ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:種痘

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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、種痘による事故被害者の声を受け、厚生省が全国の市町村に種痘の強制定期接種の廃止を通達した日です。
 種痘(しゅとう)ハ、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。

〇「種痘法」(しゅとうほう)とは?

 明治時代後期の1909年(明治42)4月14日に公布、翌年1月1日に施行された、天然痘を予防するために、種痘実施するための法律です。全20条で、定期種痘および臨時種痘の実施、市町村の定期種痘の実施義務、種痘を受けるべき者の保護者の義務、医師の種痘証、痘瘡経過証、違反者に対する罰則などを規定していました。
 天然痘の防止のために、徐々に効果を発揮しましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されています。その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されました。
 以下に、「種痘法」(明治42年法律第35号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「種痘法」(明治42年法律第35号) 1909年(明治42)4月14日公布、翌年1月1日施行

第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ但シ痘瘡ヲ経過シタル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 一 第一期 出生ヨリ翌年六月ニ至ル間但シ不善感ナルトキハ翌年六月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 二 第二期 数ヘ歲十歲但シ不善感ナルトキハ翌年十二月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 定期前二年以內ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看做ス

第二条 保護者ハ未成年者ヲシテ種痘ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ

第三条 左ニ掲クル者ハ未成年ノ生徒、院生若ハ之ニ準スヘキ者又ハ未成年ノ寄寓者ヲシテ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 一 学校、育兒院又ハ之ニ準スヘキ場所ノ校長、院長其ノ他首長
 二 教育、監護又ハ傭使ノ目的ヲ以テ人ヲ寄寓セシムル者
 前項各号ニ掲クル者ノ法定代理人アルトキハ法定代理人ニ前項ノ規定ヲ適用ス

第四条 新ニ保護者ト為リ又ハ新ニ前条ノ関係ヲ生シタルトキハ種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者ヲシテ六月以內ニ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 前項ノ期間內ニ其ノ手続ヲ為シ難キ事由アルトキハ市町村長区長ヲ以テ戶籍吏ニ充ツル市ニ於テハ区長以下之ニ準スニ屆出ツヘシ
 未成年者ヲ傭使スル雇主ニ関シテハ其ノ之ヲ寄寓セシメサル場合ト雖前二項ノ規定ヲ適用ス
 前条第二項ノ規定ハ前三項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第五条 市町村ハ種痘ヲ施行スヘシ

第六条 市町村長ハ種痘定期ニ在ル者ノ種痘期日ヲ指定スヘシ

第七条 疾病其ノ他ノ事故ニ因リテ市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケシムルコト能ハサル場合ニ於テハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ其ノ事由ヲ具シ市町村長ニ猶予ヲ申請スルコトヲ得
 前項ニ依リ種痘ヲ猶予シタルトキハ市町村長ハ其ノ証ヲ交付スヘシ

第八条 市町村長ハ第一期種痘ヲ完了シ又ハ之ヲ要セサルニ至リタル者ヲ戸籍吏ニ通知シ戸籍吏ハ戸籍簿ノ欄外ニ符号ヲ以テ之ヲ記入スヘシ
 前項ノ記入ニ関スル事務ニ付テハ戸籍法第五条ノ規定ヲ準用ス

第九条 市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケス其ノ他種痘ヲ怠リ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者アルトキハ市町村長ハ更ニ期日ヲ指定シテ種痘ヲ受ケシメ又ハ直ニ種痘ヲ行フヘシ

第十条 種痘ヲ怠リタル者又ハ種痘ヲ受ケタル証跡不明ナル者ノ定期外ニ受ケタル種痘ハ第一条第二項ノ場合ヲ除クノ外其ノ定期種痘ト看做ス

第十一条 第五条ノ種痘ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ市町村長ノ指定シタル期日ニ於テ検診ヲ受ケシムヘシ但シ其ノ期日ニ検診ヲ受ケシムルコト能ハサル事由アルトキハ市町村長ニ屆出ツヘシ
 市町村長ハ前項ノ検診ヲ經タル者ニ種痘済証ヲ交付スヘシ
 第一項ノ場合ニ於テ必要アルトキハ痘漿ヲ採收スルコトヲ得

第十二条 医師定期種痘ヲ施シタル者ヲ検診シタルトキハ種痘証ヲ交付スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ種痘証ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ十日以內ニ市町村長ニ屆出ツヘシ

