ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:短歌

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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、歌人・国文学者窪田空穂の亡くなった日です。
 窪田空穂(くぼた うつぼ)は、1877年(明治10)6月8日に、長野県東筑摩郡和田村(現在の松本市和田)で、篤農家の窪田庄次郎の次男として生まれましたが、本名は通治(つうじ)と言いました。
 長野県尋常中学校(現在の県立松本深志高等学校)在学中から文学に親しみ、1895年(明治28)に無断上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科に入学します。しかし、翌年中退し、苦労を重ね長野県で小学校の代用教員をしている時に短歌を作るようになり、1899年(明治32)に創設された東京新詩社に参加しました。
 翌年に再上京し、東京専門学校文学科に復学、文学活動を本格的に始め、吉江孤雁らと同人雑誌「山比古」を創刊します。1904年(明治37)に卒業後、電報新聞社の社会部記者となり、翌年処女詩歌集『まひる野』を刊行、1906年(明治39)新聞社を辞め、独歩社に入社(翌年経営破綻)しました。
 1911年(明治44)に短編小説集『炉辺』を刊行、同年女子美術学校講師に就任します。翌年『空穂歌集』、歌論『評釈伊勢物語』を刊行、さらに1914年(大正3)に文芸誌「国民文学」を創刊して、「アララギ」と並ぶ歌壇の一大勢力を築きました。
 1920年(大正9)に早稲田大学文学部講師、1926年(大正15)同教授となり、翌年日本歌人協会成立と共に委員となります。人生を詠嘆する独自の歌風を立て、万葉・古今・新古今の評釈などにすぐれた業績を残し、1943年(昭和18)には芸術院会員となりました。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に早稲田大学を定年退職、その後も作歌活動を続け、1958年(昭和33)には文化功労者となりましたが、1967年(昭和42)4月12日に、東京において、89歳で亡くなっています。
 尚、1993年(平成5)に、生家のある長野県松本市和田に「窪田空穂記念館」が開館しました。

<代表的な短歌>
「はらはらと 黄の冬ばらの 崩れ去る かりそめならぬ ことの如くに」(「老槻(おいつき)の下」)
「東京へ 帰るとわれは 冬木原 つらぬく路の 霜踏みてゆく」
「かへり見て 我に付きくる 妻子らを 春の大路に 見つつさびしき」

〇窪田空穂の主要な著作

・詩歌集『まひる野』(1905年)
・歌集『明暗』水野葉舟と共著(1906年)
・小説『母』(1908年)
・小説『末子』(1909年)
・歌集『空穂歌集』(1912年)
・歌論『評釈伊勢物語』(1912年)
・歌集『濁れる河』(1915年)
・歌集『鳥声集』(1916年)
・歌集『土を眺めて』(1918年)
・歌集『朴の葉』(1920年)
・紀行集『日本アルプス縦走記』(1923年)
・歌集『鏡葉(かがみば)』(1926年)
・歌論『新古今和歌集評釈』上下(1932~33年)
・歌集『さざれ水』(1934年)
・歌論『古今和歌集評釈』上下(1935~37年)
・歌集『郷愁』(1937年)
・随筆集『忘れぬ中に』(1938年)
・歌集『冬日ざし』(1941年)
・歌論『万葉集評釈』(1943年)
・歌集『冬木原』(1951年)
・歌集『卓上の灯(ひ)』(1955年)
・歌集『丘陵地』(1957年)
・歌集『老槻の下』(1960年)
・歌集『去年(こぞ)の雪』(1967年)
・歌集『清明の節』(1968年)
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、歌人宮柊二が亡くなった日です。
 宮柊二(みや しゅうじ)は、大正時代の1912年(大正元)8月23日に、新潟県北魚沼郡堀之内町(現在の魚沼市)の書店を営むの父・宮保治と母・ツネの長男として生まれましたが、本名は肇と言いました。
 堀之内尋常高等小学校から、1925年(大正14)に旧制長岡中学(現在の県立長岡高等学校)に入学、在学中から作歌し、相馬御風主宰の歌誌「木蔭歌集」に投稿をしています。
 卒業後は家業を手伝っていましたが、1932年(昭和7)に上京し、種々の職業を転々としながら、北原白秋に師事して、歌作に磨きをかけ、1935年(昭和10)に『多磨(たま)』創刊に加わり、白秋の秘書となりました。1939年(昭和14)に日本製鐵へ入社、同年応召で中国各地を転戦し、足掛け5年兵士として過ごします。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に、処女歌集『群鶏』を刊行、戦後の現実と直面した第二歌集『小紺珠』(1948年)、従軍体験を結晶化した『山西省』(1949年)で戦後短歌の代表歌人となりました。
 1952年(昭和27)に『多磨』を解散、翌年にはコスモス短歌会の代表として、歌誌「コスモス」を創刊し、ここから多くの歌人が輩出します。
 1955年(昭和30)から、「朝日歌壇」の選者となり、1957年(昭和32)に、『定本宮柊二全歌集』で第11回毎日出版文化賞を受賞します。1962年(昭和37)に『多く夜の歌』で第13回読売文学賞、1976年(昭和51)に『濁石馬』で第10回迢空賞、1977年(昭和52)には、全歌業で日本芸術院賞、1983年(昭和58)に日本芸術院会員など、数々の栄誉に輝きました。しかし、1986年(昭和61)12月11日に、東京において、74歳で亡くなっています。
 尚、1992年(平成4)、出生地の新潟県魚沼市に「宮柊二記念館」が開館しました。

