今日は、江戸時代後期の1779年(安永8)に、第118代の天皇とされる後桃園天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月6日となります。
後桃園天皇(ごももぞのてんのう)は、江戸時代中期の1758年(宝暦8年7月2日)に、京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれましたが、名は英仁(ひでひと)と言いました。1759年(宝暦9)に儲君となり、同年に親王宣下されましたが、1762年(宝暦12)に父・桃園天皇が亡くなった時は幼少だったため、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となります。
1768年(明和5)に立太子し、同年に元服すると、1771年(明和7)には、伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚、第118代とされる天皇として即位しました。在位中の1773年(安永2年)に、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分(安永の御所騒動)が起き、江戸幕府の圧力が強化されています。
生来病弱でしたが、好学で、在位中の日記『後桃園院宸記』(東山御文庫)、禁中儀式書『年中さかつきの次第』を残し、和歌集『後桃園院御点』も伝えられてきました。しかし、在位10年皇嗣をきめないまま、1779年(安永8年10月29日)に京都において、数え年22歳で亡くなり、陵墓は月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされます。
子が欣子内親王のみであったため、急遽、傍系にあたる閑院宮家より師仁親王を養子に迎えて、即位(光格天皇)させました。
〇後桃園天皇の主要な著作
・日記『後桃園院宸記(しんき)』8冊(東山御文庫)
・禁中儀式書『年中さかつきの次第』
・和歌集『後桃園院御点(ごてん)』1冊
☆後桃園天皇関係略年表年表(日付は旧暦です)
・1758年(宝暦8年7月2日) 京都において、桃園天皇の第一皇子(母は関白太政大臣一条兼香の娘)として生まれる
・1759年(宝暦9年1月18日) 儲君となる
・1759年(宝暦9年5月15日) 親王宣下される
・1762年(宝暦12年7月) 父・桃園天皇が亡くなり、伯母の智子内親王(後桜町天皇)が第117代とされる天皇となる
・1768年(明和5年2月19日) 立太子する
・1768年(明和5年8月9日) 元服する
・1771年(明和7年11月24日) 伯母後桜町天皇の譲位を受けて践祚する
・1772年(明和8年4月28日) 第118代とされる天皇として即位する
・1773年(安永2年) 朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われる(安永の御所騒動)
・1779年(安永8年10月29日) 京都において、数え年22歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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