ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:称徳天皇

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 今日は、奈良時代の764年(天平宝字8)に、孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚した日ですが、新暦では10月10日となります。
 藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)が、道鏡を除こうとしておこした反乱で、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれてきました。760年(天平宝字4)に藤原仲麻呂を庇護してきた光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が亡くなると、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂が擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)との関係が険悪化します。
 762年(天平宝字6)には、太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至りました。764年(天平宝字8)に、太上天皇と天皇の間にもすきが生まれたのを契機として、仲麻呂は太上天皇側に対して反乱を企てようと考え、9月に都督使に任じられた機に、正規の30倍もの兵士を動員しようとします。
 これを高丘比良麻呂 (たかおかのひらまろ) に密告され、同月11日に天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印を太上天皇側に奪われ、仲麻呂は近江へ逃走しました。しかし、太上天皇側の派遣した討伐軍に近江高島郡に追いつめられて敗れ、同月18日に斬殺されて乱は鎮圧されます。
 乱後は、道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し、淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され、孝謙太上天皇が称徳天皇(しょうとくてんのう)として重祚します。
 以下に、このことを記した『続日本紀』巻第二十五の天平宝字8年9月の条を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第二十五の天平宝字八年九月の条

乙巳。太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王。收中宮院鈴印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。將曹牡鹿嶋足等。射而殺之。押勝又遣中衛將監矢田部老。被甲騎馬。且刧詔使。授刀紀船守亦射殺之。勅曰。太師正一位藤原惠美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。并除藤原姓字已畢。其職分功封等雜物。宜悉收之。即遣使固守三關。」授從三位藤原朝臣永手正三位。正四位下吉備朝臣眞備從三位。正五位下藤原朝臣繩麻呂從四位下。正七位上大津連大浦從四位上。從七位上牡鹿連嶋足。正六位上坂上忌寸苅田麻呂。外從五位下粟田朝臣道麻呂。從六位下中臣伊勢連老人。從八位上弓削宿祢淨人。外從五位下高丘連比良麻呂。正五位上日下部宿祢子麻呂並從四位下。從七位下紀朝臣船守從五位下。正七位上民忌寸総麻呂外從五位下。」弓削宿祢淨人賜姓弓削御淨朝臣。中臣伊勢連老人中臣伊勢朝臣。大津連大浦大津宿祢。牡鹿連嶋足牡鹿宿祢。坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸。是夜。押勝走近江。官軍追討。

<読み下し文>

乙巳[1]。太師藤原の惠美の朝臣押勝[2]逆謀[3]頗る泄る。高野の天皇[4]少納言山村の王[5]を遣して、中宮院[6]の鈴印[7]を收めしむ。押勝之を聞て、其の男訓儒麻呂[8]等をして邀へて之を奪は令む。天皇授刀[9]の少尉坂上の苅田麻呂、將曹[10]の牡鹿の嶋足等を遣して、射て之を殺さしむ。押勝又中衛[11]の將監矢田部の老を遣して、甲を被馬に騎て、且ち詔使[12]を刧かす、授刀[9]紀の船守をして亦之を射殺さしむ。勅して曰く。「太師正一位藤原の惠美の朝臣押勝并に子孫、兵を起して逆を作す。仍て官位を解免[13]し、并に藤原姓の字を除くことを已に畢しぬ。其の職分[14]功封[15]等雜物[16]。宜く悉く之を收むべし。」即ち使を遣して固く三關[17]を守らしむ。從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授く。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣と賜ふ。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸。」是夜。押勝近江に走る。官軍追討[18]す。

