ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:社会主義者

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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、大杉栄らが日本社会主義同盟を結成した日です。
 日本社会主義同盟(にほんしゃかいしゅぎどうめい)は、大正時代の社会主義者が大同団結した組織です。1907年(明治40)の日本社会党の結党禁止以後、1910年(明治43)の大逆事件による大弾圧を経て、社会主義運動は「冬の時代」を迎えていました。
 その中で、第一次世界大戦、ロシア革命の勃発などの影響もあり、1918年(大正7)の米騒動後、急速に労働運動や普選運動の勢いが高まります。堺利彦の「進歩主義の思想的大同団結」の提唱を受けて、橋浦時雄、岩佐作太郎、山崎今朝弥らの社会主義者を中心に大同団結の機運が高まり、1920年(大正9)8月5日に、趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成されました。
 9月には、「新社会評論」を改題してて、機関誌「社会主義」が発刊され、各地で宣伝活動が進められます。発起人には堺、山川均らのマルクス主義者、大杉栄、近藤憲二らのアナルコ・サンディカリストと共に、著作家組合の大庭柯公らの文学者、友愛会や時計工組合などの労働組合、新人会や建設者同盟などの学生団体からの若い世代も名を連ね、11月には30名となりました。
 12月の創立大会には申込者が1,000名を超える中、12月9日に創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言し、翌日に結成の報告集会がなされます。同盟加入者は、創立当時3,000名にも及び、支部は大阪、神戸など5ヶ所に置かれ、翌年1月には、大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊されました。
 しかし、綱領・規約がなく思想的にも雑多で、統一運動も展開できず、弾圧が厳しくなる中で、5月9日に第2回大会を開催したものの、取締り当局の圧迫で解散を命ぜられ、同盟自身も同月28日結社禁止処分を受け、機関誌も9月号で停刊します。その後、アナーキズムとボルシェビズム両派はそれぞれ実際的行動を展開し、それぞれの立場から運動の再結集を図っていきました。

〇日本社会主義同盟関係略年表

<1920年(大正9)>

・8月5日 趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成される
・9月 「新社会評論」を改題してて「社会主義」が発刊される
・11月 発起人が30名となる
・12月9日 創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言をする
・12月10日 結成の報告集会がなされる

<1921年(大正10)>

・1月 大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊される
・5月9日 第2回大会を開催する
・5月28日 弾圧が厳しく解散を命ぜられ、機関誌も9月号で停刊する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上する(新暦841年1月5日)詳細
1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が発足する(新暦1868年1月3日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
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nishikawakoujirou01
 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、社会主義者西川光二郎が亡くなった日です。
 西川光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月29日に、兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれました。中学時代にキリスト教に入信し、札幌農学校で新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受けます。
 1896年(明治29)に上京して、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学んで、在学中に社会問題に関心を持ち、1897年(明治30)には、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊しました。1899年(明治32)に東京専門学校英語政治科を卒業後、毎日新聞社で社会労働問題に取り組みます。
 1900年(明治33)に社会主義協会の結成に参加、翌年の社会民主党創立にも参加しましたが2日後に結社禁止となり、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行しました。1903年(明治36)に平民社に入って、「平民新聞」の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対します。
 1905年(明治38)の平民社解散後は、「光」を創刊し、同年創立された日本社会党の機関紙も手掛けました。1906年(明治39)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われます。
 1907年(明治40)に社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属し、1908年(明治41)には、東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定して下獄しました。幸徳秋水の直接行動論に反対し、1910年(明治43)の大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行します。
 1914年(大正3)に自働道話社を興して「自働道話」を発刊し、孔子学舎を主宰して、全国で巡講を行いました。1940年(昭和15)に、北海道巡講中に病で倒れ、急きょ帰京し、10月22日に東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなっています。

〇西川 光二郎の主要な著作

・片山潜との共著『日本の労働運動』(1901年)
・『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』(1902年)
・『心懐語』(1910年)
・『改革者の心情』

