ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、福澤諭吉著『学問のすゝめ』の最終刊・第17篇が刊行された日です。
 『学問のすゝめ』(がくもんのすすめ)は、明治時代前期の1872年(明治5)~1876年(明治9)の5年をかけて、17編の小冊子として順次刊行された、福沢諭吉著の啓蒙書でした。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、人々の平等を唱え、学問を重視し、自由独立の気風を身につけることを勧め、封建道徳を鋭く批判し、実用的学問の必要を説いています。
 当時のベストセラーとなり、発行部数あわせて340万といわれ、とても多くの人に愛読されました。文明開化期には、教科書としても用いられ、当時の教育政策や自由民権運動にも影響を及ぼします。
 以下に、『学問のすゝめ』初編を掲載しておきますので、ご参照下さい。

<各編の発行日>
・初編 1872年(明治5)2月
・二編[人は同等なること]1873年(明治6)11月
・三編[国は同等なること / 一身独立して一国独立すること]1873年(明治6)12月
・四編[学者の職分を論ず]1874年(明治7)1月
・五編[明治七年一月一日の詞]1874年(明治7)1月
・六編[国法の貴きを論ず]1874年(明治7)2月
・七編[国民の職分を論ず]1874年(明治7)3月
・八編[わが心をもって他人の身を制すべからず]1874年(明治7)4月
・九編[学問の趣旨を二様に記して中津の旧友に贈る文]1874年(明治7)5月
・十編[前編のつづき、中津の旧友に贈る]1874年(明治7)6月
・十一編[身分から偽君子を生じるの論]1874年(明治7)7月
・十二編[演説の法を勧めるの説 / 人の品行は高尚ならざるべからざるの論]1874年(明治7)12月
・十三編[怨望の人間に害あるを論ず]1874年(明治7)12月
・十四編[心事の棚卸し / 世話の字の義]1875年(明治8)3月
・十五編[事物を疑いて取捨を断ずること]1876年(明治9)7月
・十六編[手近く独立を守ること / 心事と働きと相当すべきの論]1876年(明治9)8月
・十七編[人望論]1876年(明治9)11月

〇福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)とは?

 幕末から明治時代の思想家・教育者です。1835年(天保5)に豊前国中津藩士福沢百助の五男として、大坂藩邸で生まれました。
 1854年(安政元)に長崎で蘭学を学び、翌年大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭にまでなりなす。1858年(安政5)藩命によって江戸へ出府し、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開きました。
 その後、英学を独修し、1860年(万延元)には幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米することになります。以後、1861年(文久元)~翌年、1867年(慶応3)と都合3回幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。
 その経験をもとに1866年(慶応2)『西洋事情』初編、1868年(慶応4)『西洋事情』外編、1869年(明治2)『世界国尽』(1869)などを刊行して大衆の啓蒙に寄与します。また、1868年(慶応4)蘭学塾の名を慶応義塾と改め。今日の慶應義塾大学の礎を築きました。
 そして、1872年(明治5)から1876年(明治9)にわたって出版した『学問のすゝめ』は、人間平等宣言と「一身の独立」「一国の独立」の主張により、ベストセラーとなったのです。このように、教育と啓蒙活動に専念し、1873年(明治6)に明六社を設立、1875年(明治8)『文明論之概略』を出版、(1875)1882年(明治15)「時事新報」を創刊するなどしてきましたが、1901年(明治34)年2月3日に68歳で死去しました。

☆『学問のすゝめ』初編 1872年(明治5)2月発行

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本(もと)を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺(ことわざ)にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
 学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
 学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋つながれず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然(しか)らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。
 また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷(じょうい)などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺(ことわざ)に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄(す)てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。
 しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤(いや)しめこれを嫌(きら)い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。王制一度(ひとたび)新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字(みょうじ)・乗馬を許せしがごときは開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)ここに定まりたりと言うべきなり。
 されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦(かわら)にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古(いにしえ)よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来(しきたり)に慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上かみを怨うらむることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛なげう)ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
 前条に言えるとおり、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
 昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民のうちに人物あれば政府の上に採用せらるべき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわ)れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きわ)みは恥を知らざるに至り、己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴(ごうそ)・一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度(ほうど)を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身本(みもと)慥(たし)かにして相応の身代ある者も、金銭を貯(たくわ)うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。
 かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴(おもむ)くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪(にく)む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

端書(はしがき)

 このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧(ふる)く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺す)り、同志の一覧に供うるなり。
 明治四年未(ひつじ)十二月
                    福沢諭吉  
                     記
                   小幡篤次郎 

