1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1490年(延徳2) | 室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日) | 詳細 | |||||
1835年(天保6) | 官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日) | 詳細 | |||||
1868年(慶応4) | 新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日) | 詳細 | |||||
1902年(明治35) | 小説家・児童文学者住井すゑの誕生日 | 詳細 | |||||
1926年(大正15) | 劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される | 詳細 | |||||
1939年(昭和14) | 戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される | 詳細 | |||||
1996年(平成8) | 芸術家岡本太郎の命日 | 詳細 |