ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:短歌

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 今日は、鎌倉時代の1204年(元久元)に、公家・歌人藤原俊成の亡くなった日ですが、新暦では12月22日となります。
 平安時代後期の1114年(永久2)に、父権中納言・藤原俊忠、母伊予守藤原敦家の娘の子として、京都で生まれました。
 10歳で父と死別し、葉室顕頼の養子となり、初め顕広(あきひろ)と名乗ります。1127年(大治2)に、従五位下に叙せられ、美作守に任官後は、加賀守、遠江守、三河守、丹後守などの国司を歴任し、その間、『為忠家百首』など藤原為忠の催しに参加、1138年(保延4)には藤原基俊の門弟になるなどして、歌人としての基礎を形成しました。
 『為忠家両度百首』、『述懐百首』などで認められ、1150年(久安6)に崇徳上皇主催の『久安百首』の作者の一人となり、かつその部類を任されて頭角を現します。
 1167年(仁安元)には、正三位に昇叙して公卿(非参議)となり、そして御子左流に復し、俊成(としなり・しゅんぜい)と改名しました。
 1183年(寿永2)後白河院の院宣を受け、1188年(文治4)に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となります。
 幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをし、歌論『古来風体抄』、家集『長秋詠藻』『俊成家集』などのほか、書の名筆を多く遺しましたが、1204年(元久元年11月30日)に、91歳で亡くなりました。
 尚、子供は藤原定家で、以来歌道に重きをなす家柄を築きます。
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、歌人・美術史家・書道家会津八一の亡くなった日ですが、八一忌または秋艸忌とも呼ばれています。
 会津八一は、明治時代前期の1881年(明治14)8月1日に、新潟県蒲原郡新潟町(現在の新潟市中区古町通五番町)で、生まれました。
 1900年(明治33)に新潟尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を卒業後、東京専門学校(1902年から早稲田大学)に入学します。
 1906年(明治39)早稲田大学英文科を卒業後新潟に戻り、私立有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)の英語教員となりましたが、この頃から、奈良の仏教美術に興味を持つようになり、短歌を始めました。
 1910年(明治43)に坪内逍遙の招聘により、上京して早稲田中学校の英語教員となり、1913年(大正2)には、早稲田大学英文科講師を兼任するようになります。1918年(大正7)に、38歳の若さで早稲田中学校の教頭に就任し、奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくりました。
 1924年(大正13)には、第一歌集『南京新唱』を刊行、翌年には早稲田高等学院教授となりました。1926年(大正15)以降は、早稲田大学で東洋美術史を講じるようになり、1931年(昭和6)には、早稲田大学文学部教授となったのです。
 1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」をもって文学博士の学位を授与され、1940年(昭和15)『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』、1942年(昭和17)『渾斎随筆』、1944年(昭和19)歌集『山光集』をそれぞれ刊行しました。
 1945年(昭和20)には、早稲田大学教授を辞任、空襲により罹災したため、新潟に帰郷します。奈良の古美術などを主題にした、総ひらがなの万葉調和歌や独特の書で知られ、太平洋戦争後は、1950年(昭和25)の『会津八一全歌集』で読売文学賞を受賞、翌年には新潟市名誉市民ともなりましたが、1956年(昭和31)11月21日に、75歳で亡くなりました。

〇会津八一の代表的著作

<論文>
・『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)

<歌集>
・『南京新唱(なんきょうしんしょう)』(1924年)
・『南京余唱』(1934年)
・『村荘雑事』(1934年)
・『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』(1940年)
・『山光集』(1944年)
・『山鳩』(1945年)
・『寒燈集(かんとうしゅう)』(1947年)
・『會津八一全歌集』(1951年)
・『自註 鹿鳴集』(1953年)
・『春日野(かすがの)の歌』(1955年)

<随筆集>
・『渾斎随筆』(1942年)

<書跡集>
・『遊神帖』(1947年)
・『渾齋近墨』(1941年)
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治19)に歌人・小説家吉井勇の生まれた日です。
 吉井勇は、明治時代後期から昭和時代に活躍した歌人・小説家で、1884年(明治19)10月8日に鹿児島藩士吉井友実の孫として伯爵家に生まれました。
 早稲田大学政治経済科を中退し、1905年(明治38)に与謝野鉄幹が主宰する新詩社に19歳で入りました。その2年後に、与謝野鉄幹に連れられて「五足の靴」の旅をすることになったのです。
 『明星』を代表する歌人として知られましたが、1907年(明治40)新詩社から脱退し、白秋たちと翌1908年(明治41)「パンの会」を結成しました。
 1909年(明治42)には『スバル』創刊に参加し、中心的な役割を果たしましたが、1960年(昭和35)11月19日に、75歳で没しています。
 代表作は、歌集「酒ほがひ」、「祇園歌集」、戯曲「午後三時」、小説集「蝦蟆鉄拐」などです。