第十三条 医師ハ其ノ診療ニ係ル痘瘡患者全治シタルトキ之ニ痘瘡経過証ヲ交付スヘシ

第十四条 当該吏員ノ請求アルトキハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ種痘済証又ハ種痘証ヲ提示セシムヘシ但シ命令ニ別段ノ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十五条 地方長官ハ痘瘡予防上必要ト認ムルトキハ種痘ヲ受クヘキ者ノ範囲及期日ヲ指定シテ臨時種痘ヲ命スルコトヲ得
 臨時種痘ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用スルコトヲ得

第十六条 医師虚偽ノ種痘証ヲ交付シ又ハ検診セスシテ種痘証ヲ交付シタルトキハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第十七条 左ニ掲クル者ハ科料ニ処ス
 一 第四条又ハ第十一条第一項ニ違反シタル者
 二 保護者又ハ第三条ノ義務者ニシテ市町村長ノ指定シタル期日迄ニ種痘ヲ受ケシメサル者

第十八条 第十二条又ハ第十四条ニ違反シタル者ハ十円以下ノ科料ニ処ス

第十九条 官庁公署及官立公立ノ学校等ニ於テハ第三条第一項及第四条第一項乃至第三項ノ規定ニ準シ其ノ措置ヲ為スヘシ

第二十条 本法ニ於テ保護者ト称スルハ未成年者ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人、親権ヲ行フ者又ハ後見人ナキトキハ戸主、戸主未成年者又ハ禁治產者ナルトキハ戸主ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人ヲ謂フ
 本法中市町村又ハ市町村長トアルハ市制町村制ヲ施行セサル地ニ於テハ之ニ準スヘキモノニ該当ス

附 則

 本法ハ明治四十三年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
 種痘規則ハ之ヲ廃止ス
 本法施行前数ヘ歲七歲以前ニ種痘ヲ受ケタル者又ハ種痘ヲ受ケタルモ其ノ時期不明ナル者ハ本法ニ依ル第一期ノ種痘、数ヘ歲八歲以後ニ種痘ヲ受ケタル者ハ第二期ノ種痘ヲ受ケタル者ト看做ス
 本法施行前第一条第一項ノ種痘定期ヲ経過シタル未成年者ニ付テハ第四条ノ規定ハ生来種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル者ニ関シテ之ヲ適用ス

           「官報」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手する(新暦11月3日)詳細
1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細
1931年(昭和6)柳条湖事件が起き、満州事変が始まる詳細
1997年(平成9)ノルウェーの首都オスロにおける、オスロ国際会議で、「対人地雷禁止条約」が発議される詳細
2004年(平成16)ガラス工芸家で日本のガラス工芸の第一人者だった藤田喬平の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1849年(嘉永2)に、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗を用いて、蘭方医・楢林宗建らが長崎出島で種痘を実施して成功した日ですが、新暦では9月5日となります。
 種痘(しゅとう)は、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。

〇種痘関係略年表

・1789年(寛政元) 長崎で医術を学んだ秋月藩医の緒方春朔が大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法で接種して成功させる
・1796年(寛政8) 英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証する
・1807年(文化4) 幕府直轄領であった蝦夷地でアイヌの間に大規模な流行があり、アイヌ総人口の4割強が死亡したとされる
・1813年(文化10) ロシアから帰国した安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、種痘苗をガラスの器に入れて持ち帰る
・1823年(文政6) 長崎出島にやって来たオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後にオランダ領東インド(現在のインドネシア)のバタヴィアから持参した牛痘苗を用いて種痘を行ったが、成功せず
・1824年(文政7) 中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となる
・1826年(文政9) シーボルトの江戸参府の際には、再度輸入した痘苗を用いて種痘術を実演し、種痘の知識や具体的な手順を伝えたが、痘苗が活着しなかった
・1831年(天保2) 柴田方庵が長崎で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門人たちやオランダ軍医オットー・モーニッケに最新の西洋医学を学び、各地に広める
・1838年~42年(天保9~13) 紀伊国(和歌山県)熊野地方で天然痘が猛威を振るう
・1846年(弘化3) 佐賀藩医の牧春堂が『引痘新法全書』で牛痘の効果を説く
・1847年(弘化4) 小山肆成が、牛痘法の書『引痘略』を、さらに『引痘新法全書』を著す
・1849年(嘉永2) バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功する
・1850年(嘉永3) 伊豆国韮山代官であった江川英龍は、伊東玄朴に依頼して息子江川英敏と娘卓子に種痘を施させる
・1851年(嘉永4) 福井藩は、70名を超える藩医・町医を組織した「除痘館」を開設する
・1858年(安政5) 緒方洪庵の天然痘予防の活動に対し、大坂町奉行の戸田氏栄を通して幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされ、「お玉が池種痘所」が設立される
・1870年(明治3) 明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令する
・1874年(明治7) 定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達する
・1876年(明治9) 「天然痘予防規則」が制定される
・1884年(明治18) 東京神田の医師角倉賀道は私費を投じて日本最大級の牧場を開設、天然痘ワクチンの増産に務める
・1909年(明治42) 「種痘法」(明治42年法律35号)が公布(翌年1月1日施行)される
・1948年(昭和23) 「予防接種法」が制定され、計3回の定期接種が義務付けられる
・1980年(昭和55) 天然痘の撲滅が確認される
・1976年(昭和51) 種痘の定期予防接種が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1107年(嘉承2)第73代の天皇とされる堀河天皇の命日(新暦8月9日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催される詳細
1944年(昭和19)文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員が強化される詳細
1949年(昭和24)今井正監督の映画『青い山脈』(原作:石坂洋次郎)が封切られる詳細
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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令した日ですが、新暦では5月24日となります。
 種痘(しゅとう)は、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。
 以下に、「種痘法」(明治42年法律第35号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇日本の種痘関係略年表