【注釈】

[1]乙巳:おっし=十干と十二支とを組み合わせたものの第四二番目。ここでは、9月11日のこと。
[2]太師藤原の惠美の朝臣押勝:たいしふじわらのえみのあそんおしかつ=太政大臣藤原仲麻呂のこと。
[3]逆謀:ぎゃくぼう=謀反のはかりごと。反逆のたくらみ。謀逆。
[4]高野の天皇:たかぬのすめらみこと=孝謙天皇(称徳天皇)のこと。
[5]少納言山村の王:しょうなごんやまむらのおう=奈良時代の皇族で用明天皇の皇子であった山村王のこと。
[6]中宮院:ちゅうぐういん=禁中。内裏。御所。
[7]鈴印:れんいん=天皇権力の象徴である駅鈴と御璽。
[8]訓儒麻呂:くずまろ=藤原仲麻呂の息子、藤原久須麻呂のこと。
[9]授刀:たちはき=太刀を帯びること。また、その人。帯刀の舎人(とねり)の略。
[10]將曹:しょうそう=近衛府(このえふ)の主典(さかん)。正七位下相当。
[11]中衛:ちゅうえい=中衛府の兵士。〔
[12]詔使:しょうし=詔書を諸国、諸司に伝達するために派遣された使者。ここでは山村王のこと。
[13]解免:げめん=解官と免官の総称。
[14]職分:しきぶん=官職に対して給される田地、職分田のこと。
[15]功封:こうふ=親王の一品以下、臣下の五位以上の国家に功労のあった者に与えられた封戸。
[16]雜物:ぞうもつ=種々雑多なもの。また、いろいろな財物。雑具。
[17]三關:さんかん=古代の三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)。
[18]追討:ついとう=賊などを追いかけてうちとること。討手(うって)をさしむけて征伐すること。追伐。

<現代語訳>

 9月11日。太政大臣藤原仲麻呂の反逆のたくらみがたいそう漏洩した。孝謙上皇(称徳天皇)は少納言山村王を派遣して、淳仁天皇の御所の天皇権力の象徴である駅鈴と御璽を回収させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれを聞いて、その息子藤原久須麻呂等をして待ち伏せさせてこれを奪わせた。天皇は授刀の少尉坂上の苅田麻呂、將曹の牡鹿の嶋足等を派遣して、これを射殺させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はまた中衛の將監矢田部の老を派遣、甲冑を着け馬に乗って、すなわち派遣された使者(山村王)を脅かす。授刀紀の船守はまたこれを射殺した。
 勅して言うことには、「太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)ならびにその子や孫は、兵を起して反逆を成した。よって官位を剥奪し、ならびに藤原姓の字を除くことをすでに処置した。その職分田や封戸等からのいろいろな財物をことごとくこれを収公すること。」。
 ただちに使者を派遣して、固く三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)を守らせた。
 從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授けた。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣を賜った。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸を賜った。
 この夜、藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江に逃走し、官軍が追討する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、奈良時代の770年(宝亀元)に、皇太子の白壁王によって、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷された日ですが、新暦では9月14日となります。
 道鏡(どうきょう)は、 奈良時代の法相宗の僧です。700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、皇太子の白壁王によって、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。以下に、造下野薬師寺別当への左遷の事を記した『続日本紀』巻三十の宝亀元年8月21日の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇宇佐八幡宮神託事件とは?

 奈良時代の769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上した事件です。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(和気広虫)を派遣せよと求められ、代わりにその弟の和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申しました。このことにより、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて、大隅に流刑とされます。しかし、天皇も道鏡を皇位につけるのを断念し、770年(神護景雲4年8月4日)に天皇が亡くなると状況が一変しました。同年に道鏡は、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られることになります。

〇『続日本紀』巻第三十の宝亀元年八月の条

<原文>
庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。竊挾舐粳之心。爲日久矣。陵土未乾。姦謀發覺。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野國藥師寺別當發遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人。彈正尹從四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。以從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲多褹嶋守。

<読み下し文>
庚戌[1]。皇太子[2]令旨[3]すらく。聞く如く。道鏡[4]法師、竊に舐粳の心[5]を挾んで、日爲たること久し。陵土[6]未だ乾かず、謀發覺しぬ。是れ則神祇[7]の護る所、社稷[8]の祐くる攸なり。今先聖厚[9]恩を顧みて、法に依り刑に入ることを得ず。故に造下野の國藥師寺の別當[10]に任じて發遣[11]す。之を知る宜く。即日、左大弁正四位下佐伯の宿祢今毛、彈正尹從四位下藤原臣楓呂人を遣して役して上道[12]せ令む。從五位下中臣の習宜の朝臣阿曾麻呂[13]を以て、多褹嶋[14]の守と爲す。

