ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:第4代将軍

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 今日は、江戸時代前期の1670年(寛文10)に、江戸幕府の命により、林羅山・林春斎らが編纂した『本朝通鑑』が完成し、第4代将軍徳川家綱に献じられた日ですが、新暦では7月28日となります。
 『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)は、1644年(正保元)の江戸幕府第3代将軍徳川家光の命により、林羅山とその子林鵞峰が編纂した漢文・編年体の史書でした。中国の『資治通鑑』の名称と記述法に倣ったもので、前編(神代)3巻、正編(神武~宇多天皇)40巻、続編(醍醐~後陽成天皇)230巻、提要30巻、付録(神祇、皇運、朝職[上・下]、武職)5巻、目録1巻、引用書目1巻の計310巻から成っています。
 天皇一代ごとの編年体で、事実をありのままに記述し勧善懲悪の効果を期待したとされ、今日失われている多数の文書記録を含んでいる貴重な史書とされてきました。1670年(寛文10)に完成し、6月12日には中書本(最終的な清書本を作成する前の中間的な清書本)が将軍家へ提出され、清書本は紅葉山文庫と日光東照宮に納められています。
 独断を避け厳密な考証につとめ、儒学の実証的合理主義による歴史書の先駆をなすものとされ、いわゆる林家史学の代表ですが、これに異論をもつ水戸藩の『大日本史』などの編修を呼び起こしました。

〇林 羅山(はやし らざん)とは?

 江戸時代前期に活躍した朱子学派の儒学者です。安土桃山時代の1583年(天正11)8月に、京都四条新町で、加賀国の郷士の末裔で浪人だった父の子として生まれましたが、本名は信勝と言いました。1595年(文禄4)に臨済宗の建仁寺に入って、大統庵の古澗慈稽に、次に十如院の英甫永雄に就いて、儒学と仏教を学びます。
 1597年(慶長2)に家に戻ってからはもっぱら儒書に親しみ、朱子の章句、集注を研究して、朱子学(宋学)に傾倒していきました。1604年(慶長9)に、角倉素庵の仲介で藤原惺窩と出会い、論争後、その門に入ります。
 1607年(慶長12)惺窩の推挙で、徳川家康に仕え、以後秀忠、家光、家綱と4代の将軍の侍講を勤めました。その中で、儀式・典礼の調査、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの制定や『寛永諸家系図伝』、『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草に関与し、幕政の整備に貢献します。
 また、1630年(寛永7)に上野忍岡に私塾・文庫と孔子廟を建てて、のち官学となった昌平坂学問所(昌平黌)の学問の礎を築きました。朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となります。
 『三徳抄』、『大学解』、『神道伝授』、『本朝神社考』、『羅山文集』など多くを著しましたが、1657年(明暦3)1月23日に、江戸において、数え年75歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1761年(宝暦11)江戸幕府第9代将軍徳川家重の命日(新暦7月13日)詳細
1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船(宇高連絡船)が運航開始する詳細
1961年(昭和36)「農業基本法」(昭和36年法律第127号)が公布・施行される詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、江戸幕府の第4代将軍徳川家綱が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 徳川家綱(とくがわ いえつな)は、1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。
 1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。
 同年10月2日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。
 1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。
 1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。
 しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

〇徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年10月2日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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