ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:短歌

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 今日は、奈良時代の785年(延暦4年)に、貴族・歌人大伴家持の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙の一人)で、718年(養老2)頃に、父大伴旅人、母丹比郎女の長男として生まれたとされています。
 少年時代の727年(神亀4)頃、父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)に帰京しました。738年(天平10)には内舎人となっていて、恭仁京を称える歌や故安積親王を傷む挽歌を詠み、745年(天平17)に従五位下に叙せられ、翌年7月越中守として赴任して、751年(天平勝宝3)少納言となって帰京しています。
 その後、754年(天平勝宝6)に兵部少輔となり、この頃防人たちの歌を書き留め、さらに757年(天平勝宝9)には兵部大輔と昇進しましたが、大伴一族の命運にかかわる事件が続いて、758年(天平宝字2)因幡守に左降されました。
 以後12年間に渡って、地方官を転々とした生活を送り、ようやく770年(宝亀1)6月に民部少輔となり、10月には21年ぶりで正五位下に昇叙したのです。
 それからは、諸官を歴任して780年(宝亀11)参議に任ぜられて公卿に列したものの、政争に巻き込まれ紆余曲折を経て、783年(延暦2)には、中納言となりました。
 翌年には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となりましたが、785年(延暦4年8月28日)に、68歳?で亡くなったのです。しかし、没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、首謀者とされて除名(806年(大同元)に復権)の上、子永主も隠岐に流されました。
 『万葉集』の編者の一人とも言われ、収載された歌が最も多く、長歌46、短歌425、旋頭歌1首、合計472首に上ります。

〇大伴家持の代表的な歌

・「雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき」
・「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも」
・「ふり放けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも
・「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(百人一首)
・「うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば」
・「燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く」
・「春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ」
・「卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴きわたる」
・「妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに」
・「沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む」
・「あしひきの山の木末の寄生とりて挿頭しつらくは千年寿くとぞ」
・「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて小鷹狩だにせずや別れむ」
・「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ」
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、歌人若山牧水か生まれた日です。
 若山牧水は、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した歌人で、本名は若山繁といいます。1885年(明治18)8月24日、宮崎県東臼杵郡東郷村(現在の日向市)に生まれ、旧制延岡中学校(現在の県立延岡高等学校)卒業後、早稲田大学予科を経て、早稲田大学文学部英文科に学びました。
 1905年(明治38)、尾上紫舟を中心に車前草社を結び、1910年(明治43)刊行の第3歌集『別離』によって歌人としての地位を確立、翌年、創作社を結成して主宰しました。
 自然主義の代表歌人で、歌集『路上』『くろ土』『山櫻の歌』などが知られています。酒と旅をこよなく愛し、日本中を旅行し、朝鮮半島へも出向いています。
 その歌は広く愛誦され、日本各地に歌碑が建てられていますが、『みなかみ紀行』をはじめ紀行文にも定評があり、各地を旅したものが残っています。
 1920年(大正9)に、沼津市の千本松原に居を構えますが、1928年(昭和3)9月17日に43歳の若さで没しました。旅と酒と自然を愛し、生涯で約8,600余首を詠んだのです。

<代表的な歌>
「幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」

〇若山牧水の主要な作品

<歌集>
 ・第1歌集『海の声』(1908年7月出版)
 ・第2歌集『独り歌へる』(1910年1月出版)
 ・第3歌集『別離』(1910年4月出版)
 ・第4歌集『路上』(1911年9月出版)
 ・第5歌集『死か芸術か』(1912年9月出版)
 ・第6歌集『みなかみ』(1913年9月出版)
 ・第7歌集『秋風の歌』(1914年4月出版)
 ・第8歌集『砂丘』(1915年10月出版)
 ・第9歌集『朝の歌』(1916年6月出版)
 ・第10歌集『白梅集』(1917年8月出版)
 ・第11歌集『さびしき樹木』(1918年7月出版)
 ・第12歌集『渓谷集』(1918年5月出版)
 ・第13歌集『くろ土』(1921年3月出版)
 ・第14歌集『山桜の歌』(1923年5月出版)
 ・第15歌集『黒松』(1938年9月出版)

<紀行文>
 ・『比叡と熊野』(1919年9月出版)
 ・『静かなる旅をゆきつつ』(1920年7月出版)
 ・『みなかみ紀行』(1924年7月出版)

