
米騒動(こめそうどう)は、大正時代の1918年(大正7)に、米価急騰に怒った民衆が米屋等を襲った事件です。第1次世界大戦中のインフレ政策で実質賃金は低下し、さらにシベリア出兵の決定によりいっそう米買占めが行われたことと寺内内閣の米価調節失敗のために、7月以降米価は異常に暴騰しました。
その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で、9月21日に寺内内閣は総辞職に追い込まれ、9月29日には、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われてきました。
〇米騒動関係略年表
その中で、民衆の生活難と生活不安が深まり、この年の7月に富山県下新川郡魚津町(現在の富山県魚津市)の主婦達の行動に端を発し、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりしたものです。それが全国に波及して、米屋への安売り要求や打ちこわし、示威行動などが展開されました。
軍隊が出動して鎮圧されましたが、この事件で、9月21日に寺内内閣は総辞職に追い込まれ、9月29日には、原敬を首相とする政党内閣が出現することになります。これらのことは、護憲運動や普通選挙運動、労働運動、農民運動などの発展にも影響を与えた言われてきました。
〇米騒動関係略年表
<1918年(大正7)>
・7月 上旬から、富山県中新川郡東水橋町(現在の富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まる
・7月22日 昼に、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかける
・7月23日 富山県魚津町の漁民妻女たちが米の県外移出を差し止めるべく海岸に集まる(米騒動の始まり)
・8月3日 富山県中新川郡西水橋町(現在の富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願する
・8月5日 3日の出来事が「東京朝日新聞」、「大阪毎日新聞」で報道され、米騒動が全国に飛び火する契機となる
・8月6日 さらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となる
・8月10日 京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生することとなる
・8月11日 大阪市、神戸市に波及する
・8月12日 鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)と報道され焼き打ちに遭う
・8月13日 東京市では、日比谷公園野外音楽堂演説会に約2,000人の参加者が集まり、200人の警官が包囲、衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行ない、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定する
・8月14日 民衆が浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、廉売交渉を行なう
・8月15日 軍が出動し、鎮圧活動を開始する
・8月16日 米騒動参加者は鎮圧され、総計299人が検挙され、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)するも発動されず
・8月17日 この頃から都市部から町や農村へ米騒動が拡散する
・8月20日 ほぼ全国へ米騒動が波及する
・8月27日 福岡県嘉穂郡鎮西村(現在の飯塚市)の八幡製鐵所二瀬中央坑の炭鉱夫たちが勤務時間中に集合し、会社に対し米価引き下げと賃金3割増を要求し、暴動に発展する
・8月28日 東京府は米価暴騰に対処し「外鮮米」を指定米商に委託して廉売する
・8月31日 米騒動の影響を受け、寺内支障は元老山縣有朋に辞意を告げる
・9月4日 福岡県大牟田市と熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)にまたがる三池炭鉱万田坑で、賃上げなどを要求した炭鉱夫が暴動を起こす
・9月5日 三池炭鉱へ陸軍(第六師団や第十八師団)が出動して鎮圧行動を行う
・9月11日 三池炭鉱暴動の終結で一連の米騒動は終わりを告げる
・9月21日 寺内正毅内閣が総辞職する
・9月29日 日本で初の本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生する
☆原敬(はら たかし)とは?
明治時代から大正時代に活躍した外交官、政治家です。江戸時代後期の1856年(安政3年2月9日)に、南部藩重臣の父原直治と母リツ子の次男として、陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市)に生れましたが、幼名は健次郎といいました。
1871年(明治4)に上京して、南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入りますが、学資に窮して退学し、翌年には費用のかからないカトリック神学校に入学します。受洗して、カトリックの神父の学僕となり苦学したものの、1879年(明治12)に、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。
退社後、『大東日報』の主筆となり井上馨に知遇を得て、1882年(明治15)に外務省に採用され外務省御用掛兼務になります。1889年(明治22)には農商務省に転じ、陸奥宗光に師事するようになりました。
1892年(明治25)に一度辞職しますが、再び招かれて、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使を歴任します。陸奥の死を契機に、1897年(明治30)年はは官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社し翌年社長となりました。
その後、1900年(明治33)に、立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、1914年(大正3)に総裁に就任します。この間、1902年(明治35)に岩手県より立候補して衆院議員に当選し、以後没するまで連続当選を果たしました。
1918年(大正7)に米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、最初の政党内閣を組織します。交通の整備、教育の拡張など積極政策を行ない、爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されました。
しかし、強硬政策が反発を買い、1921年(大正10)11月4日、65歳で東京駅において右翼青年に暗殺されます。
1871年(明治4)に上京して、南部家が東京に設けた英学校共慣義塾に入りますが、学資に窮して退学し、翌年には費用のかからないカトリック神学校に入学します。受洗して、カトリックの神父の学僕となり苦学したものの、1879年(明治12)に、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社しました。
退社後、『大東日報』の主筆となり井上馨に知遇を得て、1882年(明治15)に外務省に採用され外務省御用掛兼務になります。1889年(明治22)には農商務省に転じ、陸奥宗光に師事するようになりました。
1892年(明治25)に一度辞職しますが、再び招かれて、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使を歴任します。陸奥の死を契機に、1897年(明治30)年はは官界を去り、大阪毎日新聞社に編輯総理として入社し翌年社長となりました。
その後、1900年(明治33)に、立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、1914年(大正3)に総裁に就任します。この間、1902年(明治35)に岩手県より立候補して衆院議員に当選し、以後没するまで連続当選を果たしました。
1918年(大正7)に米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて、最初の政党内閣を組織します。交通の整備、教育の拡張など積極政策を行ない、爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と称されました。
しかし、強硬政策が反発を買い、1921年(大正10)11月4日、65歳で東京駅において右翼青年に暗殺されます。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1874年(明治7) | 日本画家菱田春草の誕生日 | 詳細 |
| 1919年(大正8) | 法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の誕生日 | 詳細 |
| 1934年(昭和9) | 室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る | 詳細 |
| 1943年(昭和18) | 東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される | 詳細 |
| 1950年(昭和25) | シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日 | 詳細 |
| 1961年(昭和36) | 小説家宇野浩二の命日 | 詳細 |
| 1968年(昭和43) | 小説家・評論家広津和郎の命日 | 詳細 |