<代表的な短歌>

・「戦ひを終りたる身をあそばせて岩むらがれる谷川を越ゆ」
・「一本の蝋(ろう)燃(もや)しつつ妻も吾(あ)も暗き泉を聴くごとくゐる」
・「わが裡(うち)に過ぎし日本のなつかしと赤き燠(おき)見てしばし遊びつ」(日本挽歌)
・「ふるさとは影置く紫蘇も桑の木も一様に寂し晩夏のひかり」

〇宮柊二の主要な著作

・第一歌集『群鶏』(1946年)
・第二歌集『小紺珠』(1948年)
・歌集『山西省』(1949年)
・歌集『晩夏』(1951年)
・歌集『日本挽歌』(1953年)
・歌集『多く夜の歌』(1961年)
・歌集『独石馬』(1975年)
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 今日は、平成時代の1990年(平成2)に、歌人・国文学者土屋文明の亡くなった日です。
 土屋文明(つちや ぶんめい)は、1890年(明治23)9月18日に、群馬県群馬郡上郊村(現在の高崎市)の繭・生糸の仲買を兼ねる小農の家に生まれました。
 高崎中学(現在の県立高崎高等学校)在学中から文学を志し、蛇床子の筆名で俳句や短歌を「アカネ」、「ホトトギス」に投稿します。卒業後、1909年(明治42)に上京して伊藤左千夫宅に寄寓、第一高等学校入学し、「アララギ」の同人となりました。
 1913年(大正2) 東京帝国大学へ進学し、第三次「新思潮」に参加、戯曲や小説を発表、『結婚生活』を翻訳刊します。1916年(大正5)に文学部哲学科を卒業し、翌年、「アララギ」選者となりました。
 1918年(大正7) 長野県諏訪高等女学校教頭として赴任、1920年(大正9)には同校校長となります。1924年(大正13)に帰京し、法政大学予科教授となり、翌年第1歌集『ふゆくさ』を刊行しました。
 1930年(昭和5)には斎藤茂吉から「アララギ」の編集発行人を引き継ぎ、第2歌集『往還集』も出して、歌人としての地位を確立しました。
 第3歌集『山谷(さんこく)集』(1935年)、第4歌集『六月風(ろくがつかぜ)』(1942年)、第5歌集『小安集』(1943年)などで即物的傾向をもつ文明調を確立します。
 終戦間近の1945年(昭和20)に、東京・青山の自宅を空襲により焼失し、群馬県吾妻郡原町(現在の東吾妻町)に疎開、6年半同地に留まりました。
 1952年(昭和27)に明治大学文学部教授、翌年に『万葉集私注』で日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員ともなります。1984年(昭和59)に文化功労者、1985年(昭和60)に『青南後集』で第8回現代短歌大賞を受賞、1986年(昭和61年)には文化勲章を受章するなど数々の栄誉に輝きました。
 しかし、1990年(平成2)12月8日に、東京において、100歳で亡くなっています。

