ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:秘密協定

Taft-Katsura01
 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、「桂・タフト協定」が締結され、アメリカは日本の大韓帝国指導権を承認し、日本はアメリカの植民地・フィリピンへの不干渉を認めた日です。
 「桂・タフト協定」(かつら・たふときょうてい)は、東京において、日本の桂太郎首相とアメリカ大統領特使 W.タフト陸軍長官との間で取りかわされた秘密の覚書でした。1905年(明治38)7月下旬に、タフト陸軍長官が、フィリピン視察の途中、来日した時に、日本政府はアメリカの親日感を強めようと歓待しましたが、その時に桂太郎首相と会談し、両者が諒解に達したものです。
 その内容は、①フィリピンをアメリカのような親日的な国に統治してもらうことは日本にとっても利益であり、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をも持たない。②極東の全般的平和の維持にとっては、日本、アメリカ、英国の三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である。③アメリカは、日本が韓国に宗主権を確立することが、日露戦争の論理的帰結であり、極東の平和に直接に貢献すると認める、というものでした。これは、第2回日英同盟、ポーツマス条約などと併せ、韓国保護国化、日韓併合への重要な布石となっていきます。
 以下に、「桂・タフト協定」の英語原文と、筆者による日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「桂・タフト協定」 1905年(明治38)7月29日締結

The Taft - Katsura Agreement

First, in speaking of some pro-Russians in America who would have the public believe that the victory of Japan would be a certain prelude to her aggression in the direction of the Philippine Islands, Secretary Taft observed that Japan’s only interest in the Philippines would be, in his opinion, to have these islands governed by a strong and friendly nation like the United States,…Count Katsura confirmed in the strongest terms the correctness of his views on the point and positively stated that Japan does not harbor any aggressive designs whatever on the Philippines....

Second, Count Katsura observed that the maintenance of general peace in the extreme East forms the fundamental principle of Japan’s international policy. Such being the case,… the best, and in fact the only, means for accomplishing the above object would be to form good understanding between the three governments of Japan, the United States and Great Britain....

Third, in regard to the Korean question Count Katsura observed that Korea being the direct cause of our war with Russia, it is a matter of absolute importance to Japan that a complete solution of the peninsula question should be made as the logical consequence of the war. If left to herself after the war, Korea will certainly draw back to her habit of improvidently entering into any agreements or treaties with other powers, thus resuscitating the same international complications as existed before the war. In view of the foregoing circumstances, Japan feels absolutely constrained to take some definite step with a view to precluding the possibility of Korea falling back into her former condition and of placing us again under the necessity of entering upon another foreign war. Secretary Taft fully admitted the justness of the Count’s observations and remarked to the effect that, in his personal opinion, the establishment by Japanese troops of a suzerainty over Korea to the extent of requiring that Korea enter into no foreign treaties without the consent of Japan was the logical result of the present war and would directly contribute to permanent peace in the East. His judgment was that President Roosevelt would concur in his views in this regard, although he had no authority to give assurance of this....

Miscellaneous Letters of the Department of State, July, Part III, 1905.


<日本語訳>

桂・タフト協定

...桂伯爵とタフト長官は、7月27日の朝に長時間秘密厳守の会談を行った。...

第一に、タフト長官は、日本の勝利がフィリピン諸島方面への侵略のある種の前兆であると国民に信じ込ませようとするアメリカの親ロシア派について話す中で、フィリピンに対する日本の唯一の利益は、彼の意見では、これらの島々を米国のような強くて友好的な国によって統治させることであると述べた。...桂伯爵は、この点に関する彼の見解の正しさを最も強い言葉で確認し、日本はフィリピンに対してどのような侵略的意図も抱いていないと積極的に述べた。

第二に、桂伯爵は、極東における全般的な平和の維持が日本の国際政策の基本原則を形成していると指摘した。そのような場合、…上記の目的を達成するための最良の、そして実際に唯一の手段は、日本、米国、英国の3つの政府の間で十分な理解を形成することである。