【注釈】

[1]庚戌:こうじゅつ=十干と十二支とを組み合わせたものの第四七番目。かのえいぬ。ここでは、8月21日のこと。
[2]皇太子:こうたいし=称徳天皇の皇太子(白壁王・光仁天皇)のこと。
[3]令旨:りょうじ=皇太子、皇后、皇太后、太皇太后の命令を伝えるため発行された文書。
[4]道鏡:どうきょう=法相宗の僧で称徳天皇の寵愛を受け、法王となって権勢をふるった。
[5]舐粳の心:しこうのこころ=ここでは皇位を得ようという心。
[6]陵土:りょうど=陵墓の土。称徳天皇の陵墓を指す。
[7]神祇:じんぎ=天神と地祇。天つ神と国つ神。天地の神々。
[8]社稷:しゃしょく=国家の守り神とした土地の神と五穀の神。
[9]先聖:せんせい=先代の聖人。ここでは称徳天皇のこと。
[10]別當:べっとう=本務のある者が別の職務を担当すること。転じて,専任の長官。
[11]發遣:はっけん=送りつかわすこと。さしむけること。派遣。差遣。
[12]上道:じょうどう=旅行に出発すること。旅すること。
[13]阿曾麻呂:あそまろ=大宰主神のとき「道鏡が皇位につけば天下太平となる」との神託をのべ、後に多褹嶋守に左遷された。
[14]多褹嶋:たねがしま=現在の鹿児島県にある種子島のこと。

<現代語訳>
21日。皇太子(白壁王)は令旨を下した。聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を得ようという心を抱いて、永く日を経てきたという。山陵の土がまだ乾かない内に、はかりごとは発覚した。これはすなわち天の神と地の神の護るところで、 国家の守り神とした土地の神と五穀の神のご加護があったためである。今、先聖(称徳天皇)の厚い恩を顧みるならば、法に従って刑を与えるのは忍びない。よって、造下野の国藥師寺の別当に任じて、派遣することとする。この処置を了解せよ。即日に、左大弁正四位下佐伯の宿祢今毛と彈正尹從四位下藤原臣楓呂人を遣して、同道させることとする。從五位下中臣の習宜の朝臣阿曾麻呂は、種子島の守とする。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1264年(文永元)鎌倉幕府第6代執権北条長時の命日(新暦9月12日)詳細
1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細


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kakonkinshirei01

 今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、墾田永年私財法の停止(加墾禁止令)が出された日ですが、新暦では3月30日となります。
 「加墾禁止令(かこんきんしれい)」は、称徳天皇の寵愛をうけた僧の道鏡が政治の実権を握る中で、寺領を除く王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧するため、「墾田永年私財法」を停止する旨の太政官符の発布で、「墾田禁止令」とも呼ばれました。743年(天平15)の聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて、一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた「墾田永年私財法」が出されましたが、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態となったとして、寺院の定められた土地や当地の人々の一~二町の開墾を除いて、王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧したものです。
 しかし、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、772年(宝亀3年10月14日)に墾田私有を許可(百姓を苦しませない限り)すると言う旨の太政官符が発布されました。これは、藤原氏ら富豪や大寺院などの圧力によるものと考えられています。
 以下に、このことを記述した『続日本紀』巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「続日本紀」巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条

<原文>

丙申。勅。今聞。墾田縁天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦宜許之。

<読み下し文>

丙申[1]。勅すらく、「今聞く、墾田[2]は天平十六年格[3]に縁る。今より以後は、任に私財と爲し、三世一身[4]を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。」と。是に由りて、天下の諸人競ひて墾田[2]を爲し、勢力の家は百姓を駈役し、貧窮の百姓は自存するに暇無し[5]。今より以後は、一切禁斷[6]して加墾[7]せしむること勿れ。但し寺は、先來の定地開墾の次[8]は禁ずる限に在らず。又、當土の百姓[9]、一二町はまた宜しくこれを許すべし。

【注釈】

[1]丙申:へいしん=ここでは、(天平神護元年三月)五日のこと。
[2]墾田:こんでん=新たに開墾した田。
[3]天平十六年格:てんぴょうじゅうろくねんきゃく=墾田永年私財法のこと。
[4]三世一身:さんぜいっしん=本人・子・孫の代まで受け継ぐこと。
[5]自存するに暇無し:じぞんするにいとまなし=生計を立てる余裕がない。
[6]禁斷:きんだん=ある行為をしてはいけないと厳重に禁止すること。さしとめること。禁制。禁止。
[7]加墾:かこん=開墾を行うこと。
[8]先來の定地開墾の次:せんらいのていちかいこんのついで=かつて定められた土地を開墾すること。
[9]當土の百姓:とうどのひゃくしょう=その土地の人々。