〇「五足の靴」とは?
 明治時代後期の1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。
 その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。
 いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32劼鯏綿發嚢圓部分が印象的です。一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せました。
 その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われ、白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。
 尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。

☆吉井勇の主要な作品

・『酒ほがひ』昂発行所 1910年刊
・『午後三時 戯曲集』東雲堂 1911年刊
・『水荘記』東雲堂 1912年刊
・『夜 戯曲』春陽堂(現代文芸叢書) 1912年刊
・『恋人』たちばなや 1913年刊
・『昨日まで』籾山書店 1913年刊
・『恋愛小品』籾山書店 1913年刊
・『ねむりぐさ 漫画漫筆』大屋書店 1913年刊
・『恋慕流し』植竹書院(現代和歌選集叢書) 1915年刊
・『初恋』籾山書店 1915年刊
・『東京紅燈集』新潮社 1916年刊
・『俳諧亭句楽』通一舎 1916年刊
・『黒髪集』千章館 1916年刊
・『明眸行』天弦堂書房 1916年刊
・『舞姿 祇園画集』長田幹彦共著 中沢弘光画 阿蘭陀書房 1916年刊
・『新訳絵入伊勢物語』竹久夢二画 阿蘭陀書房 1917年刊
・『祇園双紙』新潮社 1917年刊
・『麻の葉集』平和出版社 1917年刊
・『髑髏尼 脚本』平和出版社 1917年刊
・『狂芸人 戯曲』春陽堂 1917年刊
・『河霧』春陽堂(自然と人生叢書) 1918年刊
・『鸚鵡石 歌集』玄文社 1918年刊
・『草珊瑚 自歌自釈』東雲堂 1918年刊
・『一代女 西鶴物語』春陽堂 1918年刊
・『毒うつぎ』南光書院(歌集叢書) 1918年刊
・『句楽の話』玄文社 1918年刊
・『旅情』新潮社 1919年刊
・『河原蓬 歌集』春陽堂 1920年刊
・『浮世絵の顔』北野恒富画 新錦絵帖 1の巻 大鐙閣 1920年刊
・『吉井勇選集』与謝野晶子編 アルス名歌選 1921年刊
・『髑髏舞』新潮社(現代脚本叢書) 1921年刊
・『生霊』日本評論社出版部 1921年刊
・『句楽の死』金星堂名作叢書 1922年刊
・『狂へる恋』新潮社 1922年刊
・『杯』玄文社 1924年刊
・『夜の心』プラトン社 1924年刊
・『暁鐘』四紅社 1925年刊
・『最後の接吻・劇場入口の半時間・鴎の死骸』春陽堂(ラヂオドラマ叢書) 1925年刊
・『墨水十二夜』聚芳閣 1926年刊
・『恋ぐさ 自歌自釈』交蘭社 1926年刊
・『新釈百人一首夜話』交蘭社 1926年刊
・『悪の華』宝文館 1927年刊
・『生ひ立ちの記 歌ものがたり集』不二書房 1928年刊
・『玉蜻 歌集』交蘭社 1928年刊
・『鸚鵡杯 歌集』太白社 1930年刊
・『短歌入門』誠文堂文庫 1932年刊
・『人間経 歌集』政経書院 1934年刊
・『娑婆風流』岡倉書房 1935年刊
・『わびずみの記』政経書院 1936年刊
・『天彦 歌集』甲鳥書林 1939年刊
・『洛北随筆』甲鳥書林 1940年刊
・『風雪 歌集』八雲書林 1940年刊
・『相聞歌物語』甲鳥書林 1940年刊
・『遠天 歌集』甲鳥書林 1941年刊
・『短歌歳時記』臼井書房 1942年刊
・『雷 歌随筆』天理時報社 1942年刊
・『朝影 歌集』墨水書房 1943年刊
・『百日草』桜井書店 1943年刊
・『歌境心境』湯川弘文社 1943年刊
・『蓮月 戯曲』大雅堂 1943年刊
・『玄冬』創元社 1944年刊
・『京洛史蹟歌』大雅堂 1944年刊
・『旅塵』桜井書店 1944年刊
・『寒行 歌集』養徳社 1946年刊
・『流離抄』創元社 1946年刊
・『墨宝抄』鎌倉文庫 1947年刊
・『不夜庵物語』星林社 1947年刊
・『市井夜講』新月書房 1947年刊
・『残夢』創元社 1948年刊
・『恋愛名歌物語』創元社 1951年刊
・『蝦蟆鉄拐』中央公論社 1952年刊
・『源氏物語 現代語縮訳版』創元社 1952年刊
・『東京・京都・大阪 よき日古き日』中央公論社 1954年刊
・『形影抄 歌集』甲鳥書林 1956年刊
・『京の歌ごよみ』ダヴィッド社 1957年刊
・『京都歳時記』修道社 1961年刊
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 今日は、1867年(慶応3)に、俳人・歌人 正岡子規の生まれた日ですが、新暦では10月14日となります。
 正岡子規は、明治時代に活躍した俳人・歌人で、本名を常規といい、俳句の革新運動を展開しました。1867年(慶応3)に、伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市)の松山藩下級武士の家の長男として生まれ、幼名は処之助と言いました。
 旧制松山中学(現在の松山東高)を中退後、1883年(明治16)に上京し、俳句を作るようになります。大学予備門を経て1890年(明治23)、帝国大学文科大学哲学科(現在の東京大学文学部)に入学し、後に、国文科に転科しました。
 しかし、1892年(明治25)に大学中退を決意し、家族を東京に呼び寄せ、日本新聞社に入社して、俳句の革新運動を展開することになります。
 1895年(明治28)に日清戦争に従軍記者として赴きましたが、喀血し、結核を悪化させて帰国しました。各地で療養後は、東京の子規庵て病床生活を送ることになりましたが、病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進したのです。
 その間、俳誌「ホトトギス」の刊行を支援し、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張し、写生文も提唱しました。
 また、門下として高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節、河東碧梧桐などを育てましたが、1902年(明治35)9月19日に36歳の若さで亡くなったのです。病床で書いた随筆『病牀六尺』や日記『仰臥漫録』が知られています。
 尚、1981年(昭和56)に故郷の愛媛県松山市に「松山市立子規記念博物館」が開館しました。