第三に、朝鮮問題に関して、桂伯爵は、韓国がロシアとの戦争の直接の原因であると述べたが、戦争の論理的帰結として半島問題の完全な解決がなされるべきであることが日本にとって絶対的に重要な問題であると述べた。戦後、韓国自らに任せておけば、韓国は他の勢力との協定や条約を不用意に締結するという習慣に確実に引き戻され、戦前と同じ国際的な複雑さを復活させるであろう。以上のような状況に鑑み、日本は、韓国が元の状態に陥り、再び対外戦争に突入する必要に迫られる可能性を排除するため、何らかの明確な措置をとることを絶対に制約されていると感じている。タフト長官は、伯爵の見解の正当性を十分に認め、彼の個人的な意見では、韓国が日本の同意を得ることなく外国との条約を結ばないことを要求する程度まで、日本軍による韓国に対する宗主権の確立は現在の戦争の論理的帰結であり、東方の恒久的な平和に直接貢献するであろう旨述べた。彼の判断は、ルーズベルト大統領がこの点に関して彼の見解に同意するだろうというものだったが、彼にはこれを保証する権限はなかった。

国務省のその他の手紙、パートⅢ、1905年7月。

  ※英語原文から筆者が訳しました。

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dai4kainichirokyoushyou01
 今日は、大正時代の1916年(大正5)に、日本とロシアとの間で、「第四次日露協約」が締結された日です。
 「第四次日露協約(だいいちじにちろきょうやく)」は、全権大使は、ロシアはセルゲイ・サゾーノフ外相、日本は本野一郎在ロシア日本大使で、第一次世界大戦における日露の関係強化とそれまで相互に承認した中国での権益を守るため、相互に軍事援助を行うという秘密相互援助条約(日露同盟)としたものでした。しかし、翌年に、ロシア革命が勃発し、十月革命で権力をにぎったレーニンが平和についての布告で秘密条約を暴露、旧ロシア帝国の締結した条約を廃棄したので、消滅しています。
 以下に、「第四次日露協約」の日本語版を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日露協約」とは?

 日露戦争(1904~05年)後、1907年(明治40)から1916年(大正5)までの4回にわたって、日本とロシアが英米の東アジア進出に対抗する目的で、締結した協約(公開協定と秘密協定からなる)です。
 1907年(明治40)7月30日に、第一次日露協約によって、公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定しました。次に、1910年(明治43)7月4日に、第二次日露協約​によって、アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)に対抗して、満州の現状維持と鉄道利益確保に関する相互協力を約します。
 続いて、1912年(明治45)7月8日に、第三次日露協約によって、4国借款団の満州進出や辛亥革命などに対応して、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを約しました。さらに、1916年(大正5)7月3日に、第四次日露協約によって、第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の中国進出を防ぎ、戦争の場合の相互援助と単独不講和を協定します。
 これらは、アメリカやイギリスの中国進出に対応するために、領土保全・東アジアにおける両国の権益の相互承認などを決めたものでした。いずれも、1917年(大正6)のロシア革命後、ソビエト政府が協定を公表し、破棄しています。 

☆「第四次日露協約」 (全文)  1916年(大正5)7月3日調印

大正五年(一九一六年)七月三日「ペトログラード」ニ於テ調印
大正五年(一九一六年)七月八日官報掲載

日本帝国政府及露西亜帝国政府ハ極東ニ於ケル恒久ノ平和ヲ維持セムカ為協力スルコトニ決シ左ノ如ク約定セリ

第一條 日本国ハ露西亜国ニ対抗スル何等軍事上ノ協定又ハ連合ノ当事国トナラサルヘシ
 露西亜国ハ日本国ニ対抗スル何等政事上ノ協定又ハ連合ノ当事国トナラサルヘシ

第二條 両締約国ノ一方ニ依リ承認セラレタル他ノ一方ノ極東ニ於ケル領土権又ハ特殊利益カ侵迫セラルルニ至リタルトキハ日本国及露西亜国ハ其ノ権利及利益ノ擁護防衛ノ為相互ノ支持又ハ協力ヲ目的トシテ執ルヘキ措置ニ付協議スヘシ

