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 今日は、室町時代の1473年(文明5)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の亡くなった日ですが、新暦では6月6日となります。
 細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の1430年(永享2)に守護大名で第14代室町幕府管領となった細川持之の嫡男(母は京極高光の娘)として生まれましたが、幼名は聡明丸と言いました。1442年(嘉吉2)の13歳の時、父・持之が亡くなり、細川家宗家・京兆家当主となり、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼任、従五位下右京大夫に叙任され、7代将軍足利義勝の名を一字を賜り、勝元と名乗ります。
 幼少のため叔父細川持賢がこれを後見し、1445年(文安2)の16歳の時、畠山持国(徳本)に代わって、室町幕府の第16代管領に就任しました。同年に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させ、1447年(文安4)には、調和を図って山名持豊(宗全)の養女を正室に迎えています。
 1449年(文安6)に従四位下に昇叙、武蔵守を兼任しましたが、同年に管領を辞任し、畠山持国に替わりました。一方、禅に傾倒し、1450年(宝徳2)に京都に竜安寺、1452年(享徳元)に丹波に竜興寺を創建しています。
 1452年(享徳元)に幕府の管領に再度就任し、翌年に伊予守護職問題に介入、1455年(享徳4)には一時伊予守護を兼任しました。持豊と結び、1460年(寛正元)に畠山義就を失脚させたりしたものの、赤松家再興問題で持豊と対立するようになり、1464年(寛正5)には、再び管領を辞任し、弟の政長と交替します。
 1466年(文正元)に実子政元の誕生後、養子の豊久(山名持豊の子)を廃嫡して仏門に入れたり、足利義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まりました。将軍家の跡目を巡って勝元が足利義視を、持豊が足利義尚を支援したことは、1467年(応仁元)に応仁の乱が起こる一因となります。
 将軍足利義政をはじめ後土御門天皇、後花園天皇を奉じ、主に京都東北に陣取り、十余万の兵を率いる東軍総帥となり、持豊の率いる西軍と戦いました。翌年に三度目の管領に就任しましたが、戦いは全国規模の長期戦となり、膠着状態が続き、1473年(文明5)の3月に山名持豊(宗全)が病死する中、同年5月11日に、陣中において、数え年44歳で亡くなっています。
 尚、和歌・書画・鷹狩・犬追物などを好み、医学に通じ医書『霊蘭集』を著すなど、多方面に長けていました。

〇細川勝元関係略年表(日付は旧暦です)

・1430年(永享2年) 守護大名で第14代室町幕府管領となった細川持之の嫡男(母は京極高光の娘)として生まれる
・1442年(嘉吉2年8月) 13歳の時、父・持之が亡くなり、細川家宗家・京兆家当主となり、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼任、従五位下右京大夫に叙任され、7代将軍足利義勝の名を一字を賜り、勝元と名乗る
・1445年(文安2年3月24日) 16歳の時、畠山持国(徳本)に代わって、室町幕府の管領に就任する
・1445年(文安2年) 近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させる
・1447年(文安4年) 山名持豊(宗全)の養女を正室に迎える
・1449年(文安6年4月14日) 従四位下に昇叙、武蔵守を兼任する
・1449年(文安6年9月5日) 管領を辞任し、畠山持国に替わる
・1450年(宝徳2年) 主君である和泉守護細川常有(細川元有の父)と対立して持国と古市胤仙を頼った守護代宇高有光が殺害される事件が起こる
・1450年(宝徳2年) 京都に竜安寺を創建させる
・1451年(宝徳3年) 兵庫津に入港していた琉球商船の押し取った物を返さないという事件か起きる
・1452年(享徳元年) 丹波に竜興寺を建てる
・1452年(享徳元年12月23日) 幕府の管領に再度就任する
・1455年(享徳4年) 伊予守護となる
・1458年(長禄2年) 赤松家再興問題が起きる
・1460年(寛正元年) 畠山義就を失脚させる
・1464年(寛正5年11月13日) 管領を辞任し、弟の政長と交替する
・1466年(文正元年) 実子政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れる
・1466年(文正元年) 足利義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる
・1467年(応仁元年) 応仁の乱が起こり、東軍総帥となり、持豊の率いる西軍と戦う
・1468年(応仁2年7月10日) 管領に三度目の就任をする
・1468年(応仁2年閏10月) 足利義政が伊勢貞親を復職させると、足利義尚を支持、宗全が足利義視を支持する立場に変わる
・1471年(文明3年) 西軍の部将朝倉孝景を越前守護に任じて寝返らせる
・1472年(文明4年) 宗全に和平交渉を試みるが、決裂する
・1473年(文明5年3月) 山名持豊(宗全)が病死する
・1473年(文明5年5月11日) 管領辞任、数え年44歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦い源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)

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