ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:箱館戦争

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、幕臣・外交官・政治家榎本武揚の亡くなった日です。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は、1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。
 1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。
 1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。
 箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。
 1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。
 1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。
 一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇榎本武揚関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年〈天保7年8月25日〉 江戸下谷(現在の東京都台東区)で、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれる
・1847年(弘化4年) 12歳で昌平坂学問所に入る
・1854年(安政元年) 箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従う
・1856年(安政3年) 長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学ぶ
・1858年(安政5年) 江戸の築地軍艦操練所教授となる
・1862年(文久2年) オランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学ぶ
・1866年(慶応2年) 幕府注文の開陽丸を回送して帰国、同艦の船将となる
・1868年(慶応4年1月) 海軍副総裁となる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否する
・1868年(慶応4年10月20日) 幕府艦隊を率いて北海道に上陸する
・1868年(慶応4年11月1日) 箱館五稜郭へ入城する
・1868年(慶応4年12月10日) 蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙によって総裁に選ばれる
・1869年(明治2年5月18日) 官軍に降伏する
・1869年(明治2年6月30日) 東京の監獄に投獄される
・1872年(明治5年1月6日) 特赦を受けて出獄する、
・1872年(明治5年6月) 黒田清隆の下で、開拓使に登用されて北海道の資源調査に従事する
・1874年(明治7年) 海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在する
・1875年(明治8年)5月7日 ロシアのペテルブルグで「樺太・千島交換条約」を締結する
・1879年(明治12年) 地学協会の創立を唱えて副会長となる
・1880年(明治13年)2月28日 海軍卿となる
・1882年(明治15年)8月12日 駐清特命全権公使となる
・1884年(明治17年) 李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力する
・1885年(明治18年) 伊庭想太郎らと旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立する
・1885年(明治18年)10月 清国から帰国する、
・1885年(明治18年)12月22日 逓信大臣に就任する
・1887年(明治20年)5月24日 子爵となる
・1888年(明治21年)4月30日 農商務大臣となる
・1888年(明治21年) 電気学会を設立、初代会長となる
・1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める
・1889年(明治22年)3月22日 文部大臣となる
・1890年(明治23年)5月22日 枢密顧問官となる
・1891年(明治24年)3月6日 東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任する
・1891年(明治24年)5月29日 外務大臣となる
・1893年(明治26年) 殖民協会を設立し会長となる
・1893年(明治26年) 育英黌分黌農業科を私立東京農学校と改称し、校主となる
・1894年(明治27年)1月22日 農商務大臣となる
・1897年(明治30年)3月29日 足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任する
・1898年(明治31年) 工業化学会の初代会長となる
・1905年(明治38年)10月19日 海軍中将を退役となる
・1908年(明治41年)10月26日 東京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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