<現代語訳>

(天平神護元年三月)五日、(称徳天皇は)勅した。「今聞くところでは、新たに開墾した田は、墾田永年私財法によって、任意に開墾者の私有財産と為し、本人・子・孫の代まで受け継ぐ(三世一身法)という制限なく、すべて永久に収公されないことになった。」と、これによって、天下の人々は競い合って新たに開田するようになり、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態である。今後は、一切禁止するので開墾を行ってはならない。ただし、寺はかつて定められた土地を開墾することについてはこの限りではない。また、その土地の人々が一~二町を開墾するのはこれを許可する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1926年(大正15)労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
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 今日は、奈良時代の769年(神護景雲3)に、宇佐八幡宮神託事件が起きた日ですが、新暦では10月28日となります。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上した事件です。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(和気広虫)を派遣せよと求められ、代わりにその弟の和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申しました。
 このことにより、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて、大隅に流刑とされます。しかし、天皇も道鏡を皇位につけるのを断念し、770年(神護景雲4年8月4日)に天皇が亡くなると状況が一変しました。
 同年に道鏡は、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られることになります。
 以下に、『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条の宇佐八幡宮神託事件の部分を現代語訳・注釈付きで全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇道鏡とは?

 奈良時代の法相宗の僧です。700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。
 若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。

〇和気清麻呂とは?

 奈良時代から平安時代初期に活躍した貴族で、公卿・和気氏の祖です。733年(天平5)に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)で、備前の豪族だった磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子として生まれましたが、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言いました。
 孝謙天皇の頃上京し、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得たとされます。764年(天平宝字8)に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し、765年(天平神護元)正月にその功労により、勲六等の叙勲を受けました。
 同年3月には、藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓し、翌年従五位下、次いで近衛将監に遷任され、特に封50戸を与えられます。769年(神護景雲3)に、称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき(宇佐八幡宮神託事件)に、広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され、「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏して道鏡の野心を退けました。
 そのため、道鏡の怒りを買って、名を別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と変えられ、大隅国(現在の鹿児島県)に配流されます。770年(宝亀元)に称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元)には従四位下となりました。
 その後、桓武天皇の下で、784年(延暦3)に長岡造京の功により従四位上、796年(延暦15)には平安京造営の功により、従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇ります。一方、吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』も奏上していました。
 しかし、799年(延暦18年2月21日)に、京都において数え年67歳で亡くなっています。死後、即日正三位を贈られ、遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてられました。

〇孝謙天皇(称徳天皇)とは?

 第46代・48代とされる天皇です。奈良時代の718年(養老2)に、聖武天皇の第2皇女(母は光明皇后)として生まれましたが、名は阿倍(あべ)と言いました。
 738年(天平10)に立太子し、史上唯一の女性皇太子となり、744年(天平17)に安積親王が没すると、聖武天皇の皇子がいなくなります。749年(天平勝宝元)に、父・聖武天皇の譲位により即位しましたが、母・光明皇后に後見され、皇太后のために新たに紫微中台が設置されました。
 752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を行いましたが、756年(天平勝宝8)に父・聖武上皇が亡くなり、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔が残されます。ところが、翌年に皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としました。
 同年に橘奈良麻呂や大伴古麻呂らが、新帝擁立のクーデターを計画して粛清される(橘奈良麻呂の乱)事件も起きています。758年(天平宝字2)に病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、760年(天平宝字4)には、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命されました。
 760年(天平宝字4)に、母・光明皇太后が亡くなると、淳仁天皇らと共に小治田宮に移り、翌年には保良宮に移ります。この頃、病気を患った際、傍に道鏡が侍して看病してから寵愛するようになり、淳仁天皇と対立、762年(天平宝字6)に淳仁天皇は平城宮に戻りましたたが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定めました。
 764年(天平宝字8)に、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅し、同年に五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言します。翌年には、「墾田永年私財法」の停止を勅して、貴族の墾田はいっさい禁じましたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じたものの、和気王の謀叛事件が起きました。
 766年(天平神護2)に、道鏡を法王に任じましたが、769年(神護景雲3)には、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とします。同年に、豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上(宇佐八幡宮神託事件)、和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されましたが、清麻呂を大隅国への流罪としました。
 しかし、道鏡を皇嗣とすることには失敗し、769年(神護景雲3)に道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸したものの、翌年そこで発病し、8月4日には奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)が後継となります。

☆宇佐八幡宮神託事件 (全文) 『続日本紀』巻第三十の769年(神護景雲3年9月25日)の条

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

   『続日本紀』巻第三十より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
(上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。銅元年春正月乙巳。
 
【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
(上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細


