
『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は、鎌倉時代の日蓮が著した問答体の仏教書で、『安国論』とも呼ばれてきました。旅客と主人の問答9番よりなり、東国に地震、大風、大雨、飢饉、疫病等災害が続出し、多くの人々が死に、病み、飢えて苦しんだのは、邪法(法然の念仏)を信じるがためと述べ、法華経に基づく諸経・諸宗の統一を主張し、正法が確立されない限り国の安泰はないと説いたものです。
1260年(文応元年7月16日)に、宿屋左衛門入道を介して、鎌倉幕府の前執権北条時頼に提出されましたが、本論の国家諫暁の趣旨が、かえって幕府の反感を買い、日蓮は、伊豆国に流罪となりました。日蓮真筆本(国宝)が千葉県市川市の中山法華経寺に現存する他、直弟たちによる写本があり、『開目鈔』『観心本尊鈔』とならぶ、日蓮の三大著作の一つに数えられています。
1260年(文応元年7月16日)に、宿屋左衛門入道を介して、鎌倉幕府の前執権北条時頼に提出されましたが、本論の国家諫暁の趣旨が、かえって幕府の反感を買い、日蓮は、伊豆国に流罪となりました。日蓮真筆本(国宝)が千葉県市川市の中山法華経寺に現存する他、直弟たちによる写本があり、『開目鈔』『観心本尊鈔』とならぶ、日蓮の三大著作の一つに数えられています。
〇日蓮(にちれん)とは?
鎌倉時代の僧侶で、日蓮宗の開祖です。1222年(貞応元年2月16日)に、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)で、有力漁民の子として生まれましたが、幼名を薬王丸、本名は蓮長と言いました。
1233年(天福元年)に、清澄山清澄寺の道善房を師として修学に励みます。1238年(暦仁元)に出家して、是生房蓮長と称し、鎌倉、京畿、比叡山などで諸教学を学びました。
1253年(建長5)に清澄寺に帰山し、法華信仰に立って「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始め(立教開宗)、名を日蓮と改めます。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され清澄寺を退出、鎌倉にて辻説法を開始しました。
『立正安国論』を著し、国難を予言して北条時頼に献じましたが、その忌諱に触れ、1261年(弘長元)に伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流されます。1263年(弘長3)に赦免され、鎌倉に戻って伝道活動を再開しますが、幕府・諸宗批判を止めなかったため、1269年(文永6)に龍ノ口で処刑(龍ノ口法難)されかけたものの、免れて佐渡に流されました。
1274年(文永11)に赦免後は、甲斐身延山に隠棲し、弟子の育成に努めます。1282年(弘安5)に病を得て下山し、武蔵国千束郡(現在の東京都大田区池上)へ行き、六老僧を定めた後、同年10月13日に、数え年61歳で没しました。
1233年(天福元年)に、清澄山清澄寺の道善房を師として修学に励みます。1238年(暦仁元)に出家して、是生房蓮長と称し、鎌倉、京畿、比叡山などで諸教学を学びました。
1253年(建長5)に清澄寺に帰山し、法華信仰に立って「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始め(立教開宗)、名を日蓮と改めます。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され清澄寺を退出、鎌倉にて辻説法を開始しました。
『立正安国論』を著し、国難を予言して北条時頼に献じましたが、その忌諱に触れ、1261年(弘長元)に伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流されます。1263年(弘長3)に赦免され、鎌倉に戻って伝道活動を再開しますが、幕府・諸宗批判を止めなかったため、1269年(文永6)に龍ノ口で処刑(龍ノ口法難)されかけたものの、免れて佐渡に流されました。
1274年(文永11)に赦免後は、甲斐身延山に隠棲し、弟子の育成に努めます。1282年(弘安5)に病を得て下山し、武蔵国千束郡(現在の東京都大田区池上)へ行き、六老僧を定めた後、同年10月13日に、数え年61歳で没しました。
<日蓮の主要な著作>
・『立正安国論』
・『開目鈔』
・『撰時鈔』
・『報恩鈔』
・『観心本尊鈔』
・『守護国家論』
〇日蓮著『立正安国論』抜粋
若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以「兵革の災」なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も「他方の怨賊国内を侵掠する」此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以「四方の賊来つて国を侵すの難」なり。
(中略)
若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競ひ来らば、其の時何んか為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を掠領せば、豈に驚かざらんや、豈に騒がざらんや。国を失い家を滅せば、いずれの所にか世を遁れん。
(中略)
就中人の世に在るや、各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇ばんや、…汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言信ず可し、崇む可し。
☆北条 時頼(ほうじょう ときより)とは?
鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任します。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼしました(宝治合戦)。
さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めます。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図りました。
一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされています。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てました。
1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与します。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任します。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼしました(宝治合戦)。
さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めます。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図りました。
一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされています。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てました。
1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与します。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1304年(嘉元2) | 第89代の天皇とされる後深草天皇の命日(新暦8月17日) | 詳細 |
1885年(明治18) | 日本鉄道の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売された(駅弁記念日) | 詳細 |
1894年(明治27) | 領事裁判権の撤廃、相互最恵国待遇を認めた「日英通商航海条約」が締結される | 詳細 |
1919年(大正8) | 政治家板垣退助の命日 | 詳細 |
1963年(昭和38) | 名神高速道路の栗東IC~尼崎ICが開通する(日本最初の高速道路の開通) | 詳細 |
1994年(平成6) | 三内丸山遺蹟で巨大建物の木柱等が出土、国内最大級の縄文集落跡と報道される | 詳細 |