ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:米軍

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1945年(昭和20)に、米軍が広島市に原爆を投下し、市街は壊滅し約14万人の死者を出した日で、毎年この日が広島平和記念日(広島原爆忌)とされています。
 広島平和記念日(ひろしまへいわきねんび)は、広島市が制定している記念日で、日付は広島市に原子爆弾が投下された日付の8月6日とされ、地元では、単に「平和記念日」とも呼ばれています。1945年(昭和20)8月6日午前8時15分に、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイ号が、広島市上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下、上空約600メートルで爆発して、広島市街は壊滅し、放射線による急性障害が一応おさまった同年12月末までに、約14万人が死亡したと推計されました。
 この歴史的悲劇から人類は目をそむけることなく、犠牲となった多くの人々の霊を慰め、世界平和を祈る日として広島市では「平和記念日」とし、この日に原爆慰霊碑の前で「平和記念式典」が行われています。1947年(昭和22)7月31日に制定された「広島市役所事務休停日条例」に基づき、広島市独自の休日として規定されました。
 その後、広島市における8月6日に関する条例としては、1991年(平成3)に、「広島市の休日を定める条例」、2021年(令和3)に、「広島市平和推進基本条例」が制定されています。
 以下に、「広島市の休日を定める条例」、「広島市平和推進基本条例」を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇「広島市の休日を定める条例」(条例第49号)1991年(平成3)9月26日公布、1993年(平成5)4月1日施行

(市の休日)

第1条 次の各号に掲げる日は、市の休日とし、市の機関の執務は、原則として行わないものとする。
(1) 日曜日及び土曜日
(2) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日
(3) 12月29日から翌年の1月3日までの日(前号に掲げる日を除く。)
(4) 8月6日(平和記念日)
2 前項の規定は、市の休日に市の機関がその所掌事務を遂行することを妨げるものではない。

(平4条例58・一部改正)

(期限の特例)

第2条 市の行政庁に対する申請、届出その他の行為の期限で条例又は規則で規定する期間(時をもって定める期間を除く。)をもって定めるものが市の休日に当たるときは、市の休日の翌日をもってその期限とみなす。ただし、条例又は規則に別段の定めがある場合は、この限りでない。

附則

この条例は、平成3年12月1日から施行する。

附則(平成4年12月19日条例第58号 抄)

(施行期日)

1 この条例は、平成5年4月1日から施行する。

(一般職の職員の給与に関する条例の一部改正)

2 一般職の職員の給与に関する条例(昭和26年3月30日広島市条例第62号)の一部を次のように改正する。

〔次のよう略〕

(職員の退職手当に関する条例の一部改正)

3 職員の退職手当に関する条例(昭和28年広島市条例第62号)の一部を次のように改正する。

〔次のよう略〕

〇「広島市平和推進基本条例」(条例第50号)2021年(令和3)6月29日公布・施行

昭和20年8月6日,人類史上最初の原子爆弾が広島に投下され,広島の街は一瞬にして焦土と化し,壊滅,焼失した。当時,広島には約35万人の人々がいたと考えられているが,同年末までに約14万人が死亡したと推計され,生き残った人々も,急性障害だけでなく,様々な形の後障害に苦しめられている。
さらに,被爆者に対する結婚・就職等での差別により,後に,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律の適用を受けることが困難になるなどの被害もある。また,放射性物質を含んだ黒い雨による被害の議論は,いまだに続いている。
廃墟の街となった広島は,「75年間は草木も生えぬ」と言われたが,堪え難い悲しみと苦しみを乗り越えて復興に立ち上がり,広島平和記念都市建設法の制定を実現させ,市民の英知とたゆまぬ努力,国内外からの温かい援助などにより,めざましい復興・発展を遂げていった。
本市は,被爆者の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」との思いから,核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を願うヒロシマの心の共有を訴えてきた。さらに,国内外の多くの人々に,原子爆弾による被爆の実相に触れてもらうため,広島平和記念資料館や原爆ドームへの来訪を推進するとともに,放射線被ばく医療に対しても国際貢献をしてきた。
また,被爆者の壮絶な体験と平和への思いを後世に伝えるため,被爆体験の継承及び伝承を行ってきた。
しかしながら,被爆から75年が過ぎ,被爆者の高齢化が一段と進み,被爆体験を直接聞き知る機会が失われつつある。また,市民による平和の推進に関する活動の担い手が高齢化し,核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴えることが難しくなってきている。今では,昭和20年8月6日に何が起こったか,知らない子どもたちもいる。
今日,核兵器の廃絶に向けては,核兵器禁止条約の発効など,世界的にその機運は高まっているものの,実現までにはいまだ多くの課題がある。
私たち広島市民は,こうした現実を踏まえ,昭和20年8月6日の惨状と復興への道のりを伝え残し,世界に対して,行政を始め各界各層の多くの人々と共に「絶対悪」である核兵器を廃絶するために積極的に声を上げ,行動し,核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に努めることを決意し,この条例を制定する。

