ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:短歌

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、歌人島木赤彦の亡くなった日で、「赤彦忌」とも呼ばれています。
 島木赤彦は、明治時代前期の1876年(明治9)12月16日に、長野県諏訪郡上諏訪村(現在の諏訪市元町)に旧諏訪藩士の父・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれましたが、本名は、俊彦と言いました。
 代用教員を務めた後、1894年(明治27)に、長野県尋常師範学校(現在の信州大学教育学部)に入学します。在学中に文学に親しみ、短歌や俳句などを作り、諸雑誌に投稿したりしていましたが、1897年(明治30)には久保田家の養嗣子となりました。
 翌年、師範学校を卒業し、小学校の教員となりながらも作歌を続け、1903年(明治36)には、岩本木外らと『比牟呂』を創刊、翌年には伊藤左千夫の門に入ります。1908年(明治41)に『アララギ』が創刊されると『比牟呂』をこれに合併し、有力歌人として活動、1913年(大正2)には、中村憲吉との共著で第一歌集『馬鈴薯の花』を出しました。
 翌年に上京して、私立淑徳高等女学校の講師をしながら、伊藤左千夫、長塚節没後の『アララギ』の編集にあたります。斎藤茂吉とともに短歌における写生道と鍛錬道を強調し、「万葉集」の研究にもいそしみました。
 『アララギ』の歌壇的進出に大きく寄与しすると共に、歌集や歌論なども発表しましたが、1926年(大正15)3月27日に、長野県諏訪郡下諏訪町の自宅において、49歳で亡くなります。

<代表的な短歌>

「或(あ)る日わが庭のくるみに囀(さへず)りし小雀(こがら)来らず冴(さ)え返りつつ」
「信濃路(しなのじ)はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ」
「隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁(し)みて生きたかりけり」

〇島木赤彦の主要な作品

・第一歌集『馬鈴薯の花』 中村憲吉との共著 (1913年)
・第二歌集『切火(きりび)』(1915年)
・第三歌集『氷魚(ひお)』(1920年)
・『赤彦童謡集』 (1922年)
・第四歌集『太虗集(たいきょしゅう)』(1924年)
・歌論『歌道小見』 (1924年)
・『万葉集の鑑賞及び其批評』 上巻のみで未完(1925年)
・第五歌集『蔭集(しいんしゅう)』(1926年)
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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、詩人・歌人与謝野寛(鉄幹)の亡くなった日です。
 本名は、与謝野寛といい、1873年(明治6)2月26日、京都府岡崎町(現在の京都市左京区)で、僧侶であった父・与謝野礼厳、母・初枝の4男として生まれました。
 幼くして仏典、漢籍、国書を学び、早くから才を見せ、1889年(明治22)に西本願寺で僧侶となります。
 その後、山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の寺に赴き、徳山女学校の教員となり3年ほど勤めましたが、問題を起こして退職し、京都に戻ります。
 1892年(明治25)に上京し、落合直文の弟子となり、「浅香社」という結社を落合を中心にうち立てて、1894年(明治27)に歌論「亡国の音」を発表して、新しい和歌を提唱しました。
 1899年(明治32)には東京新詩社を創立、ここを母体としてまだ27歳の若さで、1900年(明治33)に『明星』を創刊することになります。さらに翌1901年、新詩社社友となって『明星』に短歌を発表していた当時23歳の晶子を妻としました。新派和歌運動に貢献し、口語詩を主張し、妻晶子と共に浪漫主義文学運動を進めます。
 1905年(明治38)には「鉄幹」の号を使わなくなり、1907年(明治40)には、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里を引き連れて九州を旅し、共同で紀行『五足の靴』を発表しました。
 1911年(明治44)には、晶子と共に、フランス、ロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪します。その後、1919年 (大正8) から1932年 (昭和7) まで13年間、慶応義塾大学の教授も勤めましたが、1935年(昭和10)3月26日に、東京において63歳で没しました。

〇与謝野寛(鉄幹)の主要な作品

・歌論『亡国の音(おん)』(1894年)
・詩歌集『東西南北』(1896年)
・詩歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』(1897年)
・詩歌集『鉄幹子』(1901年)
・詩歌集『紫』(1901年)
・詩歌集『うもれ木』(1902年)
・詩歌集『毒草(どくぐさ)』与謝野晶子と共著(1904年)
・紀行『五足の靴』北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里と共著(1907年)
・詩歌集『(かし)の葉』(1910年)
・歌集『相聞(あいぎこえ)』(1910年)
・紀行『巴里(パリ)より』与謝野晶子と共著(1914年)、
・訳詩集『リラの花』(1914年)
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、医師・歌人斎藤茂吉の亡くなった日で、「茂吉忌」とも呼ばれています。
 斎藤茂吉は、明治時代前期の1882年(明治15)5月14日に、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)の農家において、父・守谷熊次郎、母・いくの三男として生まれました。
 地元の高等小学校卒業後、1896年(明治39)に上京、親戚の開業医斎藤紀一方に寄寓して、開成中学へ通います。1902年(明治35)に、旧制第一高等学校理科三部に入学し、1905年(明治37)には、斎藤家に婿養子として入籍する一方で、東京帝国大学医科大学に進学しました。
 翌年、伊藤左千夫の門下となって、歌誌『馬酔木』に短歌を発表するようになりました。1900年(明治43)に大学卒業後は、精神医学を専攻し、巣鴨病院に勤務します。
 1913年(大正2)の第1歌集「赤光」で注目されて、アララギ派の代表的歌人となりました。1917年(大正6)に長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)教授となり、1921年(大正10)に第2歌集『あらたま』出版後、ウィーン、ミュンヘンに留学します。
 1925年(大正14)帰国し、翌年の島木赤彦没後は歌誌『アララギ』の編集責任者ともなり、1927年(昭和2)から養父に代わって青山脳病院長に就きました。
 1937年(昭和12)に帝国芸術院会員、1940年(昭和15)には、評論『柿本人麿』の業績により帝国学士院賞を受賞します。
 太平洋戦争中の1945年(昭和20)に、一時郷里山形県に疎開しましたが、戦後は東京に戻って活躍し、1949年(昭和24)に歌集『ともしび』で読売文学賞詩歌賞を受賞、1951年(昭和26)には文化勲章も受章しました。
 このように、数々の栄誉に輝いたものの、1953年(昭和28)2月25日に、東京の自宅にて70歳で亡くなります。