    「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国連総会で定められた「女性に対する暴力撤廃の国際デー」の日詳細
1253年(建長5)鎌倉幕府第5代執権北條時頼が建長寺を創建し落慶法要を挙行(新暦12月24日)詳細
1557年(弘治3)戦国武将毛利元就が子の隆元・元春・隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記す(新暦12月15日)詳細
1819年(文政2)江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の誕生日(新暦1820年1月10日)詳細
1936年(昭和11)ドイツのベルリンで「日独防共協定」が調印される詳細
1970年(昭和45)小説家三島由紀夫の命日(憂国忌)詳細
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Fukuzawayukichi10
 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、『時事新報』が社説「支那人親しむ可し」を掲載した日です。
 「支那人親しむ可し」(しなじんしたしむべし)は、新聞『時事新報』の1898年(明治31)3月22日付に掲載された社説で、福澤諭吉が執筆したとされてきました。
 1895年(明治28)4月17日に日清戦争の講和が成り、「日清講和条約(下関条約)」が調印(5月8日に批准書が交換されて発効)され、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両[テール](日本円で約3億円)の支払い、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と開市・開港地における製造業従事権の承認、(5)揚子江航行権を与えること、(6)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権(日本の治外法権、片務的協定関税率)を日本に認める新条約の締結などが取り決められます。しかし、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、5月4日に日本は勧告を受諾、遼東半島を清国に還付することとなり、その代償として3,000万両[テール]を得ることになりました。この条約で得た賠償金2億両[テール]と遼東還付金の3,000万両[テール]は、軍備と工業化の資金となり、また金本位制度に移行する資金ともなります。
 三国干渉の結果、清国に遼東半島は戻されたものの、逆に西洋列強による影響が強くなる結果が生じ、清国の西洋諸国への警戒心が高まりました。その一方で、清国が日本に対する友好的な態度を見せるようになり、150名の留学生を日本に派遣するまでになります。
 このような状況下で、この社説は、日本は清国と友好を深めるべきだと主張し、日清戦争後に清国人を蔑視する風潮の高まりを警め、「況んやチャンチャン、豚尾漢など他を罵詈するが如きに於てをや」、「日本人たるものは官民上下に拘はらず、自から支那人に親しむの利益を認め」などと主張して、中国人との交流強化を強調したものでした。発表時は、無署名のものでしたが、1934年(昭和9)に石河幹明編『続福澤全集〈第5巻〉』(岩波書店)に収録されたため、「支那人親しむ可し」は福澤諭吉が執筆した社説とされるようになります。
 以下に、新聞『時事新報』3月22日付社説「支那人親しむ可し」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇「支那人親しむ可し」 新聞『時事新報』3月22日付社説に掲載 ( )内はふりがな