〇土屋文明の主要な著作

・第1歌集『ふゆくさ』(1925年)
・第2歌集『往還集』(1930年)
・第3歌集『山谷(さんこく)集』(1935年)
・『短歌入門』(1937年)
・第4歌集『六月風(ろくがつかぜ)』(1942年)
・第5歌集『小安集』(1943年)
・歌論集『短歌小径』(1944年)
・第6歌集『韮菁(かいせい)集』(1946年)
・第7歌集『山下水(やましたみず)』(1948年)
・『万葉集私注』20巻(1949~56年)
・第8歌集『自流泉(じりゅうせん)』(1953年)
・『新編短歌入門』(1955年)
・第9歌集『青南集』(1967年)
・第10歌集『続青南集』(1967年)
・第11歌集『続々青南集』(1973年)
・第12歌集『青南後集』(1985年)
・第13歌集『青南後集以後』(1991年)
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、歌人・国文学者佐佐木信綱(ささき のぶつな)の生まれた日ですが、新暦では7月8日となります。
 佐佐木信綱は、三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、歌人・国学者佐々木弘綱の長男として生まれました。
 幼いころから父に歌学・国学を学び、11歳で父と共に上京して、高崎正風に入門します。1884年(明治17)に東京帝国大学文学部古典講習科に進学し、1888年(明治21)16歳で卒業しました。
 その後、父と共編で『日本歌学全書』全12冊(1890~91年)を刊行します。1896年(明治29)、森鴎外の『めざまし草』に歌を発表し、歌誌『いささ川』を創刊しました。
 父の死後は、「竹柏会」を継承して歌誌『こころの華』 (のち『心の花』と改題) を主宰して、『思草』(1903年)、『新月』(1912年)、『豊旗雲』(1929年)など12歌集を出すと共に、石榑千亦、木下利玄、川田順、片山広子、柳原白蓮、相馬御風ら多くの歌人を育成します。
 一方、万葉集の研究や和歌の史的研究などに励み、1905年(明治38)から26年間、東京大学で『万葉集』、歌学史、和歌史を講じ、『歌学論叢』 (1908年) 、『近世和歌史』 (1923年) などを著しました。
 さらに、橋本進吉,武田祐吉らとの共編で『校本万葉集』25巻 (1924~25年) などの著作を残し、これらの業績によって、1934年(昭和9)に帝国学士院会員、1937年(昭和12)には芸術院会員となり、第1回文化勲章も受章しています。
 太平洋戦争後も、歌集『山と水と』(1951年)を出したり、1952年(昭和27)に上代文学会の設立に関わったりしましたが、1963年(昭和38)12月2日に、静岡県熱海市において、91歳で亡くなりました。
 尚、童謡『雀(すずめ)』、唱歌『夏は来ぬ』、『勇敢なる水兵』などの作詞でも知られています。

<佐佐木信綱の代表的な歌>

・「ゆく秋の大和(やまと)の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」(「新月」より)
・「願はくはわれ春風に身をなして憂(うれひ)ある人の門(かど)をとはばや」
・「幼きは幼きどちのものがたり葡萄(ぶどう)のかげに月かたぶきぬ」
・「大門(だいもん)のいしずゑ苔(こけ)にうづもれて七堂伽藍(がらん)ただ秋の風」
・「白雲は空に浮べり谷川の石みな石のおのづからなる」

