ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:福原遷都

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市兵庫区)への行幸(福原遷都)を決行した日ですが、新暦では6月26日となります。
 福原遷都(ふくはらせんと)は、平清盛が京都から摂津の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・中央区付近)に一時的に都を移したことでした。1179年(治承3)に、清盛はクーデターを実行し、後白河院を幽閉して実権を握り、自ら軍事的独裁政治を開始しましたが、比叡山延暦寺の衆徒を強く刺激します。
 翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
 遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。
 以下に、このことを描いた『方丈記』の福原遷都の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』福原遷都

<原文>

また、治承四年[1]水無月の比[2]、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京[3]のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇[4]の御時、都と定まりにけるより後、既に四百余歳[5]と経たり。ことなるゆゑ[6]なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことはりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて[7]、帝[8]より始め奉りて、大臣・公卿[9]みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思ひをかけ、主君のかげ[10]を頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ[11]世に余されて[12]期する所なきもの[13]は愁へながら止まり居り、軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[14]淀河に浮び[15]、地は目のまへに畠となる。人の心みな改りて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし[16]。西南海[17]の所領を願ひて、東北[18]の庄園を好まず。その時、おのづから事の便りありて、津の国[19]の今の京[20]に至れり。所のありさまを見るに、その地、程狭くて条里を割る[21]に足らず。北は山に沿ひて高く南は海に近くて下れり `波の音常にかまびすしく[22]て塩風殊にはげしく内裏は山の中なればかの木丸殿[23]もかくやとなかなか様変はりて優なるかたも侍りき。日々に毀ち川もせきあへず運びくだす家はいづくに作れるにかあらん。なほ空しき地は多く作れる家は少なし。古京[24]はすでに荒れて、新都[25]はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひ[26]をなせり。もとよりこの処に居たる者は地を失ひて愁へ今移り住む人は土木の煩ひあることを嘆く。道の辺[27]を見れば車に乗るべきは馬に乗り衣冠布衣[28]なるべきは直垂[29]を著たり。都のてぶり[30]忽ちに改りてただ鄙びたる[31]武士に異ならず。これは世の乱るる瑞相[32]とか聞きおけるもしるく日を経つつ世の中浮き立ちて人の心も治まらず民の愁へ遂に空しからざりければ同じ年の冬なほこの京[3]に帰り給ひにき。されど毀ち渡せりし家どもはいかになりにけるにか。悉くもとのやうにも作らず。ほのかに伝へ聞くにいにしへの賢き御代[33]には憐みをもて国を治め給ふ。即ち御殿に茅を葺きて軒をだに整へず[34]。煙の乏しき[35]を見給ふ時は限りある貢物[36]をさへ免されき、これ民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中の有様昔になぞらへて知りぬべし。

【注釈】

[1]治承四年:ちしょうよねん=1180年のこと。
[2]水無月の比:みなづきのころ=6月2日。
[3]この京:このきょう=平安京(京都)のこと。
[4]嵯峨の天皇:さがのてんのう=桓武天皇の誤り。
[5]四百余歳:よんひゃくよねん=正確には平安遷都後386年で、多少誇張しているか。
[6]ことなるゆゑ:ことなるゆえ=特別な根拠。
[7]いふかひなくて:いうかいなくて=言っても始まらないので。
[8]帝:みかど=安徳天皇のこと。
[9]大臣・公卿:だいじん・くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官と三位以上の有位者の貴族のこと。
[10]主君のかげ:しゅくんのかげ=主君の威光。
[11]時を失ひ:ときをうしない=出世の機会を失う。
[12]世に余されて:よにあまされて=世間から取り残されて。
[13]期する所なきもの:ごするところなきもの=将来に希望の持てない人。
[14]こぼたれて=取り壊されて。
[15]淀河に浮び:よどがわにうかび=家を壊した木材が筏となって淀川を流れ下って、福原まで運ばれたことを表現している。
[16]牛・車を用する人なし:うしくるまをようするひとなし=(公家風に)牛や車を使用する人がいない。
[17]西南海:せいなんかい=再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)のことで、平氏の勢力範囲だった。
[18]東北:とうほく=東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)のことで、源氏の勢力範囲だった。
[19]津の国:つのくに=摂津国のこと。
[20]今の京:いまのきょう=福原京のこと。
[21]条里を割る:じょうりをわる=土地の区画をする。
[22]かまびすしく=やかましく。騒々しく。うるさく。
[23]木丸殿:きのまろどの=削ったりみがいたりしない質素な丸木造りの宮殿。黒木造りの御所。とくに福岡県朝倉郡朝倉町にあった斉明天皇の行宮のこと。
[24]古京:こきょう=平安京(京都)のこと。
[25]新都:しんと=福原京のこと。
[26]浮雲の思ひ:うきぐものおもい=落ち着かない気持ち。
[27]道の辺:みちのべ=道のほとり。道ばた。また、道。
[28]衣冠布衣:いかんほい=公家男子の服装の一種。
[29]直垂:ひたたれ=武士の服装。
[30]てぶり=ならわし。風習。風俗。
[31]鄙びたる:ひなびたる=いなかふうになる。いなかくさく、やぼったくなる。いなかびる。
[32]瑞相:ずいそう=きざし。前兆。
[33]賢き御代:かしこきみよ=賢帝が治めていた時代。
[34]軒をだに整へず:のきをだにととのえず=軒さえ切り揃えなかった。
[35]煙の乏しき:けむりのとぼしき=民のかまどから上がる煙が少ない。
[36]貢物:くもつ=支配者に差出されるみつぎ物。領主に納入する年貢。