<代表的な句>
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」、「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
<代表的な歌>
「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり」

〇「歌よみに与ふる書」とは?

 正岡子規の歌論書で、明治時代後期の1898年(明治31)に、新聞『日本』に10回にわたって連載されました。この書では、「万葉集」、「金槐和歌集」に高い評価を与えて、万葉調への回帰と写生による短歌を提唱し、和歌革新運動の推進力となったのです。
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、民俗学者・国文学者・詩人・歌人 折口信夫(釈迢空)の亡くなった日です。
 折口信夫(おりくちしのぶ)は、大正時代から昭和時代に活躍した民俗学者、国文学者、国語学者で、釈迢空(しゃく ちょうくう)の号を持つ詩人・歌人でもありました。
 明治時代前期の1887年(明治20)2月11日に、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)で、医者・商家の父秀太郎、母こうの4男として生まれます。1905年(明治38)に大阪府第五中学校を卒業し、國學院大学予科から本科へと進みますが、在学中から短歌創作に励むようになりました。
 卒業後、大阪の今宮中学の教員となったものの、2年余で辞して上京し、短歌創作と国文学研究に情熱を傾けます。1917年(大正6)私立郁文館中学校教員となり、『アララギ』の同人となり、また民俗学者柳田國男にも傾倒していきました。
 1919年(大正8)には、國學院大学講師となり、万葉辞典を刊行したり、民俗採訪のための旅に出たりし、1922年(大正11)には、國學院大学教授となります。翌年には、慶応義塾大学講師ともなり、民俗学研究や詩人としても活躍し、代表作『古代研究』 (1929~30年)、歌集『春のことぶれ』 (1930年)、小説『死者の書』 (1939年) などを出しました。
 それらが認められ、1948年(昭和23)詩集『古代感愛集』で日本芸術院賞を受賞し、第一回日本学術会議会員にも選出されたのです。しかし、1953年(昭和28)9月3日に、66歳で亡くなりました。
 その他、歌集に『海やまのあひだ』(1925年)、『水の上』(1948年)、『遠やまひこ』(1948年)、『倭をぐな』(1955年)、詩集に『近代悲傷集』(1952年)、『現代襤褸集』(1956年)などがあり、彼の達成した研究は「折口学」とも呼ばれています。
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