ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:空海

kuukai01
 今日は、平安時代前期の921年(延喜21)に、醍醐天皇から、真言宗の開祖空海に、弘法大師の諡号が贈られた日ですが、新暦では11月29日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21年10月27日)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年10月27日) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1928年(昭和3)早稲田大学が坪内逍遥を記念して「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」を開館させる詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1975年(昭和50)実業家・国文学者・俳人角川源義の命日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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 今日は、平安時代の前期の806年(大同元)に、空海(弘法大師)が、唐からの帰国の途中、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を講釈したとされる日ですが、新暦では10月7日となります。
 空海(弘法大師)(くうかい)は、平安時代前期の僧・真言宗の開祖です。奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。
 788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。
 阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、長安へ入りました。
 805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。
 809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。
 821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。
 835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。
 尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)(閏)参勤交代を緩和、妻子の帰国を許し3年に1度の出府となり、事実上廃止される(新暦10月15日)詳細
1869年(明治2)彫刻家米原雲海の誕生日(新暦9月27日)詳細
1903年(明治36)東京電車鉄道(電鉄)が、品川~新橋間を開業(東京初の路面電車)する詳細
1904年(明治37)日本と大韓帝国との間で、「第一次日韓協約」が調印される詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が調印される詳細
1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18)詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)詳細
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 今日は、平安時代前期の819年(弘仁10)に、空海(弘法大師)が高野山で真言宗総本山金剛峯寺の開創に着手した日ですが、新暦では5月30日となります。
 金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院です。816年(弘仁7年7月8日)に、空海(弘法大師)が43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て草庵を結び、819年(弘仁10年5月3日)に高野山の伽藍建立に着手しました。
 889年(寛平元)に伽藍がほぼ完成したものの、平安時代中期には、東寺と真言宗本山の地位を争って敗れ,東寺長者の管轄を受けて勢いが衰えます。しかし、平安時代末期には復興し、白河・鳥羽天皇の崇敬厚く、1132年(長承元)に覚鑁(かくばん)が伝法院を建て隆盛に向かいました。
 その後、織田信長に敵対したため迫害をうけましたが、1590年(天正18)には、豊臣秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺を建立します。江戸時代には徳川家が帰依し、1869年(明治2)には、この両寺を併合して金剛峯寺と改称されました。
 現寺地の東半分が旧青巌寺境内、西半分が旧興山寺境内で、主殿は旧青巌寺本殿。興山寺跡には別殿・奥殿・新奥殿の三棟があり、廊下で主殿とつながっています。文化財としては、1198年(建久9)に行勝上人によって建立されたとされる不動堂が、現存最古の建造物で,国宝に指定され、霊宝館および大宝蔵に収蔵されている寺宝にも、1086年(応徳3)作の絹本着色『仏涅槃図』、平安時代末の絹本着色『善女竜王像』、8体のうち6体が運慶作といわれる木造『八大童子立像』、空海請来といわれる木造『諸尊仏龕』、藤原清衡発願の『紺紙金銀字一切経』、空海真筆の『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』など、数多くの国宝が残されてきました。
 また、2004年(平成16)には、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストにも登録されています。

〇空海[弘法大師](くうかい)とは?

 奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

<空海[弘法大師]の主要な著作>

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海[弘法大師]関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月3日) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)戊辰戦争で奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立する(新暦6月22日)詳細
1910年(明治43)青森県青森市で、青森大火が起き、死者26名、負傷者160名、焼失戸数5,200戸以上を出す詳細
1928年(昭和3)山東出兵をめぐり、山東省済南で日本軍と国民政府軍が衝突(済南事件)が起きる詳細
1946年(昭和21)極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する詳細
GHQが「帝国議会議員の公職よりの罷免及び除去に関する覚書」で鳩山一郎の公職追放を指令詳細
1961年(昭和36)民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者柳宗悦の命日詳細
1962年(昭和37)国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出す詳細
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 今日は、平安時代前期の天長5年に、空海(弘法大師)が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設した日ですが、新暦では828年1月23日となります。
 綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、空海(弘法大師)が、藤原三守より施与された左京九条二坊の2町余の敷地(教王護国寺の東隣)に設立した、私立の普通教育機関でした。"綜芸"とは顕教、密教、儒教をいい、"種智"とは菩提心をいい、各種の学芸を教授して、大日如来の仏智を広め表すの意味で、名称の由来となっています。
 当時の大学や国学で学ぶことができない人々のために開いた学問所で、庶民にも門戸が開かれ、仏教だけでなく儒教をも合わせ、内外典を教えました。しかし、空海の死後は後継者がなく、まもなくの835年(承和12年)頃に廃絶しています。
 尚、旧地は弟子実慧(東寺長者)らによって売却され、その代価で丹波国大山荘を購入して、伝法の料所(東寺領)とされました。

〇教王護国寺(東寺)(きょうおうごこくじ)とは?
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 京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山(山号は八幡山)で、東寺とも呼ばれています。平安時代初期の796年(延暦15)に桓武天皇が羅城門の左右に平安京の鎮護のため、東寺、西寺を創建したのに始まるとされ、823年(弘仁14)に嵯峨天皇から空海に勅賜され、50人の僧を置いて真言密教の根本道場となりました。
 鎌倉時代に文覚が寺威の高揚をはかって堂舎を修復、南北朝時代に頼宝、杲宝(こうぼう)、賢宝が出て教学を大成し、寺は内外ともに隆盛となります。しかし、室町時代後半の1486年(文明18)の火災で堂塔など大部分を焼失し、のち豊臣秀吉や徳川家光の助力により、金堂・五重塔などが再建されました。
 何度かの火災により、創建当初の建造物はありませんが、南大門から金堂、講堂、食堂と一直線に並ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいます。現存の建物では、蓮華門(鎌倉時代)、大師堂(室町時代)、金堂(安土桃山時代)、五重塔(江戸時代前期)が国宝となり、講堂(室町時代)、灌頂院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されました。
 寺宝として、講堂の密教諸尊像、その他『兜跋毘沙門天立像』、『不動明王坐像』などの仏像彫刻、『真言七祖像』、『両界曼荼羅図』、『十二天像』、『五大尊像』などの仏画、伝空海将来の密教法具類、『犍陀穀糸袈裟』、『海賦蒔絵袈裟箱』などの工芸品、空海の書『風信帖』など多数の国宝指定の美術工芸品、歴史的資料を収蔵しています。1934年(昭和9)に境内は国指定史跡となり、1994年(平成6)には「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

〇空海(くうかい)とは?
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 平安時代前期の僧・真言宗の開祖です。奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。
 788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。
 阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、長安へ入りました。
 805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。
 809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。
 821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。
 835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。
 尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。 

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の835年(承和2)に、平安時代の僧・真言宗の開祖空海(弘法大師)の亡くなった日ですが、新暦では4月22日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細


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