右証拠トシテ下名ハ各其ノ政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本条約ニ署名調印ス

大正五年七月三日即露曆千九百十六年六月二十日(七月三日)「ペトログラード」ニ於テ本書ヲ作ル

 本野一郞
 ザゾーノフ

秘密協約

日本帝国政府及露西亜帝国政府ハ千九百七年七月三十日(一七日)、千九百十年七月四日(六月二十一日)及千九百十二年七月八日(六月二十五日)ノ日露秘密協約ニ依リ定メラレタル両国間ノ誠実ナル友好関係ヲ一層堅固ナラシメンコトヲ希望シ前記協約ノ補足トシテ左ノ条款ヲ協定セリ

第一条 両締約國ハ其緊切ナル利益ニ顧ミ支那国カ日本国又ハ露西亜国ニ対シ敵意ヲ有スル第三国ノ政事的掌握ニ帰セサルコトヲ緊要ナリト認メ必要ニ應シテ隨時隔意ナク且誠実ニ意見ノ交換ヲ行ヒ前記事態ノ発生ヲ防止セムカ為執ルヘキ措置ニ付協議スヘシ

第二条 前条ノ規定ニ依リ双方合意ノ上ニテ執リタル措置ノ結果両締盟国ノ一方ト前条ニ記述セル第三国トノ間ニ宣戦アリタル場合ニハ締盟国ノ他ノ一方ハ請求ニ基キ其同盟国ニ援助ヲ与フヘク此ノ場合ニ於テ両締盟国ハ孰レモ豫メ他ノ一方ノ同意アルニ非サレハ講和セサルコトヲ約ス

第三条 両締盟国ノ一方カ前条ノ規定ニ依リ他ノ一方ニ兵力的援助ヲ与フヘキ条件及該援助ノ実行方法ハ両締盟国当該官憲ニ於テ協定スヘシ

第四条 両締盟国ノ一方ハ切迫セル戦争ノ重大ナル程度ニ適応スヘキ援助ヲ其ノ同盟諸国ヨリ保障セラルルニ非サレハ本条約第二条ニ規定スル兵力的援助ヲ他ノ一方ニ与フルノ義務ナシ

第五条 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ実施シ千九百二十一年七月十四日(一日)迄效力ヲ有ス
 前記期間ノ終了ニ至ル十二箇月前ニ両締盟国ノ孰レヨリモ本協約ヲ廃棄スルノ意思ヲ通告セサルトキハ本協約ハ両締盟国ノ孰レカニ於テ廃棄ノ意思ヲ表示シタル当日ヨリ一箇年ノ終了ニ至ル迄引続キ效力ヲ有ス

第六条 本協約ハ両締盟国ニ於テ厳ニ秘密ニ附スヘシ

右証拠トシテ下名ハ各其ノ政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協約ニ署名調印ス

大正五年七月三日即露曆千九百十六年六月二十日(七月三日)「ペトログラード」ニ於テ本書ヲ作ル

 本野一郞
 サゾーノフ

    「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より
 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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chyuugokubunkatsuzu01

 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結された日です。
 「第一次日露協約(だいいちじにちろきょうやく)」は、公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定したものでした。ロシアのセント・ピータースブルグにおいて、ロシアのアレクサンドル・イズヴォリスキー外相と日本の本野一郎在ロシア日本大使を全権大使として調印しましたが、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めたものです。
 その後、1910年(明治43)7月4日に、第二次日露協約​によって、アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)に対抗して、満州の現状維持と鉄道利益確保に関する相互協力を約し、1912年(明治45)7月8日に、第三次日露協約によって、4国借款団の満州進出や辛亥革命などに対応して、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを約し、1916年(大正5)7月3日に、第四次日露協約によって、第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の中国進出を防ぎ、戦争の場合の相互援助と単独不講和を約しました。これらは、アメリカやイギリスの中国進出に対応するために、領土保全・東アジアにおける両国の権益の相互承認などを決めたもので、第一次~第四次をまとめて「日露協約」とも呼ばれています。いずれも、1917年(大正6)のロシア革命後、ソビエト政府が協定を公表し、破棄しました。
 以下に、「第一次日露協約」の日本語版を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日露第一回協約」 1907年(明治40)7月30日調印