・1824年(文政7) 中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種として日本最初となる
・1849年(嘉永2) バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功する
・1870年(明治3) 明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令する
・1874年(明治7) 定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達する、
・1876年(明治9) 「天然痘予防規則」が制定される
・1884年(明治18) 東京神田の医師角倉賀道は私費を投じて日本最大級の牧場を開設、天然痘ワクチンの増産に務める
・1909年(明治42)4月14日 「種痘法」が公布され、初めて種痘が法律によって実施されるようになる
・1949年(昭和24)1月1日 「種痘法」が施行される
・1948年(昭和23) 「予防接種法」が公布され、計3回の定期接種が義務付けられる
・1956年(昭和31) これ以降は、天然痘の発症例が無くなる
・1970年(昭和45) 国が定期接種として行っている種痘による事故に対して国の責任を求める動き、いわゆる種痘禍がおこる
・1976年(昭和51) 「予防接種法」改正と同時に、国内の接種は実際上中止される
・1980年(昭和55)8月 定期接種の種痘が法律から削除され、法的にも完全に廃止される

☆「種痘法」(明治42年法律第35号) 1909年(明治42)4月14日公布、翌年1月1日施行

第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ但シ痘瘡ヲ経過シタル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 一 第一期 出生ヨリ翌年六月ニ至ル間但シ不善感ナルトキハ翌年六月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 二 第二期 数ヘ歲十歲但シ不善感ナルトキハ翌年十二月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 定期前二年以內ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看做ス

第二条 保護者ハ未成年者ヲシテ種痘ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ

第三条 左ニ掲クル者ハ未成年ノ生徒、院生若ハ之ニ準スヘキ者又ハ未成年ノ寄寓者ヲシテ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 一 学校、育兒院又ハ之ニ準スヘキ場所ノ校長、院長其ノ他首長
 二 教育、監護又ハ傭使ノ目的ヲ以テ人ヲ寄寓セシムル者
 前項各号ニ掲クル者ノ法定代理人アルトキハ法定代理人ニ前項ノ規定ヲ適用ス

第四条 新ニ保護者ト為リ又ハ新ニ前条ノ関係ヲ生シタルトキハ種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者ヲシテ六月以內ニ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 前項ノ期間內ニ其ノ手続ヲ為シ難キ事由アルトキハ市町村長区長ヲ以テ戶籍吏ニ充ツル市ニ於テハ区長以下之ニ準スニ屆出ツヘシ
 未成年者ヲ傭使スル雇主ニ関シテハ其ノ之ヲ寄寓セシメサル場合ト雖前二項ノ規定ヲ適用ス
 前条第二項ノ規定ハ前三項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第五条 市町村ハ種痘ヲ施行スヘシ

第六条 市町村長ハ種痘定期ニ在ル者ノ種痘期日ヲ指定スヘシ

第七条 疾病其ノ他ノ事故ニ因リテ市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケシムルコト能ハサル場合ニ於テハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ其ノ事由ヲ具シ市町村長ニ猶予ヲ申請スルコトヲ得
 前項ニ依リ種痘ヲ猶予シタルトキハ市町村長ハ其ノ証ヲ交付スヘシ