(目的)
第1条 この条例は,平和の推進に関し,本市の責務並びに市議会及び市民の役割を明らかにするとともに,本市の施策の基本となる事項を定めることにより,平和の推進に関する施策を総合的かつ継続的に推進し,もってヒロシマの心である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的とする。

(定義)
第2条 この条例において「平和」とは,世界中の核兵器が廃絶され,かつ,戦争その他の武力紛争がない状態をいう。

(本市の責務)
第3条 本市は,平和の推進に関する施策を策定し,及び実施する責務を有する。

(市議会の役割)
第4条 市議会は,本市の平和の推進に関する施策に関し,その機能を最大限に発揮するとともに,長崎市議会等と連携し,平和の推進に関する活動を行うものとする。

(市民の役割)
第5条 市民は,平和の推進に関する活動を行うよう努めるものとする。

(平和記念日)
第6条 本市は,人類史上最初の原子爆弾が投下された昭和20年8月6日を世界平和樹立への礎として永久に忘れてはならない日とし,原子爆弾による死没者を追悼するとともに世界恒久平和の実現を祈念するため,毎年8月6日を平和記念日とする。
2 本市は,平和記念日に,広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式を,市民等の理解と協力の下に,厳粛の中で行うものとする。

(平和の推進に関する施策)
第7条 本市は,平和の推進に関し,次に掲げる施策を策定し,及び実施するものとする。
(1) 核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指し,国内外の都市等との連携を図るための施策
(2) 市民等が,原子爆弾による被爆の実相への理解を深めるとともに,平和について考え,平和の推進に関する活動を主体的に行うよう,平和意識の醸成を図るための施策
(3) 原子爆弾被爆者の体験及び平和への思い(以下この号において「被爆体験」という。)を世界に広め,かつ,これらを次世代に確実に伝え続けるよう,被爆体験の継承及び伝承を図るための施策
(4) 前3号に掲げるもののほか,平和の推進を図るために必要な施策