  明治四〇年(一九〇七年)七月三〇日「セント、ピータースブルグ」ニ於テ記名
  明治四〇年(一九〇七年)八月一五日官報揭載

前文

日本國皇帝陛下ノ政府及全露西亞國皇帝陛下ノ政府ハ幸ニ日本國及露西亞國間ニ克復セラレタル平和及善鄰ノ關係ヲ鞏固ナラシメムコトヲ希望シ且將來兩帝國ノ關係ニ於ケル一切誤解ノ原因ヲ除去セムコトヲ欲シ左ノ條款ヲ協定セリ

 第一條

領土保全ノ尊重

締約國ノ一方ハ他ノ一方ノ現在ニ於ケル領土保全ヲ尊重スルコトヲ約ス又締約國間ニ謄本ヲ交換セル締約國ト淸國トノ現行諸條約及契約ヨリ生スル一切ノ權利(但シ機會均等主義ニ反セサル權利ニ限ル)竝一千九百五年九月五日卽露曆八月二十三日「ポウツマス」ニ於テ調印セラレタル條約及日本國ト露西亞國トノ間ニ締結セラレタル諸特殊條約ヨリ生スル一切ノ權利ハ互ニ之ヲ尊重スルコトヲ約ス

 第二條

淸國ノ獨立、領土保全竝同國ニ於ケル列國商工業ノ機會均等主義

兩締約國ハ淸帝國ノ獨立及領土保全竝同國ニ於ケル列國商工業ノ機會均等主義ヲ承認シ且自國ノ執リ得ヘキ一切ノ平和的手段ニ依リ現狀ノ存續及前記主義ノ確立ヲ擁護支持スルコトヲ約ス

末文

右證據トシテ下名ハ各其ノ政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ之ニ記名調印スルモノナリ

明治四十年七月三十日卽露曆一千九百七年七月十七日(七月三十日)聖彼得堡ニ於テ本書ヲ作ル

  本野一郞

  イズヴォルスキー

 秘密協約

日本國皇帝陛下ノ政府及全露西亞國皇帝陛下ノ政府ハ滿洲、韓國及蒙古ニ關シ一切ノ紛爭又ハ誤解ノ原因ヲ除去セムコトヲ欲シ左ノ條款ヲ協定セリ

第一條 日本國ハ滿洲ニ於ケル政事上及經濟上ノ利益及活動ノ集注スル自然ノ趨勢ニ顧ミ且競爭ノ結果トシテ生スルコトアルヘキ紛議ヲ避ケムコトヲ希望シ本協約追加約款ニ定メタル分界線以北ノ滿洲ニ於テ自國ノ爲又ハ自國臣民若ハ其ノ他ノ爲何等鐵道又ハ電信ニ關スル權利ノ讓與ヲ求メス又同地域ニ於テ露西亞國政府ノ扶持スル該權利讓與ノ請求ヲ直接間接共ニ妨礙セサルコトヲ約ス露西亞國ハ亦同一ノ平和的旨意ニ基キ前記分界線以南ノ滿洲ニ於テ自國ノ爲又ハ自國臣民若ハ其ノ他ノ爲何等鐵道又ハ電信ニ關スル權利ノ讓與ヲ求メス又同地域ニ於テ日本國政府ノ扶持スル該權利讓與ノ請求ヲ直接間接ニ妨礙セサルコトヲ約ス

一千八百九十六年八月二十八日卽露曆八月十六日及一千八百九十八年六月二十五日卽露曆六月十三日ノ東淸鐵道敷設契約ニ依リ東淸鐵道會社ニ屬スル一切ノ權利及特權ハ追加約款ニ定メタル分界線以南ニ在ル同鐵道ノ部分ニ對シ有效ニ存續スルモノトス

