ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:福澤桃介

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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、女優川上貞奴の生まれた日ですが、新暦では9月2日となります。
 川上貞奴(かわかみ さだやっこ)は、東京・日本橋の両替商・越後屋の父・小山久次郎と母・タカとの子として生まれましたが、名は貞(さだ)と言いました。生家の没落により、1877年(明治10)の6歳の時から東京葭町の花柳界で育ち、翌年には、日本橋葭町の浜田屋亀吉の養女となります。
 1885年(明治18)頃、馬術をしていて福澤桃介と知り合い恋に落ちましたが、1年後、桃介は福沢諭吉の二女・房と結婚、“奴”の名で芸者となりました。伊藤博文や奈良原繁らの知己を得、1891年(明治24)の20歳の時、自由民権運動の活動家で、壮士芝居の川上音二郎と結婚します。
 1896年(明治29)に神田に新派劇場・川上座を建て、1899年(明治32年)から夫・音二郎と共に一座17人を連れて渡米、アメリカ巡業を実施、サンフランシスコで初めて舞台に立ち、「道成寺」、「袈裟と盛遠」で初舞台を踏み評判を呼びました。ついで、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンと巡業して、1900年(明治33)のパリ万国博覧会にも出演し、“マダム貞奴”と賞されて帰国します。
 翌年には、再びヨーロッパ巡業を実施、フランスで現地の劇場や女優養成学校を視察、帰国後の1903年(明治36)に、明治座の「オセロ」で初めて正劇女優として日本の舞台に立ち、スターとして人気を博しました。1908年(明治41)に東京・芝で帝国女優養成所を設立しましだが、1911年(明治44)に夫・音二郎が亡くなり、1917年(大正6)の音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、女優引退を宣言します。
 翌年に名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立、1920年(大正9)頃から、福澤桃介と同居を始め、名古屋市内の「二葉御殿」に住むようになりました。1924年(大正13)に川上児童劇団を結成しましたが、1932年(昭和7)にその経営を辞め、1933年(昭和8)には、岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立して入山、門前に別荘「萬松園」を建築します。
 1938年(昭和13)に福澤桃介が亡くなり、1946年(昭和21)12月7日には、静岡県熱海の別荘において、膵臓癌により75歳で亡くなりました。

〇川上貞奴関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1871年(明治4年7月18日) 東京・日本橋の両替商・越後屋の父・小山久次郎、母・タカとの子として生まれる
・1877年(明治10年) 6歳の時から東京葭町の花柳界で育つ
・1878年(明治11年) 7歳の時、日本橋葭町の浜田屋亀吉の養女となる
・1885年(明治18年)頃 馬術をしていて福澤桃介と知り合う
・1887年(明治20年) 16歳の時、“奴”の名で芸者となる
・1891年(明治24年) 20歳の時、自由民権運動の活動家で、壮士芝居の川上音二郎と結婚する
・1896年(明治29年) 神田に新派劇場・川上座を建てる
・1898年(明治31年) 夫と2人で築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図ろうとするが失敗する
・1899年(明治32年) 夫・音二郎と共に一座17人を連れて渡米、アメリカ巡業を実施する
・1900年(明治33年) パリ万国博覧会に出演する
・1901年(明治34年) 再び、ヨーロッパ巡業を実施する
・1901年(明治34年) フランスで現地の劇場や女優養成学校を視察する
・1901年(明治34年) 養母・浜田可免が亡くなる
・1903年(明治36年) 明治座の「オセロ」で初めて正劇女優として日本の舞台に立つ
・1908年(明治41年) 東京・芝に帝国女優養成所を設立する
・1911年(明治44年) 夫・音二郎が亡くなる
・1917年(大正6年) 音二郎の7回忌追善公演で「アイーダ」を演じた後、女優引退を宣言する
・1918年(大正7年) 名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立する
・1920年(大正9年)頃 福澤桃介と同居を始め、名古屋市内の「二葉御殿」に住む
・1924年(大正13年) 川上児童劇団を結成する
・1932年(昭和7年) 川上児童劇団の経営を辞める
・1933年(昭和8年) 岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立して入山、門前に別荘「萬松園」を建築する
・1938年(昭和13年) 福澤桃介が亡くなる
・1946年(昭和21年)12月7日 静岡県熱海の別荘において、膵臓癌により75歳で亡くなる
・2005年(平成17年) 「二葉御殿」の復元・移築完了、「文化のみち二葉館」として開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、実業家で「電力王」とも呼ばれた福澤桃介の亡くなった日です。
 福澤桃介(ふくざわ ももすけ)は、1868年(慶應4年6月25日)に武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県比企郡吉見町荒子)の名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれました。幼い頃、一家で川越町(現在の埼玉県川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業、1878年(明治11)に第八十五国立銀行が設立されると、父は提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになります。川越中学校を卒業後上京して、1883年(明治16年)に福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学、1886年(明治19年)には諭吉の次女房との結婚を前提に福澤家へ養子入りして福澤姓となりました。1887年(明治20)に横浜港よりアメリカ合衆国へと向い、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通い、さらにフィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなります。1889年(明治22)に帰国し、房と結婚後、北海道炭礦鉄道にに入社して、北海道へ赴きました。1894年(明治27)夏に喀血して結核と診断され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院、この頃から株式投資を始めましたが、日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期となります。1898年(明治31)に王子製紙の取締役、翌年に貿易商「丸三商会」の旗揚げなどに関わりましたが、うまくいきませんでした。1901年(明治34)に北海道炭礦鉄道に復帰し、元の重役付として勤め始め、1906年(明治39)の日露戦争後の株式投機で利益を挙げて財を成し、「成金」の一人に数えられるようになります。資金を使って、1907年に日清紡績(株)を発足させて初代専務取締役に就任、1909年(明治42)に福博電気軌道(株)を設立して社長に就任、また中部地方の名古屋電灯(株)を買収するなどいろいろな事業に関わります。翌年に名古屋電燈の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手、1912年(明治45)には千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補して当選、一期務めました。1914年(大正3)に名古屋電燈社長に就任、1918年(大正7)に木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立、翌年賤母発電所を建設しました。1919年(大正8)に名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、東海道電気鉄道を設立して社長に就任、1921年(大正10)には木曽電気興業と日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任しました。木曽川の電力開発を推進し、1922年(大正11)に資材運搬用として桃介橋を完成、翌年に読書第1発電所を竣工、アメリカからの資金調達を得て、1924年(大正13)に大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所を竣工させます。その他、設立や経営に関係した会社は100社に及び、女優川上貞奴との仲も知られましたが、体調を崩し、1928年(昭和3)に実業界を引退しました。1932年(昭和7)に家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居、1937年(昭和12)2月15日に東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなっています。