〇佐佐木信綱の主要な著作

・『日本歌学全書』12巻(父との共著・1890~91年)
・『続日本歌学全書』12巻(1897~1900年)
・歌集「思草(おもいぐさ)」(1903年)
・論文集『歌学論叢』(1908年)
・研究書『日本歌学史』(1910年)
・歌集『新月』(1912年)
・歌集『常盤木』(1922年)
・研究書『近世和歌史』(1923年)
・『校本万葉集』25巻(共編・1924~25年)
・歌集『豊旗雲』(1929年)
・研究書『国文秘籍解説』(1944年)
・歌集『山と水と』(1951年)
・『万葉集事典』(1956年)
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 今日は、平安時代前期の905年(延喜5)に、『古今和歌集』が醍醐天皇に奏上された日ですが、新暦では5月21日となります。
 これは、醍醐天皇の勅命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者となって編集し、905年(延喜5年4月15日)に奏上(注:仮名序では4月18日)された最初の勅撰和歌集で、『古今集』とも呼ばれていました。
 全二十巻からなり、仮名序と真名序の二つの序文があって、約1,100首を収め、春・夏・秋・冬など13に分類されています。ほとんどが短歌ですが、旋頭歌4首と長歌5首もあり、技巧的・観念的で、繊細・優美な歌が多く、「万葉集」の率直な写生の歌とは異なっていました。
 入集歌数が多いのは、紀貫之(102首)、凡河内躬恒(60首)、紀友則(46首)、壬生忠岑(36首)、素性(36首)、在原業平(30首)の順となっています。
 この歌集以後、勅撰和歌集が編集され、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。尚、1205年(元久2)成立の『新古今集』までの初めの8つを「八代集」とも呼んでいます。

<収載されている代表的な歌>
・「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)
・「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行)
・「冬がれの 野辺とわが身を 思ひせば 燃えても春を 待たましものを」(伊勢)
・「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)
・「桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」(紀貫之)
・「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)

〇勅撰和歌集(二十一代集)一覧

1 『古今和歌集』20巻・1,100首(醍醐天皇下命)905年成立[選者:紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑]
2 『後撰和歌集』20巻・1,425首(村上天皇下命)957-959年成立[選者:大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城]
3 『拾遺和歌集』20巻・1,351首(花山院下命)1005-07年成立[選者:花山院] 藤原公任『拾遺抄』の増補
4 『後拾遺和歌集』20巻・1,218首(白河天皇下命)1086年成立[選者:藤原通俊]
5 『金葉和歌集』10巻・650首(白河院下命)1126年成立(三奏本)[選者:源俊頼](三奏本) 世上に流布したのは10巻665首の二度本
6 『詞花和歌集』10巻・415首(崇徳院下命)1151年頃成立[選者:藤原顕輔]
7 『千載和歌集』20巻・1,288首(後白河院下命)1188年成立[選者:藤原俊成]
8 『新古今和歌集』20巻・1,978首(後鳥羽院下命)1205年成立[選者:源通具、藤原有家、藤原定家、飛鳥井雅経、寂蓮(実際は後鳥羽院親撰)]
9 『新勅撰和歌集』20巻・1,374首(後堀河天皇下命)1235年成立[選者:藤原定家]
10 『続後撰和歌集』20巻・1,371首(後嵯峨院下命)1251年成立[選者:藤原為家]
11 『続古今和歌集』20巻・1,915首(後嵯峨院下命)1265年成立[選者:藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良]
12 『続拾遺和歌集』20巻・1,459首(亀山院下命)1278年成立[選者:二条為氏]
13 『新後撰和歌集』20巻・1,607首(後宇多院下命)1303年成立[選者:二条為世]
14 『玉葉和歌集』20巻・2,800首(伏見院下命)1312年成立[選者:京極為兼]
15 『続千載和歌集』20巻・2,143首(後宇多院下命)1320年成立[選者:二条為世]
16 『続後拾遺和歌集』20巻・1,353首(後醍醐天皇下命)1326年成立[選者:二条為藤、二条為定]
17 『風雅和歌集』20巻・2,211首(花園院監修、光厳院下命)1349年成立[選者:光厳院(親撰)]
18 『新千載和歌集』20巻・2,365首(後光厳天皇下命)1359年成立[選者:二条為定]
19 『新拾遺和歌集』20巻・1,920首(後光厳天皇下命)1364年成立[選者:二条為明、頓阿]
20 『新後拾遺和歌集』20巻・1,554首(後円融天皇下命)1384年成立[選者:二条為遠、二条為重]
21 『新続古今和歌集』20巻・2,144首(後花園天皇下命)1439年成立[選者:飛鳥井雅世]
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