☆『みなかみ紀行』とは?
 若山牧水の大正時代の紀行文で、牧水の紀行文中最長で、利根川の水源を訪ねるという意味で命名されました。
 1922年(大正11)10月14日沼津の自宅を立ち、長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する24日間の長旅の一部を綴ったものです。
 この旅のかなりの部分は、若い弟子達と代わる代わる連れ立っての徒歩旅行で、文中にその情景を歌った短歌が散りばめられているのです。
 現在、このルートはロマンチック街道と銘打って観光コース化されています。
 以下に、『みなかみ紀行』の冒頭部分を引用しておきます。

 十月十四日午前六時沼津發、東京通過、其處よりM―、K―、の兩青年を伴ひ、夜八時信州北佐久郡御代田驛に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌會に出席せんためである。驛にはS―、O―、兩君が新聞社の人と自動車で出迎へてゐた。大勢それに乘つて岩村田町に向ふ。高原の闇を吹く風がひし/\と顏に當る。佐久ホテルへ投宿。
 翌朝、まだ日も出ないうちからM―君たちは起きて騷いでゐる。永年あこがれてゐた山の國信州へ來たといふので、寢てゐられないらしい。M―は東海道の海岸、K―は畿内平原の生れである。
「あれが淺間、こちらが蓼科、その向うが八ヶ岳、此處からは見えないがこの方角に千曲川が流れてゐるのです。」
 と土地生れのS―、O―の兩人があれこれと教へて居る。四人とも我等が歌の結社創作社社中の人たちである。今朝もかなりに寒く、近くで頻りに山羊の鳴くのが聞えてゐた。
 私の起きた時には急に霧がおりて來たが、やがて晴れて、見事な日和になつた。遠くの山、ツイ其處に見ゆる落葉松の森、障子をあけて見て居ると、いかにも高原の此處に來てゐる氣持になる。私にとつて岩村田は七八年振りの地であつた。
 お茶の時に山羊の乳を持つて來た。
「あれのだネ。」
 と、皆がその鳴聲に耳を澄ます。
 會の始まるまで、と皆の散歩に出たあと、私は近くの床屋で髮を刈つた。今日は日曜、土地の小學校の運動會があり、また三杉磯一行の相撲があるとかで、その店もこんでゐた。床屋の内儀が來る客をみな部屋に招じて炬燵に入れ、茶をすすめて居るのが珍しかつた。
 歌會は新聞社の二階で開かれた。新築の明るい部屋で、麗らかに日がさし入り、階下に響く印刷機械の音も醉つて居る樣な靜かな晝であつた。會者三十名ほど、中には松本市の遠くから來てゐる人もあつた。同じく創作社のN―君も埴科郡から出て來てゐた。夕方閉會、續いて近所の料理屋の懇親會、それが果てゝもなほ別れかねて私の部屋まで十人ほどの人がついて來た。そして泊るともなく泊ることになり、みんなが眠つたのは間もなく東の白む頃であつた。

 (後略)
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 今日は、鎌倉時代の1241年(仁治2)に、公家・歌人藤原定家の亡くなった日ですが、新暦では9月26日となります。
 藤原定家は、鎌倉時代前期の公家・歌人で、名は「さだいえ」とも呼ばれます。1162年(応保2)に、父は藤原俊成、母は美福門院加賀の子として生まれました。
 14歳のときに赤斑瘡、16歳には痘という重病にかかり、生死の境をさまよいますが回復し、早くから歌才を発揮していたものの、1178年(治承2)3月の賀茂別雷社の歌合に出詠して、歌人として出発します。
 1180年(治承4)従五位上への昇叙により、内の昇殿が認められ、この頃から和歌に専念し始め、『初学百首』を詠みました。そして、1183年(寿永2)に父藤原俊成が後白河上皇の命により『千載和歌集』の編纂を行うことになって、それを手伝います。
 しかし、1186年(文治2)和歌革命を行い(「二見浦百首」)、六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」との誹謗を受け、長く苦境にあえぎました。
 その後、1200年(正治2)に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され、翌年に和歌所が置かれると、寄人に選ばれたのです。さらに、『新古今和歌集』の編纂を藤原有家、源通具、藤原家隆・雅経、寂蓮らと共に命じられて、歌人としての地位を確立しました。
 1211年(建暦元)に公卿、1232年(貞永元)に権中納言になり、『新勅撰和歌集』を単独で撰進するまでになったのです。
 1235年(文暦2)頃には、「小倉百人一首」を撰したとされていますが、1241年(仁治2年8月20日)に80歳で亡くなりました。
 主な著書に、家集「拾遺愚草」、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」、日記「明月記」などがあり、歌学歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残したのです。