☆西川 光二郎関係略年表

・1876年(明治9)4月29日 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれる
・1896年(明治29) 上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学ぶ
・1897年(明治30) 在学中に社会問題に関心を持ち、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊する
・1899年(明治32) 東京専門学校英語政治科を卒業する
・1900年(明治33) 社会主義協会の結成に参加する
・1901年(明治34) 社会民主党創立に参加、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行する
・1902年(明治33) 『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』を中庸堂より刊行する
・1903年(明治36) 平民社に入り、『平民新聞』の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対する
・1904年(明治37) 横浜に行き、相生座で開かれた社会主義演説会で、「弱者勝つ」を演説する
・1905年(明治38) 平民社が解散し、「光」を創刊する
・1906年(明治39) 日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われる(東京市電値上反対事件)
・1907年(明治40) 社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属する
・1908年(明治41) 東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定する
・1910年(明治43) 大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行する
・1914年(大正3) 自働道話社を興して「自働道話」を発刊する
・1940年(昭和15)10月22日 東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
2010年(平成22)囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜が生まれた日ですが、新暦では12月26日となります。
 片山潜(かたやま せん)は、美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれましたが、幼名は菅太郎(すがたろう)と言いました。1877年(明治10)に神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となり、1880年(明治13)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学したものの、翌年には退学して上京、攻玉社で塾僕として勤務します。
 1884年(明治17)にアメリカ合衆国へ渡り、1886年(明治19)にキリスト教の洗礼を受け、苦学して、1892年(明治25年)にグリンネル大学を卒業後、大学院に進み文学修士となり、エール大学でも学び、学位(神学士)を取得して、1896年(明治29)に帰国しました。東京専門学校の主任講師として英語を教えるも、3ヶ月で解職となり、「六合雑誌」に「米国に於ける社会学の進歩」等を寄稿しています。
 1897年(明治30)に東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行い、中村太八郎の社会問題研究会結成に加わり、社会政策学会への加入も認められ、「労働世界」を創刊し主筆も務めました。1898年(明治31)に村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成、1901年(明治34)には、日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加します。
 1903年(明治36)に「都市社会主義」を刊行、再度渡米して、翌年には、アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれました。帰国後、1906年(明治39)に日本社会党結成に参加、議会政策を巡って、直接行動論の幸徳秋水と対立、翌年に「社会新聞」を発刊、田添鉄二らと日本社会平民党を結成しましたが、2日後に結社禁止となります。
 1910年(明治43)に大逆事件が起き、翌年に幸徳秋水らが処刑される中、東京市電ストを指導して検挙されました。1912年(大正元)に大正天皇即位の大赦によって出獄、1914年(大正3)にアメリカへ亡命し、1917年(大正6)のロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動、1921年(大正10)には、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となります。
 1922年(大正11)にモスクワで開催された極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席しましたが、1933年(昭和8)11月5日に、モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られました。

〇片山潜の主要な著作

・『日本の労働運動』(1901年)
・『我社会主義』(1903年)
・『自伝』(1922年)
・『搾取なき社会への熱情』

☆片山潜関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1859年(安政6年12月3日) 美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれる
・1877年(明治10年)10月 神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる
・1880年(明治13年) 岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学する
・1881年(明治14年) 岡山師範学校を退学して上京、攻玉社にて塾僕として勤務する
・1884年(明治17年) 友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る
・1886年(明治19年)11月 組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける
・1892年(明治25年) アイオワ州のグリンネル大学を卒業後、大学院に進む
・1896年(明治29年) 学位を取得して帰国し、京専門学校の主任講師として英語を教えるものの、3ヶ月で解職となる
・1896年(明治29年)5月 「六合雑誌」第185号に「米国に於ける社会学の進歩」を寄稿する
・1897年(明治30年)3月1日 東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行う
・1897年(明治30年)4月 中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わる
・1897年(明治30年)10月3日 社会政策学会加入を認められる
・1897年(明治30年)12月1日 「労働世界」を創刊し主筆を務める
・1898年(明治31年) 村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成する
・1899年(明治32年)7月9日 活版工同志懇話会主催演説会で、高野房太郎・金井延との対立が明確化する
・1901年(明治34年)5月20日 社会主義研究会を改組した日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加する
・1901年(明治34年)9月21日 大日本労働団体連合本部の労資協調論を批判し脱退する
・1903年(明治36年)4月19日 「都市社会主義」を刊行する
・1903年(明治36年)12月 再度渡米する
・1904年(明治37年) アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれる
・1906年(明治39年) 日本社会党結成に参加。議会政策を巡って幸徳秋水と対立する
・1907年(明治40年) 「社会新聞」を発刊する
・1907年(明治40年)6月25日 田添鉄二らと日本社会平民党を結成する
・1907年(明治40年)6月27日 日本社会平民党が結社禁止となる
・1910年(明治43年) 大逆事件が起き、幸徳秋水らが検挙される
・1911年(明治44年) 東京市電ストを指導して検挙される
・1912年(大正元年)9月 大正天皇即位の大赦によって出獄する
・1914年(大正3年)9月9日 アメリカへ亡命する
・1917年(大正6年) ロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動する
・1921年(大正10年) ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる
・1922年(大正11年)1月22日 モスクワで開催の極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席する
・1933年(昭和8)11月5日 モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られる
・1990年(平成2年) 岡山県久米南町に記念館が建てられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

671年(天智天皇10)第38代の天皇とされる天智天皇の命日(新暦672年1月7日)詳細
1879年(明治12)小説家・随筆家永井荷風の誕生日詳細
1926年(大正15)最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始詳細
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