第八条 市町村長ハ第一期種痘ヲ完了シ又ハ之ヲ要セサルニ至リタル者ヲ戸籍吏ニ通知シ戸籍吏ハ戸籍簿ノ欄外ニ符号ヲ以テ之ヲ記入スヘシ
 前項ノ記入ニ関スル事務ニ付テハ戸籍法第五条ノ規定ヲ準用ス

第九条 市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケス其ノ他種痘ヲ怠リ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者アルトキハ市町村長ハ更ニ期日ヲ指定シテ種痘ヲ受ケシメ又ハ直ニ種痘ヲ行フヘシ

第十条 種痘ヲ怠リタル者又ハ種痘ヲ受ケタル証跡不明ナル者ノ定期外ニ受ケタル種痘ハ第一条第二項ノ場合ヲ除クノ外其ノ定期種痘ト看做ス

第十一条 第五条ノ種痘ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ市町村長ノ指定シタル期日ニ於テ検診ヲ受ケシムヘシ但シ其ノ期日ニ検診ヲ受ケシムルコト能ハサル事由アルトキハ市町村長ニ屆出ツヘシ
 市町村長ハ前項ノ検診ヲ經タル者ニ種痘済証ヲ交付スヘシ
 第一項ノ場合ニ於テ必要アルトキハ痘漿ヲ採收スルコトヲ得

第十二条 医師定期種痘ヲ施シタル者ヲ検診シタルトキハ種痘証ヲ交付スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ種痘証ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ十日以內ニ市町村長ニ屆出ツヘシ

第十三条 医師ハ其ノ診療ニ係ル痘瘡患者全治シタルトキ之ニ痘瘡経過証ヲ交付スヘシ

第十四条 当該吏員ノ請求アルトキハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ種痘済証又ハ種痘証ヲ提示セシムヘシ但シ命令ニ別段ノ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十五条 地方長官ハ痘瘡予防上必要ト認ムルトキハ種痘ヲ受クヘキ者ノ範囲及期日ヲ指定シテ臨時種痘ヲ命スルコトヲ得
 臨時種痘ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用スルコトヲ得

第十六条 医師虚偽ノ種痘証ヲ交付シ又ハ検診セスシテ種痘証ヲ交付シタルトキハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第十七条 左ニ掲クル者ハ科料ニ処ス
 一 第四条又ハ第十一条第一項ニ違反シタル者
 二 保護者又ハ第三条ノ義務者ニシテ市町村長ノ指定シタル期日迄ニ種痘ヲ受ケシメサル者

第十八条 第十二条又ハ第十四条ニ違反シタル者ハ十円以下ノ科料ニ処ス

第十九条 官庁公署及官立公立ノ学校等ニ於テハ第三条第一項及第四条第一項乃至第三項ノ規定ニ準シ其ノ措置ヲ為スヘシ

第二十条 本法ニ於テ保護者ト称スルハ未成年者ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人、親権ヲ行フ者又ハ後見人ナキトキハ戸主、戸主未成年者又ハ禁治產者ナルトキハ戸主ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人ヲ謂フ
 本法中市町村又ハ市町村長トアルハ市制町村制ヲ施行セサル地ニ於テハ之ニ準スヘキモノニ該当ス

附 則

 本法ハ明治四十三年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
 種痘規則ハ之ヲ廃止ス
 本法施行前数ヘ歲七歲以前ニ種痘ヲ受ケタル者又ハ種痘ヲ受ケタルモ其ノ時期不明ナル者ハ本法ニ依ル第一期ノ種痘、数ヘ歲八歲以後ニ種痘ヲ受ケタル者ハ第二期ノ種痘ヲ受ケタル者ト看做ス
 本法施行前第一条第一項ノ種痘定期ヲ経過シタル未成年者ニ付テハ第四条ノ規定ハ生来種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル者ニ関シテ之ヲ適用ス