「支那人親しむ可し」

 日清戰爭次第(しだい)に歩を進(すゝ)めて連戰連勝(れんせんれんしよう)、日本人最後(さいご)の目的(もくてき)は北京を屠(ほふ)るの一事にして、意氣軒昂(いきけんかう)眼中(がんちう)既に四百餘州なし敵國(てきこく)をしていよ/\城下の盟(ちかひ)を成さしむるは機一髮(きいつぱつ)の其瞬間(しゆんかん)に至り、漸(やうや)く和議(わぎ)の端(たん)を開て、其條件(でうけん)は賠償金(ばいしやうきん)二億兩(テール)、遼東半島(れうとうはんたう)、臺灣、澎湖島(はうこたう)の割讓(かつじやう)なりと云ふ。當時日本人の考(かんがへ)にては四百餘州は既に我掌中(しやうちう)のものなり、如何(いか)なる事を命ずるも彼に於て異議(いぎ)はある可らず、斯(かゝ)る條件(でうけん)にて媾和(かうわ)とは寛仁大度(くわんじんたいど)の處置(しよち)にして定めて感泣(かんきふ)することならんと思(おも)ひの外、支那人は却て其條件を重(おも)しとして、土地(とち)の割讓は勿論、賠償(ばいしやう)の金額に就ても大に苦情(くじやう)を訴(うつた)へながら、戰敗國(せんぱいこく)の弱味(よわみ)に止(や)むを得ずして承服(しやうふく)したる次第なりしに、其條件(でうけん)に付き端なく外國の干渉(かんてふ)を惹起(ひきおこ)し、其結果(けつくわ)、日本は遼東半島を元(もと)の儘(まゝ)に還付(くわんぷ)して止(や)むに至れり。
 思(おも)ふに支那人の身(み)に取ては所謂(いはゆる)地獄(じごく)に佛(ほとけ)の心地(こゝち)して竊(ひそか)に外國人を泣拜(きうはい)したることならん。渇者(かつしや)は水(みづ)を擇(えら)ぶに遑(いとま)あらず。半島の割讓(かつじやう)を兔かれたるは全く外國人と名くる生佛(いきぼとけ)のお蔭(かげ)なりとて、只管(ひたすら)これを徳としたるは、戰敗者の情(じやう)として怪(あや)しむに足らざれども、抑も外國交際(ぐわいこくかうさい)の眞面目(しんめんもく)は自利(じり)の外に見る可らず、明白(めいはく)の事實にして、外交家の伎倆(ぎりやう)とは巧(たくみ)に口實(かうじつ)を飾(かざ)りて自利の目的(もくてき)を達するに過ぎざるのみ。彼の外國の日本に對する忠告(ちうこく)に、支那大陸の割讓(かつじやう)を以て東洋の平和(へいわ)に妨(さまた)げありと云ふ其理由(りいう)は兎も角も、實際の結果は日本を抑(おさ)へて支那を利(り)せしめたるものに外ならず。
 支那の爲めには難有(ありがたき)仕合(しあはせ)なれども、今の外交上に毫(がう)も自から利する所なく單に他を抑揚(よくやう)し其喜怒(きど)を買(か)ふて自から喜(よろこ)ぶものある可きや。彼等の支那を利せしめたる其目的(もくてき)は、更らに大に支那より利せんとするに在(あ)りしや甚だ明白(めいはく)にして、必ずしも今日を俟(ま)たず當時既に我輩の明言(めいげん)して支那人の爲めに惜(を)しみたる所なり。思(おも)ふに支那人决して愚(ぐ)ならず、自から大體の利害(りがい)を見るの明はありながら、當時の有樣(ありさま)は危急存亡(きゝふそんばう)、後を顧(かへり)みるに遑(いとま)あらず、只眼前の急(きふ)を兔(まぬ)かるゝが爲めに、外國の干渉(かんてふ)を渡(わた)りに舟(ふね)と認めて、取(と)り敢(あ)へず其救助(きうじよ)に依(よ)りたることならん。止(や)むを得ざる次第なれども、時を經(ふ)る儘に三、四年、昨今の成行(なりゆき)は果して如何。當年の佛(ほとけ)は忽ち閣魔(えんま)に變じ、其要求(ようきう)甚だ大にして、今日まで讓(ゆづ)りたる所を見るに、其大小、遼東半島と同日(どうじつ)の談に非ず。其趣(おもむき)は恰も一萬圓の金を借用(しやくよう)して返濟(へんさい)に差支(さしつか)へ、他人に依頼(いらい)して種々に談判(だんぱん)の末、その周旋(しうせん)のお蔭(かげ)にて漸(やうや)く返金(へんきん)の急を兔(まぬ)かれたれども、周旋人(しうせんにん)の爲めに五萬圓の禮金(れいきん)を取られたるが如し。割(わり)に合(あ)はざる談にして、今日に至りては寧(むし)ろ遼東半島(れうとうはんたう)を日本に與(あた)へたるの得策(とくさく)たりしを認めしことならん。
 近來支那人が外國人のいよ/\恐(おそ)る可きを感じ、日本に親(した)しむの心を生じたるは實際の事實(じゞつ)にして、北京(ペキン)電報(でんぱう)に支那の君臣(くんしん)は一般に日本に依頼(いらい)するの念を懷(いだ)くに至りしと云ふが如き、此邊の情况(じやうきやう)を報(はう)じたる者に外ならず。又我輩の別に接手(せつしゆ)したる報道(はうだう)に據(よ)るも、彼の張之洞(ちやうしだう)の如き、近來大に悟(さと)る所あり。此程の便船(びんせん)にて部下の一人を日本に渡航(とかう)せしめ、其報告(はうこく)に由り凡そ百五十名の留學生(りうがくせい)を我國に送(おく)り各種の事物(じぶつ)を學習(がくしふ)せしむる筈なりと云へり。是種の所報(しよはう)に徴(ちよう)するも以てます/\支那人近來の傾向(けいかう)を見るに足る可し。
 抑も日本人、决して無慾(むよく)ならず。支那に對して大に求(もと)むる所なきに非ざれども、其求むる所は土地(とち)に非ず、人民(じんみん)に非ず、只商賣(しようばい)貿易(ばうえき)の一事にして、其目的(もくてき)は自から利し兼(かね)て他を利せんとするに外ならず。而して此目的を達(たつ)するには成(な)る可く彼の國人に近(ちか)づき、相方(さうはう)の情意(じやうい)を通(つう)じて互に相親(あひしたし)むに在るのみ。蓋し支那人も漸(やうや)く日本人の心事(しんじ)を解し、漸く年來の猜忌心(さいぎしん)を去(さり)たる者にして、彼より進んで親(した)しまんとするこそ好機會(かうきくわい)なれば、充分(じうぶん)に好意(かうい)を以て彼れに接(せつ)し、以て其目的(もくてき)を達す可きのみ。
 日清戰爭の事は今更(いまさら)云ふ可きに非ざれども、古來(こらい)武士(ぶし)の言にも勝負(しやうぶ)は時(とき)の運(うん)に由ると云ひ、勝(かち)たりとて誇(ほこ)る可きに非ず、負(まけ)たりとて輕蔑(けいべつ)す可らず。况(ま)して今日に於ては純然(じゆんぜん)たる和親國(わしんこく)にして、一毫の介意(かいゝ)もある可らざるのみか、殊に最近(さいきん)の比(ひ)隣國(りんこく)平常(へいじやう)の交際(かうさい)頻繁(ひんぱん)なる其上に、自から利害(りがい)の關係(くわんけい)も密接(みつせつ)なることなれば、ます/\相近(あひちか)づき相親(あひした)しむ可きのみ。或は彼の國人の平生(へいぜい)を見れば、運動(うんどう)遲緩(ちくわん)にして活發(くわつぱつ)の氣風(きふう)を缺(か)くに似たれども、是(こ)れは其國の大にして自から動(うご)くに便(べん)ならざるが爲めに外ならず。一たび動(うご)くときは案外(あんぐわい)に驚(おどろ)く可きものあらんなれば、决して因循姑息(いんじゆんこそく)を以て目(もく)す可らず。况(いは)んやチヤン/\、豚尾漢(とんびかん)など他を罵詈(ばり)するが如きに於てをや。假令(たと)ひ下等社會(かとうしやくわい)の輩としても大に謹(つゝ)しまざる可らず。
 日本人たるものは官民上下(くわんみんじやうか)に拘(かゝ)はらず、自から支那人に親(した)しむの利益(りえき)を認め、眞實(しんじつ)その心掛(こゝろがけ)を以て他に接(せつ)すること肝要(かんえう)なりと知る可きものなり。