第二條 露西亞國ハ日本國ト韓國トノ間ニ於テ現行諸條約及協約(日本國ヨリ露西亞國政府ニ其ノ謄本ヲ交付セルモノ)ニ基キ存在スル政事上利害共通ノ關係ヲ承認シ該關係ノ益々發展ヲ來スニ當リ之ヲ妨礙シ又ハ之ニ干涉セサルコトヲ約ス又日本國ハ韓國ニ於テ露西亞國ノ政府、領事官、臣民、商業、工業及航海業ニ對シ特ニ之ニ關スル條約ノ締結セラルルマテ一切最惠國待遇ヲ與フルコトヲ約ス

第三條 日本帝國政府ハ外蒙古ニ於ケル露西亞國ノ特殊利益ヲ承認シ該利益ヲ損傷スヘキ何等ノ干涉ヲ爲ササルコトヲ約ス

第四條 本協約ハ兩締約國ニ於テ嚴ニ秘密ニ附スヘシ

 右證據トシテ下名ハ各其ノ政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ之ニ記名調印スルモノナリ

 明治四十年七月三十日卽露曆一千九百七年七月十七日聖彼得堡ニ於テ本書ヲ作ル

  本野一郞

  イズヴォルスキー

 追加約款

本條約第一條ニ揭ケタル北滿洲及南滿洲ノ分界線ハ左ノ如ク之ヲ定ム

同分界線ハ露韓國境ノ北西端ニ始マリ琿春及必爾藤湖北端ヲ經テ秀水站ニ至ルマテ逐次直線ヲ劃シ秀水站ヨリハ松花江ニ沿ヒ嫩江ノ河口ニ至リ之ヨリ嫩江ノ水路ヲ遡リテ托羅河ノ河口ニ達シ此ノ地點ヨリ托羅河ノ水路ニ沿ヒ同河ト「グリニツチ」東經百二十二度ノ交叉點ニ至ル

  本野一郞

  イズヴォルスキー

 外蒙古ニ於ケル淸國ノ現狀維持及領土保全ニ關シ露國駐劄帝國特命全權公使ヨリ露國外務大臣宛文書

閣下ハ露西亞帝國政府ニ於テ蒙古ニ關スル秘密協約第三條中ヨリ現狀維持及機會均等主義ニ關スル留保ノ削除ヲ希望スル旨本使ニ表明セラレタリ而シテ其ノ理由タル前記ノ主義ハ公表セラルヘキ協約ノ第一條及第二條ニ於テ明確ニ記述セラレ特ニ蒙古ニ關スル條項中ニ再ヒ之ヲ揭クルハ全ク贅言ニ屬ストスルニ在リ依テ本使ハ茲ニ左ノ旨ヲ閣下ニ通吿スルノ光榮ヲ有ス卽蒙古ニ關スル秘密協約第三條ノ規定カ公表セラルヘキ協約第一條及第二條ニ記述セル現狀維持及機會均等ノ主義ニ對シ何等除外例ヲ設クルモノニ非ルハ兩國政府ノ全然所見ヲ一ニスル所ナルカ故ニ帝國政府ハ前記ノ留保ヲ右秘密協約ノ條項中ヨリ削除スルコトニ異議ヲ有セス

本使ハ閣下ニ於テ本公文ヲ領承スル旨ノ囘答ヲ與ヘラレムコトヲ請フト共ニ茲ニ閣下ニ對シ重テ敬意ヲ表ス

 外蒙古ニ於ケル淸國ノ現狀維持及領土保全ニ關シ露國外務大臣ヨリ露國駐劄帝國特命全權公使宛囘答書

本日附貴信ヲ以テ閣下ハ本大臣ニ通吿スルニ蒙古ニ關スル秘密協約ノ規定ハ露西亞政府及日本國政府ノ所見ニ依ルニ公表セラルヘキ協約第一條及第二條ニ記述セル現狀維持及機會均等ノ主義ニ對シ何等除外例ヲ設クルモノニ非ルカ故ニ日本國政府ハ前記秘密協約ノ條項中ヨリ該主義ニ關スル規定ヲ削除スルニ異議ナキ旨ヲ以テセラレタリ本大臣ハ右ノ貴信ヲ領承スルト共ニ茲ニ閣下ニ對シ重テ敬意ヲ表ス

   「條約彙纂 第一卷改訂版」外務省條約局編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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