           「官報」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す詳細
1908年(明治41)農学者・教育家津田仙の命日詳細
1921年(大正10)日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する詳細
1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される詳細
1940年(昭和15)価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細
1955年(昭和30)第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1849年(嘉永2)に、大坂に緒方洪庵が種痘を行う為の除痘館(種痘所)を開設した日ですが、新暦では12月21日となります。
 種痘所(しゅとうしょ)は、江戸時代後期において、天然痘の予防及び治療を目的に設立された医療機関でした。1849年(嘉永2年7月20日)に、長崎出島のオランダ商館医師オットー・モーニッケによって長崎に種痘所が開設されたのに始まります。
 同年8月に、長崎から佐賀藩領へ痘苗がもたらされ、佐賀藩では種痘事業を担当する引痘方が設けられ、同年9月に長崎の唐通詞頴川四郎八により痘苗が京都へ送られ、同年10月には、佐賀藩から江戸の佐賀藩邸にも送られ、痘苗が関西や関東へももたらされました。これにより、1849年(嘉永2年10月16日)に日野鼎哉により、京都に「除痘館」が開設され、同年11月7日に、緒方洪庵が京都へ赴き交渉の末に痘苗を入手し、日野、笠原良策、緒方らにより、大阪にも「除痘館」が作られます。さらに、1851年(嘉永4年10月)には、福井藩において、70名を超える藩医・町医・スタッフを組織した「除痘館」が開設されました。
 一方江戸では、1849年(嘉永2年3月15日)に、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れます。1857年(安政4年8月)に、大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、ようやく、翌年1月に老中堀田正睦から種痘所の許可が下りました。そして、同年5月7日に、江戸市中の蘭医82名の醸金により、神田御玉ケ池に種痘所(お玉ヶ池種痘所)が設立されています。

〇緒方洪庵(おがた こうあん)とは?

 江戸時代後期に活躍した武士・医師・蘭学者です。1810年(文化7年7月14日)に、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。

〇お玉ヶ池種痘所(おたまがいけしゅとうじょ)とは?

 伊東玄朴ら蘭方医83名の資金拠出により、神田お玉ヶ池松枝町の勘定奉行川路聖謨が拝領地において、江戸幕府の使用許可を得て設立された、「種痘」を組織的に実施するための施設です。1857年(安政4年8月)に、大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、また種痘所の計画用地として川路の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとしました。
 翌年1月に老中堀田正睦から許可が下り、伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日に私的に開設されます。しかし、同年11月15日に、神田相生町からの出火により類焼してしまい、 伊東玄朴の家などで業務を継続することとなりました。
 1859年(安政6年9月)に種痘所を下谷和泉橋通りに新築移転、1860年(万延元年10月)には、幕府直轄の種痘所となり、翌年には、西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となります。その後、1869年(明治2)に大学東校、1872年(明治5年8月)に学制が布がれると第一大学区医学校、1874年(明治7年)には、東京医学校と改称され、発展していきました。
 1876年(明治9)に本郷に移転、1877年(明治10)には、東京開成学校と合併し東京大学となり、その医学部となって、現在に至っています。尚、お玉ヶ池種痘所跡地には、1961年(昭和36)に「お玉ヶ池種痘所記念碑」が建てられました。

☆種痘所関係略年表

・1849年(嘉永2年7月20日) 長崎出島のオランダ商館医師オットー・モーニッケによって長崎に種痘所が開設される
・1849年(嘉永2年8月) 長崎から佐賀藩領へ痘苗がもたらされ、佐賀藩では種痘事業を担当する引痘方が設けられる
・1849年(嘉永2年9月) 長崎の唐通詞頴川四郎八により痘苗が京都へ送られる
・1849年(嘉永2年10月) 佐賀藩から江戸の佐賀藩邸に痘苗が送られる
・1849年(嘉永2年10月16日) 日野鼎哉により、京都に「除痘館」が開設され、種痘が開始される
・1849年(嘉永2年11月7日) 緒方洪庵が京都へ赴き交渉の末に痘苗を入手し、日野、笠原良策、緒方らにより、大阪にも「除痘館」が作られる
・1851年(嘉永4年10月) 福井藩は70名を超える藩医・町医・スタッフを組織した「除痘館」を開設する
・1857年(安政4年8月) 大槻俊斎の家に伊東玄朴や戸塚静海ら蘭方医10人および斎藤源蔵が集まり、江戸幕府内の開明派であった川路聖謨を通して幕閣に働きかける
・1858年(安政5年1月) 老中堀田正睦から種痘所の許可が下りる
・1858年(安政5年5月7日) 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立される
・1858年(安政5年7月3日) 「蘭方医解禁令」が出される
・1858年(安政5年11月15日) お玉ケ池種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続する
・1859年(安政6年9月) お玉ケ池種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転する
・1860年(万延元年10月) 幕府直轄の種痘所となる
・1861年(文久元年10月) 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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