
1902年(明治35)に卒業後、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任したものの、翌年には辞任(挂冠の辞を発表)しました。1904年(明治37)に、東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散、翌年には、東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開きます。
1906年(明治39)に、電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となりました。1917年(大正6)に普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催し、翌年には、米騒動事件の弁護活動を行っています。
1921年(大正10)に神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立、翌年には、借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行しました。1923年(大正12)の関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(亀戸事件)において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走します。
また、台湾農民組合騒擾事件、木崎村小作争議をはじめ、各地の小作争議の弁護・救援にもあたりました。1928年(昭和3)の第16回衆議院議員選挙(最初の普通選挙)に労働農民党の公認候補として出馬しましたが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となります。
1929年(昭和4)に日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴され、1930年(昭和5)には、「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所にも起訴されました。1932年(昭和7)に弁護士資格を失った後、翌年に皇太子誕生恩赦で復活、赤色弁護士団事件に関連して、他の日本労農弁護士団員と共に検挙され、1939年(昭和14)には「治安維持法」違反で懲役2年の判決が確定、翌年の紀元2600年恩赦で出獄しています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に自由法曹団を再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表しました。1946年(昭和21)に食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張、1948年(昭和23)には、日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出されています。
1949年(昭和24)に三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となり、1952年(昭和27)の血のメーデー事件の弁護を行なうなど、一貫して人権擁護のために尽力してきましたが、翌年9月13日に、東京において、73歳で亡くなりました。