〇藤原定家が関わった代表的な著作等

<勅撰和歌集>
・「新古今和歌集」第8番目の勅撰和歌集で後鳥羽院親撰
・「新勅撰和歌集」第9番目の勅撰和歌集で、藤原定家の単独撰

<家集等>
・「拾遺愚草」
・「拾遺愚草員外」
・「定家卿百番自歌合」
・「定家卿独吟詩歌」

<秀歌集>]
・「秀歌大体」
・「定家八代抄」
・「八代集秀逸」
・「百人秀歌」
・「物語二百番歌合」
・「小倉百人一首」

<歌学書・注釈書>
・「詠歌大概」
・「衣笠内府歌難詞」
・「近代秀歌」源実朝に送ったとされる
・「下官集」
・「顕註密勘」
・「五代簡要」
・「三代集之間事」
・「先達物語」
・「定家十体」
・「定家物語」
・「僻案抄」
・「毎月抄」
・「万葉集長歌短歌説」
・「和歌会次第」

<日記・物語等>
・「明月記」藤原定家の日記
・「松浦宮物語」
・「定家小本」
・「奥入」
・「釈奠次第」
・「次将装束抄」
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 今日は、歌人・詩人与謝野晶子が、1942年(昭和17)に亡くなった日で、最後の歌集『白櫻集』に因んで、白櫻忌と呼ばれています。
 与謝野晶子は、明治時代後期から、昭和時代前期にかけて活躍した歌人、詩人で、本名は、与謝野志ようといい、1878年(明治11)、大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれました。
 堺女学校補習科卒業後、家業の菓子屋を手伝いながら古典を独習しました。1900年(明治33)東京新詩社に加入し,翌年に22歳で上京することになります。その後、処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人として注目されるようになりました。
 そして、「明星」の主宰者与謝野鉄幹と結婚することになります。それからは、鉄幹と共に浪漫主義詩歌運動を進めながら、社会評論、文化学院の創設など、多方面で活躍することになりました。
 歌集「火の鳥」、「小扇」、「舞姫」や詩歌集「恋衣」を残したほか、日露戦争に出征した弟を思う反戦詩「君死にたまふこと勿れ」や、源氏物語の現代語訳などでも知られています。
 12人の子どもを産み、育てましたが、1940年(昭和15)に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17)に、63歳で死去しました。

<代表的な歌>
「金色の 小さき鳥の かたちして いちょう散るなり 夕日の丘に」
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君」

※「君死にたまふこと勿れ」(きみしにたまふことなかれ)は、与謝野晶子著の詩で、明治時代後期の1904年(明治37)9月に、文芸誌『明星』に発表したものです。この年の2月に日露戦争がはじまり、晶子の弟籌三郎は7月、補充召集を受けて出征、第四師団第八連隊に所属し、日露戦争に加わっていました。弟は、前年結婚したばかりで、身重の新妻を残しての出征だったのです。戦火の中にいる弟を心配して詠んだものでしたが、文芸批評家大町桂月は、10月の雑誌『太陽』で、“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難しました。それに対して、晶子は、11月の『明星』に掲載した「ひらきぶみ」で、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と反論しています。
 以下に、「君死にたまふこと勿れ」を掲載しておきます。

「君死にたまふこと勿れ」
   
    旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて          
      與謝野 晶子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
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 今日は、1235年(文暦2)に、藤原定家によって「小倉百人一首」が完成されたことにちなむ百人一首の日とされています。
 これは、藤原定家著『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があって、この記載が、「小倉百人一首」の初出ではないかと考えられていることによります。その記述は以下のとおりです。

予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。
 
☆「小倉百人一首」とは?
 藤原定家が撰んだと言われる秀歌撰で、鎌倉時代の1235年(文暦2)頃に成立したと考えられています。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳天皇に至る約550年間に、貴族や僧侶などの歌人たちの間で詠まれた和歌から、百人の有力歌人の歌を一首ずつ選んだもので、すべて勅撰和歌集から集められています。その10の和歌集と選ばれた数を列挙しておきます。
 古今集(24首)、後撰集(7首)、拾遺集(11首)、後拾遺集(14首)、金葉集(5首)、詩花集(5首)、千載集(14首)、新古今集(14首)、新勅撰集(4首)、続後勅撰集(2首)
 京都の小倉山荘で撰ばれたので、この名があり、近世以後、歌ガルタとして広まりました。

〇「小倉百人一首」中の私の好きな歌を8首載せておきます。

・「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)
・「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」(小式部内侍)
・「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」(伊勢大輔)
・「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木」(権中納言定頼)
・「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり」(能因法師)
・「憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」(源俊頼朝臣)
・「村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ」(寂蓮法師)
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