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koukentennou01

 今日は、奈良時代の770年(神護景雲4)に、第46代・48代の天皇とされる孝謙天皇(称徳天皇)が亡くなった日ですが、新暦では8月28日となります。
 孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう)は、718年(養老2)に聖武天皇の第2皇女(母は光明皇后)として生まれましたが、名は阿倍(あべ)と言いました。738年(天平10)に立太子し、史上唯一の女性皇太子となり、744年(天平17)に安積親王が没すると、聖武天皇の皇子がいなくなります。
 749年(天平勝宝元)に、父・聖武天皇の譲位により即位しましたが、母・光明皇后に後見され、皇太后のために新たに紫微中台が設置されました。752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を行いましたが、756年(天平勝宝8)に父・聖武上皇が亡くなり、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔が残されます。
 ところが、翌年に皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子としました。同年に橘奈良麻呂や大伴古麻呂らが、新帝擁立のクーデターを計画して粛清される(橘奈良麻呂の乱)事件も起きています。
 758年(天平宝字2)に病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となり、760年(天平宝字4)には、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命されました。760年(天平宝字4)に、母・光明皇太后が亡くなると、淳仁天皇らと共に小治田宮に移り、翌年には保良宮に移ります。
 この頃、病気を患った際、傍に道鏡が侍して看病してからと寵愛するようになり、淳仁天皇と対立、762年(天平宝字6)に淳仁天皇は平城宮に戻りましたたが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定めました。764年(天平宝字8)に、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅し、同年に五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言します。
 翌年には、「墾田永年私財法」の停止を勅して、貴族の墾田はいっさい禁じましたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じたものの、和気王の謀叛事件が起きました。766年(天平神護2)に、道鏡を法王に任じたものの、769年(神護景雲3)には、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とします。
 同年に、豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上(宇佐八幡宮神託事件)、和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されましたが、清麻呂を大隅国への流罪としました。しかし、道鏡を皇嗣とすることには失敗し、769年(神護景雲3)に道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸したものの、翌年そこで発病し、8月4日には奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)が後継となります。

☆孝謙天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・718年(養老2年) 聖武天皇の第二皇女(母は光明皇后)として生まれる
・738年(天平10年1月13日) 立太子し、史上唯一の女性皇太子となる
・744年(天平17年) 安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなる
・749年(天平勝宝元年) 父・聖武天皇の譲位により即位する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会を行う
・756年(天平勝宝8年5月2日) 父・聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残す
・757年(天平勝宝9年3月) 皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とする
・757年(天平勝宝9年5月) 橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、新帝擁立のクーデターを計画したが粛清される(橘奈良麻呂の乱)
・758年(天平宝字2年8月1日) 病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる
・759年(天平宝字3年) 光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案する
・760年(天平宝字4年1月4日) 藤原仲麻呂が太師(太政大臣)に任命される
・760年(天平宝字4年7月16日) 光明皇太后が亡くなる
・760年(天平宝字4年8月) 孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移る
・761年(天平宝字5年) 孝謙上皇・淳仁天皇らは保良宮に移る
・761年(天平宝字5年6月3日) 五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言する
・761年(天平宝字5年) 近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に道鏡が侍して看病する
・762年(天平宝字6年5月23日) 淳仁天皇は平城宮に戻ったが、自身は平城京に入らず法華寺に住居を定める
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂を誅する
・764年(天平宝字8年10月9日) 淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とし、事実上の皇位に復帰(称徳天皇)する
・765年(天平神護元年3月5日) 「墾田永年私財法」の停止を勅し、貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許す
・765年(天平神護元年閏10月) 弓削寺行幸の際、道鏡を太政大臣禅師に任じる
・765年(天平神護元年) 和気王の謀叛事件が起きる
・766年(天平神護2年10月) 海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王に任じる
・767年(神護景雲元年) 阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど貴族を抑圧する
・769年(神護景雲3年5月) 異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑とする
・769年(神護景雲3年5月) 豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」との神託を奏上する(宇佐八幡宮神託事件)
・769年(神護景雲3年8月) 和気清麻呂を天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮させ、神託が虚偽であることが上申されたが、清麻呂を大隅国への流罪とする
・769年(神護景雲3年10月) 道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、ここに行幸する
・770年(神護景雲4年2月) 再び由義宮に行幸する
・770年(神護景雲4年3月) 由義宮で発病する
・770年(神護景雲4年8月4日) 奈良平城京において、数え年53歳で亡くなり、白壁王(光仁天皇)を後継とする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1830年(文政13)幕末の思想家・教育者吉田松陰の誕生日(新暦9月20日)詳細
1897年(明治30)幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎の命日詳細
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