福澤桃介関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年(慶應4年6月25日) 名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれる
・1883年(明治16年) 慶應義塾に入学する
・1886年(明治19年)12月17日 福澤諭吉の次女「房」との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤桃介となる
・1887年(明治20年) 慶應義塾を卒業する
・1887年(明治20年)2月2月 横浜港よりアメリカ合衆国へと出発する
・1887年(明治20年)3月 アメリカへ到着し、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通う、
・1888年(明治21年)1月 フィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなる
・1889年(明治22年)11月15日 アメリカから横浜港に帰着する
・1889年(明治22年)12月 福澤房と結婚する
・1889年(明治22年)12月31日 北海道炭礦鉄道にに入社する
・1894年(明治27年)夏 喀血して結核と診察され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院する
・1894年(明治27年) この頃株式投資を始めた。日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期だった
・1898年(明治31年)9月 親戚の中上川彦次郎の紹介で、王子製紙の取締役として入社する
・1899年(明治32年) 健康回復しを機に、貿易商「丸三商会」を旗揚げする
・1901年(明治34年)2月3日 義父の福澤諭吉が死去する
・1901年(明治34年)7月 北海道炭礦鉄道の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始める
・1906年(明治39年) 日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられるようになる
・1907年(明治40年)1月 資本金1000万円で日清紡績株式会社が発足すると、初代専務取締役に就任する
・1909年(明治42年)8月 大株主となって福博電気軌道株式会社を設立して自ら社長に就任する
・1909年(明治42年) 中部地方の名古屋電灯を買収する
・1910年(明治43年) 日清紡績常務取締役を辞任して撤退、
・1910年(明治43年)5月 名古屋電燈(株)の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手する
・1912年(明治45年) 千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補し当選する
・1913年(大正2年) 名古屋電燈常務に復帰する
・1914年(大正3年) 名古屋電燈社長に就任する
・1918年(大正7年)9月 木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する
・1918年(大正7年) 電源開発用のセメント製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となる 
・1918年(大正7年) 「川上絹布株式会社」が設立され、貞奴は名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をする
・1919年(大正8年) 賤母発電所を築く
・1919年(大正8年)9月 名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、資本金1000万円の東海道電気鉄道を設立、社長に就任する 
・1920年(大正9年) 名古屋市東二葉町に貞奴邸が新築され、川上貞奴と同居する
・1921年(大正10年)2月 日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任する
・1922年(大正11年) 大同電力、読書第1発電所の資材運搬用として、木曽川に橋長248.8mの吊橋・桃介橋を完成する
・1923年(大正12年) 読書第1発電所が竣工する
・1924年(大正13年)5月13日 資金調達のため、横浜港を出向してアメリカへ向かう
・1924年(大正13年)8月23日 アメリカから帰国する
・1924年(大正13年)12月 大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所が竣工する
・1926年(大正15年)4月 大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長に就任する
・1926年(大正15年) 大同電力、木曽川水系7カ所に水力発電所16.78万kWを開発する
・1928年(昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任
・1928年(昭和3年)6月6日 実業界引退を宣言する
・1932年(昭和7年) 家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居する
・1937年(昭和12年)2月15日 東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細


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