〇斎藤茂吉の主要な作品

・歌集『赤光』(1913年)
・歌論集『短歌私鈔(ししょう)』(1916年)
・歌論集『童馬漫語』(1919年)
・歌集『あらたま』 (1921年)
・歌論集『短歌写生の説』(1929年)
・随筆『念珠集』(1930年)
・評論『柿本人麿』 (1934~40年)
・歌集『暁紅(ぎょうこう)』(1940年)
・歌集『寒雲』(1940年)
・歌集『白桃(しろもも)』(1942年)
・随筆『童馬山房夜話』(1944~46年)
・歌集『つゆじも』(1946年)
・歌集『遠遊』(1947年)
・歌集『遍歴』(1948年)
・歌集『小園(しょうえん)』(1949年)
・歌集『白き山』 (1949年)
・歌集『ともしび』 (1950年)
・論争『歌壇夜叉(やしゃ)語』(1951年)
・歌集『つきかげ』(1954年)
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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、歌人・詩人石川啄木の生まれた日です。
 石川啄木の本名は、石川一といい、1886年(明治19)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市)の常光寺で生まれました。
 その後、渋民村に移住し、宝徳寺で育ち、岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に学びます。中学中退後は、明星派の詩人として出発し、1905年(明治38)に20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として将来を期待されるようになりました。
 しかし、生活は厳しく、郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者などを転々とした後で、1908年(明治41)上京し、東京朝日新聞の校正係の職に就きます。
 1910年(明治43)に、歌集「一握の砂」を出版し注目されました。大逆事件で社会主義思想に接近しますが、1912年(明治45)4月13日、困窮のうちに結核により、26歳の若さで死去しました。
 代表作に、評論「時代閉塞の現状」、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』、小説「雲は天才である」などがあります。

<代表的な歌>
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」
「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」
「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」
「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」
「石をもて追はるがごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」

〇石川啄木の主要な作品
・詩集『あこがれ』(1905年)
・小説『鳥影』(1908年)
・歌集『一握の砂』(1910年)
・歌集『悲しき玩具』(1910年)
・評論『時代閉塞の現状』(1910年)
・詩集『呼子と口笛』(1911年)
・小説『雲は天才である』
・日記『ローマ字日記』
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 今日は、鎌倉時代初期の1190年(文治6)に、武士・僧侶・歌人西行(さいぎょう)の亡くなった日ですが、新暦では3月31日となります。
 西行は、平安時代後期の1118年(元永元)に、藤原氏藤成流の父・検非違使左衛門尉佐藤康清、母・監物源清経の娘の子として生まれましたが、俗名は佐藤義清と言いました。
 1135年(保延元)に、左兵衛尉に任ぜられ、1137年(保延3)には、北面の武士として鳥羽上皇に仕えましたが、和歌のみならず、武芸、蹴鞠にも堪能であったとされています。
 しかし、1140年(保延6)に22歳で出家し、円位を名のり、嵯峨や鞍馬の奥などにこもり、また伊勢に下向したり、1144年(天養元)ごろには奥羽地方へも旅行しました。
 後に、高野山を本拠とする聖の生活に入り、真言宗に属しましたが、諸国を巡る漂泊の旅に出ながら、和歌を詠んだりしました。
 晩年は、伊勢国の二見浦近くにも数年住みましたが、藤原定家・家隆、寂蓮らに『二見浦百首』を勧進したり、『御裳濯河』『宮河』の2編の自歌合を編み、各々俊成、定家に加判を委嘱したりしています。
 その後、河内国の弘川寺(現在の大阪府南河内郡河南町)に庵居していた1190年(文治6年2月16日)に、73歳で亡くなりました。
 家集に『山家集』、『異本山家集』、『聞書集』、『聞書残集』、自撰の歌合に『御裳濯河歌合』、『宮河歌合』があり、『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入集第1位)など勅撰集にも多く入集していて、後の飯尾宗祇や松尾芭蕉らに影響をあたえたと言われています。

<西行の代表的な歌>

・「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」(『玉葉和歌集』より)
・「嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな」(『小倉百人一首』より)
・「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな」(『新古今和歌集』より)
・「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 佐夜の中山」(『新古今和歌集』より)
・「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」(『山家集』より)
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