  「ウィキソース」より

  ※縦書きの本文を横書きにし、句読点を付してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
2005年(平成17)建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
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koujyunshya01
 今日は、明治時代前期の1880年(明治13)に、福澤諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立された日です。
 交詢社(こうじゅんしゃ)は、福沢諭吉を中心に馬場辰猪、矢野竜溪らが創設した官吏・知識人・商工業者・地方地主らの社交クラブでした。1879年(明治12)9月に、福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定、翌年1月25日に、東京芝区愛宕下の青松寺で発会式が行われ、1,767名の社員中、596名が集まり、24名が常議員となります。
 職業の内訳は、官吏・学者・商業・農業等が大部分であり、しかもその過半数は地方在住の人たちで、社則第一条「社員たるもの互に知識を交換し世務を諮詢する」というところから、交詢社と名付けられ、知識の交換と世務の諮詢とを会の目的として、「交詢雑誌」を発刊しました。政治的には中産階級を基盤として自由党系と対立し、1881年(明治14)4月に「交詢雑誌」第45号で「私擬憲法案」を発表します。
 しかし、同年10月の「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、慶応義塾出身者および実業家やジャーナリストが中心と変わり、翌年4月16日の立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となり、「国会開設」や「閥族打破憲政擁護」の運動を進めました。1912年(大正元)に財団法人化され、翌年の大正政変の際には憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たします。
 1923年(大正12)の関東大震災により社屋が全壊しましたが、1929年(昭和4)に銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設されました。戦後も存続し、2004年(平成16)に交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となり、2011年(平成23)には、公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行して、現在に至っています。

〇交詢社関係略年表

・1879年(明治12)9月 福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定する
・1880年(明治13)1月25日 青松寺(東京芝区愛宕下)で発会式が行われ、24名が常議員となる
・1880年(明治13)2月5日 「交詢雑誌」の刊行を始める
・1881年(明治14)4月25日 「交詢雑誌」第45号で、交詢社の「私擬憲法案」を発表する
・1881年(明治14)10月 「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、実業家が中心になる
・1882年(明治15)4月16日 立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となる
・1889年(明治22) 紳士録『日本紳士録』を隔年で交詢社が編纂するようになる
・1897年(明治30) 「交詢雑誌」の刊行を辞める
・1912年(大正元) 財団法人化される
・1913年(大正2) 大正政変の際に憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たす
・1923年(大正12) 関東大震災により社屋が全壊する
・1929年(昭和4) 銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設される
・1960年(昭和35) 『日本会社録』の刊行を始める
・1971年(昭和46) 紳士録『日本紳士録』を交詢社出版局が編纂するようになる
・2004年(平成16)9月 交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となる
・2007年(平成19)4月 紳士録『日本紳士録』が休刊となる
・2011年(平成23)7月 公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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