ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:第15代将軍

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 今日は、慶応2年に、徳川慶喜が江戸幕府15代将軍に就任した日ですが、新暦では1867年1月10日となります。
 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府の第15代将軍・公爵です。江戸時代後期の1837年(天保8)9月29日に、常陸水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男(母は有栖川宮王女登美宮吉子)として、小石川の江戸藩邸で生まれましたが、幼名は七郎麿と言いました。
 水戸弘道館で学んだのち、1847年(弘化4)に一橋家を相続し、慶喜と改名します。13代将軍徳川家定の死後、14代将軍の継嗣をめぐって慶福(のち徳川家茂)を擁立する井伊直弼ら紀伊派と対立しましたが敗れました。
 1859年(安政6)の安政の大獄に際しては隠居謹慎を命じられましたが、翌年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると解除されます。1862年(文久2)に将軍後見職として徳川家茂(いえもち)を補佐するようになり、1866年(慶応2)に家茂が亡くなると、将軍宣下を受け15代将軍に就きました。
 フランス公使レオン・ロッシュの助言をいれて幕政の改革に着手するものの、薩摩藩・長州藩と対立します。翌年に大政奉還をして将軍職を辞任、王政復古の政変後は大坂城に入りました。
 1868年(慶応4)の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸で謹慎し、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲り駿府に移ります。1869年(明治2)謹慎を解かれましたが、以後表舞台にはたたず、放鷹、油絵、写真などの趣味に生きました。
 1897年(明治30)に東京の巣鴨に移り住み、1901年(明治34)に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の屋敷に転居しました。1902年(明治35)には公爵に叙せられ、徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就きましたが、1910年(明治43)、七男の慶久に家督を譲って、議員を辞しています。
 その後、隠居生活の中で再び趣味に没頭しましたが、1913年(大正2)11月22日に、東京において、76歳で亡くなりました。

〇江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

 1603年(慶長8)に徳川家康が、征夷大将軍の宣下を受けて幕府を開き、1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたり、江戸時代が続きました。家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。
 その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げました。

・初代 家康(いえやす) 1603年~1605年(慶長8~慶長10)
 1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
 1605年 将軍職を秀忠にゆずる(将軍職の世襲制を示す)

・2代 秀忠(ひでただ) 1605年~1623年(慶長10~元和9)
 1612年 幕府が直轄領に禁教令を出す
 1614年 大坂の役(~1615年)が起こる
 1615年 一国一城令が発布される
      武家諸法度・禁中並公家諸法度が出される

・3代 家光(いえみつ) 1623年~1651年(元和9~慶安4)
 1625年 関所・駅伝の制を定める
 1635年 武家諸法度で参勤交代を制度化する
 1637年 島原の乱が起こる
 1639年 ポルトガル船の来航を禁止する(鎖国の完成)
 1641年 オランダ人を長崎の出島に移す
 1644年 宗門改めの制を定める
 1649年 慶安の御触書が出される

・4代 家綱(いえつな) 1651年~1680年(慶安4から延宝8)
 1651年 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
 1657年 江戸で明暦の大火が起こる
 1673年 分地制限令が制定される

・5代 綱吉(つなよし) 1680年~1709年(延宝8~宝永6)
 1685年 生類憐れみの令が出される
 1688年 柳沢吉保が側用人になる
 1690年 聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する
 1702年 赤穂事件が起こる
 1707年 富士山宝永噴火が起こる

・6代 家宣(いえのぶ) 1709年~1712年(宝永6~正徳2)
 1709年 新井白石の改革(正徳の治)が行われる
 1711年 朝鮮通信使の待遇簡素化される

・7代 家継(いえつぐ) 1712年~1716年(正徳2~享保元)
 1714年 正徳金銀の改鋳が行われる
 1715年 海舶互市新令が出される
 1716年 家継が8歳で没する

・8代 吉宗(よしむね) 1716年~1745年(享保元~寛保5)
 1721年 目安箱が設置される
 1722年 上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる
 1723年 足高の制を定め、人材を登用する
 1732年 享保の大飢饉が起こる
 1742年 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める

・9代 家重(いえしげ) 1745年~1760年(寛保5~宝暦10)
 1753年 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
 1758年 宝暦事件が起こる

・10代 家治(いえはる) 1760年~1786年(宝暦10~天明7)
 1772年 江戸で明和の大火が起こる
 1767年 田沼意次が側用人になる
 1782年 印旛沼・手賀沼の干拓工事
      天明の大飢饉(~1787年)が起こる
 1783年 浅間山天明大噴火が起こる

・11代 家斉(いえなり) 1787年~1837年(天明7から天保8)
 1789年 棄捐令が出される
 1790年 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
 1808年 フェートン号事件が起こる
 1825年 異国船打払令が出される
 1833年 天保の大飢饉が起こる
 1837年 大塩平八郎の乱が起こる

・12代 家慶(いえよし) 1837年~1853年(天保8から嘉永6)
 1839年 蛮社の獄(渡辺崋山、高野長英ら処罰)
 1841年 株仲間解散令が出される
 1843年 人返しの法が制定される
      上知令が制定される
 1853年 ペリ-が浦賀に来航し、開国を要求

・13代 家定(いえさだ) 1853年~1858年(嘉永6~安政5)
 1854年 アメリカと日米和親条約を結ぶ
      日露和親条約(国境画定)
 1855年 長崎に海軍伝習所が設置される
 1856年 ハリスが総領事として着任する
 1853年 アメリカと日米修好通商条約を結ぶ

・14代 家茂(いえもち) 1858年~1866年(安政5~慶応2)
 1858年 安政の大獄が起こる
 1860年 桜田門外の変で井伊直弼が殺される
 1862年 坂下門外の変が起こる
      和宮が将軍家茂に降嫁する
      生麦事件が起こる
 1863年 薩英戦争が起こる
 1864年 禁門の変が起こる
      下関事件が起こる
      長州征伐(第一次)が行われる
 1865年 長州征伐(第二次)が行われる

・15代 慶喜(よしのぶ) 1866年~1867年(慶応2~慶応3)
 1867年 兵庫開港の勅許が出される
      大政奉還が行われる
      王政復古の大号令が発せられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1884年(明治17)物理学者西川正治の誕生日詳細
1899年(明治32)電気通信工学者・工学博士古賀逸策の誕生日詳細
1900年(明治33)吉岡弥生が夫の吉岡荒太と共に、東京女医学校(後の東京女子医科大学)を創立する詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細
1996年(平成8)広島県の「原爆ドーム」が「厳島神社」と共に世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
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 今日は、安土桃山時代の1597年(慶長2)に、室町幕府第15代将軍だった足利義昭の亡くなった日ですが、新暦では10月9日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。
 1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
 その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
 しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
 翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
 以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
 1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる
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