(年次報告)
第8条 市長は,毎年,平和の推進に関する施策の実施状況を市議会に報告するとともに,これを公表するものとする。

(財政上の措置)
第9条 本市は,平和の推進に関する施策を総合的かつ継続的に推進するため,必要な財政上の措置を講ずるものとする。

(委任規定)
第10条 この条例の施行に関し必要な事項は,市長が定める。

附則
1 この条例は,公布の日から施行する。
2 広島市役所事務休停日条例(昭和22年7月31日広島市条例第14号)は,廃止する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1359年(正平14/延文4)筑後川の戦いで南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利する(新暦8月29日)詳細
1896年(明治29)国際法学者・第3代最高裁判所長官横田喜三郎の誕生日詳細
1914年(大正3)第一次世界大戦で、セルビアがドイツ帝国に宣戦布告する詳細 
1923年(大正12)天文学者・初代東京天文台長寺尾寿の命日詳細
1926年(大正15)東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の中小型58機による都城大空襲が行われ、56人が亡くなる詳細
1949年(昭和24)「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される詳細
1955年(昭和30)広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される詳細
1981年(昭和56)電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日)詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、東宝争議(第3次)で、砧撮影所に立てこもる組合員2,500人に対し、東京地裁が撮影所明渡しの仮処分を執行、米軍の戦車7台・飛行機3機などが投入され、組合員が撤退した日です。
 東宝争議(とうほうそうぎ)は、太平洋戦争後の占領下において、東宝映画会社で日本映画演劇労働組合(日映演)との間に生じた4度の労働争議のことですが、一般的には、最も大規模だった1948年4~10月に争われた第3次争議を指します。
 戦後すぐの1945年(昭和20)12月、東宝では東宝従業員組合(従組)が結成され、全日本産業別労働組合会議(産別)にも加盟し、たびたびストライキを含む要求行動を行ない、従業員の九割(5,600名)の組合員を組織するようになりました。その中で、翌年3月に第1次争議、同年10月に第2次争議(50日余の生産管理闘争)が起こり、経営参加を含む労働協約(労務に関する経営協議会、企画審議会、政策協議会への参加等)を締結します。
 これによって、「戦争と平和」、「今ひとたびの」、「酔いどれ天使」などの映画が製作され、高い世評を得ますが、組合が分裂し第二組合、第三組合が生まれました。この状況下で、1947年(昭和22)12月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わります。
 新経営陣は赤字と赤旗の「二つの赤」を追放すると称し、労働協約の破棄を通告、翌年4月8日に、東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇、労働組合側が反発して、第3次争議が始まることになりました。さらに人員整理のため1,200名の解雇計画を発表、これを受けて、組合側は4月15日に生産管理闘争に突入し、東京砧撮影所と資機材を管理下に置きましたが、会社側は6月1日からの同撮影所の閉鎖を発表します。
 争議団は、世論の支持と数々の労働組合や市民団体、文化団体などの応援を得て闘ったものの、組合の分裂が続き、8月13日の東京地裁の仮処分決定に基づき、8月19日には、米軍戦車7台、航空機3機、騎兵1中隊の護衛下に武装警官2,000名が出動し、「こなかったのは軍艦だけ」と呼ばれる事態となりました。これによって、組合側は撮影所を退去せざるを得なくなり、10月19日に組合幹部20名は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は終結します。
 尚、1950年(昭和25)5月17日~12月29日まで、第4次争議も起きました。

〇東宝争議関係略年表

<1945年(昭和20)>
・12月 東宝従業員組合(従組)が結成される

<1946年(昭和21)>
・4月 日本映画演劇労働組合(日映演)の結成の中心になり、日映演東宝支部を組織する
・3月 第1次東宝争議が起きる
・9~10月 第2次東宝争議(50日余の生産管理闘争)が起きる
・11月 ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎ら十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱する

<1947年(昭和22)>
・3月 「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝が設立される
・4月 第二、第三組合が全国映画演劇労働組合(全映演)を結成する
・12月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わり、渡辺社長が就任する

<1948年(昭和23年)>
・3月25日 会社は同月末を期限とする労働協約の破棄を組合に通告する
・4月1日 労働協約が破棄され、無協約状態となる
・4月8日 東京砧撮影所従業員270名を突然解雇し、組合側が反発して、第3次東宝争議が始まる
・4月15日 従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置いて立てこもる
・4月16日 会社はさらなる解雇通告を行う
・5月1日 会社側は休業を宣言する
・5月4日 会社は撮影所内への立ち入りを禁止する
・5月10日 会社側は東京地裁へ占有解除を求める仮処分を申請、日経連は全面支援体制をとる
・5月末 解雇者数914名、契約解除者84名にのぼる
・6月1日 会社は撮影所の閉鎖を発表する
・6月18日 50団体によって「日本文化を守る会」が結成され、東宝争議を支援する
・7月5日 さらに組合の分裂が進み、第五組合が発足する
・7月18日 第二から第五組合が東宝労働組合連合会を結成し、会社との間に「整理を是認し、撮影所の再開をはかる」との協定を結ぶ 
・8月13日 東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定する
・8月14日 裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、従組組合員800名によって入場を拒否される
・8月19日 仮処分執行のため、米軍戦車7台,航空機3機,騎兵1中隊の護衛下に武装警官2,000名が出動、組合による砧撮影所占有が解除される
・8月27日 東京都労働委員会会長の覚書が出されるが、会社側が拒否する
・10月18日 組合最高幹部が社長らと会談し、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇撤回が合意される
・10月19日 組合幹部20名は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は終結する

<1950年(昭和25)>
・5月17日~12月29日 第4次東宝争議が起きる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1680年(延宝8)第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日)詳細
1863年(文久3)八月十八日の政変による七卿落ちで、三條実美ら公家7人が長州へ向かう(新暦10月1日)詳細
1881年(明治14)文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される詳細
1944年(昭和19)第12回御前会議で「世界情勢判断及戦争指導大綱」を決定する詳細
1946年(昭和21)全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される詳細
1962年(昭和37)有機化学者で大阪帝国大学総長だった真島利行の命日詳細
1969年(昭和44)小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日詳細
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