<現代語訳>

また、治承4年(1180年)6月の頃、急に遷都が行われた。とても予想外の事であった。だいたい、平安京の始まりを聞いていることには、嵯峨天皇の時代に、都として定まったより後、すでに400余年を経ている。特別な根拠もなくて、軽々しく変更すべきものでもないので、これを世間の人が不安に思って心配し合ったのも、実に当然の事であった。しかし、とやかく言っても始まらないので、安徳天皇をはじめ、大臣・公卿の全員がすべて移転してしまった。朝廷に仕えるほどの人であったならば、誰一人旧都に残るであろうか。`官位の昇進に望みをかけ、主君の威光を頼みとするほどの人は、一日でも早く移ろうと励み、出世の機会を失い世間から取り残されて将来に希望の持てない人は、愁えながら旧都に留まっていた。軒を並べていた人家は、日を経るごとに荒れていった。家は取り壊されて、家を壊した木材が筏となって淀川に浮かび、宅地は見る見るうちに畠となってしまった。人の考え方もみな改って、ただ(武家風に)馬・鞍ばかりが重宝とされている。(公家風の)牛や車を使用する人はいない。再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)の所領を願って、東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)の庄園は好まれない。その時、私(鴨長明)はたまたま用事のついでに、摂津国の福原京に行ってみた。その所の有様を見ると、その土地は、狭くて土地の区画をするのに足らない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。波の音は常に騒々しくて、塩風はとりわけ激しく、内裏は山の中なので、かの筑前朝倉に斉明天皇の造った行宮ももこうであったかと、なかなかに風変わりな情趣も感じられた。日々壊して、淀川もいっぱいになるほどに筏にして運び下す家は、どこに再建されたのであろうか。尚、空地は多く、建てられている家は少ない。平安京はすでに荒れて、福原京はいまだ完成されていない。ありとあらゆる人々は、みな落ち着かない気持ちでいた。以前からこの地にいる者は、土地を失って悲しみ、今移り住んできた人々は普請の煩わしさを嘆く。道路を見れば今までは牛車に乗るはずの公家が馬に乗り、公家男子の服装であるべき者は武士の服装を著ている。都の風俗はまたたく間に改まって、ただ田舎くさい武士に異ならない。これは世の中の乱れる前兆と聞いていたが全くそのとおり、日を経るにつれて世の中は騒がしくなり、人の心も動揺し、民衆の愁えはとうとう現実となったため、同じ年の冬、ついに平安京に還都された。しかし、破壊してしまった家々はどうなったのか。ことごとく元のように再建されたわけではなかった。わずかに伝え聞くところによれば、古代の賢帝が治めていた時代には、愛情をもって国を治められたという。すなわち、御殿に茅を葺いても、軒さえ切り揃えなかった。民のかまどから上がる煙が少ないをご覧になった時は、決められた税をさえ免ぜられた、これは、民に恩恵を与え、世を救済されたいとの思いからである。今の世の有様は、昔と比べて理解すべきである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1716年(享保元)画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日)詳細
1743年(寛保3)陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日)詳細
1859年(安政6)前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日)詳細
1907年(明治40)愛媛県の別子銅山で運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動)が始まる詳細
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 今日は、平安時代後期の1161年(応保元)に、第80代の天皇とされる高倉天皇の生まれた日ですが、新暦では9月23日となります。
 高倉天皇(たかくらてんのう)は、起用とにおいて、第77代とされる後白河天皇の第7皇子(母は皇太后平滋子建)として生まれましたが、名は憲仁(のりひと)と言いました。1163年(応保3)に、3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となり、1166年(仁安元)に6歳で立太子します。
 1168年(仁安3年2月19日)には、六条天皇の譲位を受けて8歳で即位して、第80代とされる天皇となりましたが、政務は父の後白河院が院政を敷きました。1172年(承安2)に、平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎え、1178年(治承2)には、中宮徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、生後間もなく皇太子とさせられます。
 1179年(治承3年11月)に平清盛がクーデタを起こし、後白河法皇を幽閉し院政をとどめ、軍事政権を敷くと翌年2月21日には、言仁親王(安徳天皇)に譲位して太上天皇となり、院政を開始しましたが、実権は平氏にありました。最初の社参を安芸の厳島神社に行なったものの、京都近辺の寺院勢力の反発を招き、反平氏連合をもたらして、以仁王の挙兵と諸国の源氏の蜂起をよび、源平争乱のきっかけとなります。
 同年6月の福原遷都へも同行しましたが、病に倒れ、1181年(治承5年1月14日)に、京都において、数え年21歳の若さで亡くなりました。尚、詩歌管絃に優れ、和歌は「新古今和歌集」にも入集し、特に笛は堪能だったとされています。

