日 室津(高知県室戸市室津)
・1月29日 土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)
・1月30日 阿波の水門(鳴門海峡)
・1月30日 沼島(兵庫県南あわじ市沼島)
・1月30日 和泉の灘(大阪府南西部)
・2月1日 黒崎の松原(大阪府泉南郡岬町淡輪)
・2月1日 箱の浦(大阪府阪南市箱作)
・2月5日 石津(大阪府堺市浜寺)
・2月5日 住吉(大阪府大阪市住吉区)
・2月6日 難波(大阪府大阪市)
・2月8日 鳥飼の御牧(大阪府摂津市鳥飼)
・2月9日 渚の院(大阪府枚方市渚元町)
・2月9日 鵜殿(大阪府高槻市鵜殿)
・2月11日 八幡の宮(石清水八幡宮)
・2月11日 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)
・2月16日 島坂(京都府向日市上植野町御塔道)
・2月16日 京(京都府京都市)到着
☆『土佐日記】冒頭部分
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
(後略)
「ウィキソース」より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1854年(安政2) | 「日露和親条約」が締結される(新暦1855年2月7日) | 詳細 |
1917年(大正6) | 大之浦炭鉱(福岡県)でガス爆発事故があり、死者・行方不明者369人を出す | 詳細 |
1941年(昭和16) | 大日本帝国とタイ王国との間で、「日泰攻守同盟条約」が調印・発効される | 詳細 |
1942年(昭和17) | 第9回御前会議で「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 東條内閣が「都市疎開実施要綱」を閣議決定する | 詳細 |
1946年(昭和21) | 昭和南海地震(M8.0)が起き、死者1,443人を出す | 詳細 |
1963年(昭和38) | 「教科書無償措置法」(昭和38年法律第182号)が公布・施行される | 詳細 |