<代表的な歌>

・「薄霧の 立ちまふ山の もみぢ葉は さやかならねど それとみえけり」(新古今和歌集)
・「音羽山 さやかにみする 白雪を 明けぬとつぐる 鳥のこゑかな」(新古今和歌集)
・「白露の 玉もて結る ませのうちに 光さえ添ふ とこなつの花」(新古今和歌集)

〇高倉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1161年(応保元年9月3日) 後白河天皇の第七皇子(母は建春門院滋子)として生まれる
・1163年(応保3年) 3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる
・1166年(仁安元年10月10日) 6歳で立太子する
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇の譲位を受けて8歳で即位して、第80代とされる天皇となる
・1172年(承安2年) 平清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える
・1178年(治承2年11月12日) 中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生する
・1178年(治承2年12月15日) 生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とする
・1179年(治承3年11月) 平清盛がクーデタを起こし、後白河法皇を幽閉し院政をとどめ、軍事政権を敷く
・1180年(治承4年2月21日) 言仁親王(安徳天皇)に譲位して太上天皇となり、院政を開始する
・1180年(治承4年) 最初の社参を安芸の厳島神社に行う
・1180年(治承4年) 福原遷都へも同行する
・1181年(治承5年1月14日) 京都において、21歳で病没する
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 今日は、平安時代後期の1181年(治承5)に、平安時代末期の武将・公卿平清盛が亡くなった日ですが、新暦では3月20日となります。
 平清盛(たいら の きよもり)は、1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

〇平清盛関係略年表(日付は旧暦です)

・1118年(治承5)1月18日 伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれる
・1129年(大治4)1月6日 従五位下となる
・1129年(大治4)1月24日 左兵衛佐となる
・1131年(大治6)1月5日 従五位上となる
・1135年(長承4)1月5日 正五位下となる
・1135年(長承4)8月21日 従四位下となる
・1136年(保延2)4月7日 中務大輔となる
・1137年(保延3)1月30日 肥後守兼任となる
・1140年(保延6)11月14日 従四位上となる
・1146年(久安2)2月1日 正四位下となる
・1146年(久安2)2月2日 安芸守兼任、肥後守任替となる
・1153年(仁平3)1月15日 父忠盛が死没する
・1156年(保元元)7月6~11日 保元の乱が起こる
・1156年(保元元)7月11日 播磨守となる
・1158年(保元3)8月10日 大宰大弐となる
・1159年(平治元)12月9~26日 平治の乱が起こる
・1160年(永暦元)6月20日 正三位となる
・1160年(永暦元)8月11日 参議、大宰大弐如元となる
・1160年(永暦元)9月2日 右衛門督兼任となる
・1160年(永暦元)12月30日 大宰大弐を辞任する
・1161年(永暦2)1月23日 検非違使別当兼職、近江権守兼任となる
・1161年(永暦2)9月13日 権中納言、検非違使別当・右衛門督如元となる
・1162年(応保2)1月9日 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1162年(応保2)閏2月9日 検非違使別当・右衛門督兼職となる
・1162年(応保2)4月7日 皇太后宮権大夫兼任となる
・1162年(応保2)8月20日 従二位となる
・1162年(応保2)9月 検非違使別当・右衛門督両官職を辞任する
・1164年(長寛2) 平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納める
・1165年(長寛3)1月23日 兵部卿兼任となる
・1165年(長寛3)8月17日 権大納言、兵部卿・皇太后権大夫如元となる
・1166年(永万2)6月6日 正二位となる
・1166年(永万2)10月1日 春宮大夫兼任、兵部卿・皇太后宮権大夫両官を止む
・1166年(永万2)11月11日 内大臣となる
・1167年(仁安2)2月11日 従一位太政大臣となる
・1167年(仁安2)5月17日 太政大臣を辞任する
・1168年(仁安3)2月11日 法名を静(浄)海として出家する
・1168年(仁安3)3月20日 高倉天皇が即位する
・1169年(仁安4)6月17日 後白河上皇が出家し法皇となる
・1171年(承安元)12月14日 娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させる
・1177年(治承元)6月 鹿ケ谷の陰謀が起こる
・1178年(治承2)11月12日 娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産する
・1179年(治承3)閏7月29日 清盛の嫡子重盛が病死する
・1179年(治承3)11月 後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握する(治承三年の政変)
・1180年(治承4)4月22日 安徳天皇が即位する
・1180年(治承4)4月 以仁王が平氏追討の令旨を発する
・1180年(治承4)6月2日 京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれる
・1180年(治承4)6月10日 准三宮宣下
・1180年(治承4)8月17日 源頼朝が伊豆で挙兵する
・1180年(治承4)9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4)10月20日 富士川の戦いで、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4)12月28日 平重衡ら平氏軍が東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にする(南都焼討)
・1181年(養和元)閏2月4日 熱病に冒され薨去する
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