ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:直木賞作家

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の亡くなった日です。
 景山民夫(かげやま たみお)は、昭和時代中期の1947年(昭和22)3月20日に、東京都千代田区神田で、警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎を父として生まれました。父の転任に伴い、広島市、山梨県と転居し、東京の武蔵中学校を経て慶應義塾大学の文学部へ進みます。
 ところが、成績不振で2年後に退学となり、武蔵野美術大学短期大学部デザイン学科に移ったものの、学生運動でキャンパスがロックアウトされるや、1969年(昭和44)に渡米し、ニューヨークでコーヒーショップシンガーとして生活しました。1年半後に帰国してからは、TBS系「ヤング720」の企画・演出担当を経て、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」の放送作家となります。
 その後も、「クイズダービー」、「11PM」、「タモリ倶楽部」、「ウソップランド」などを手がけました。若者文化に精通し、タレントとしても活躍、また、エッセイ『普通の生活』を雑誌「ブルータス」に連載しエッセイストとしても注目され、1986年(昭和61)の随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞を受賞します。
 小説も書き始め、1987年(昭和62)の小説『虎口からの脱出』で、第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞、1988年(昭和63)の小説『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞しました。それからは、文筆業1本に絞ろうと考え、放送作家としての仕事を断り始めます。
 一方、1989年(平成元)に第18回ベストドレッサー賞を受賞したり、1991年(平成3)には、大川隆法主宰・幸福の科学の信者として、雑誌「フライデー」による同会批判記事に対する抗議行動の先頭に立ったりもしました。しかし、1998年(平成10)1月27日に、東京都世田谷区成城の自宅において、不慮の火災のため50歳で亡くなっています。
〇景山民夫の主要な著作

・随筆『普通の生活』(1984年)
・随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』(1986年)第2回講談社エッセイ賞受賞
・小説『虎口からの脱出』(1987年)第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞受賞
・小説『転がる石のように』(1987年 )
・小説『遠い海から来たCOO』(1988年)第99回直木賞受賞
・小説『ガラスの遊園地』(1988年)
・短編集『休暇の土地』(1988年)

☆景山民夫関係略年表

・1947年(昭和22)3月20日  東京都千代田区神田で、警察官僚(のち全日本剣道連盟会長)の景山二郎を父として生まれる
・1968年(昭和43) 放送作家となる
・1969年(昭和44) 渡米し、ニューヨークでコーヒーショップシンガーとして生活する
・1986年(昭和61) 随筆『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回講談社エッセイ賞を受賞する
・1987年(昭和62) 小説『虎口からの脱出』で、第8回吉川英治文学新人賞・第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞を受賞する
・1988年(昭和63) 小説『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞する
・1989年(平成元) 第18回ベストドレッサー賞を受賞する
・1991年(平成3) 大川隆法主宰・幸福の科学の信者として、雑誌「フライデー」による同会批判記事に対する抗議行動の先頭に立つ
・1998年(平成10)1月27日 東京都世田谷区成城の自宅において、火災のため50歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細


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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の亡くなった日です。
 戸板康二(といた やすじ)は、1915年(大正4)12月14日 東京市芝三田四国町(現在の東京都港区)で、藤倉電線に勤める父・三郎、母・ひさの長男として生まれ、1923年(大正12)に母方の祖母戸板関子の養子になり「康二」と改めました。同年母が関東大震災で亡くなり、1929年(昭和4)の14歳の時、祖母も亡くしています。
 暁星中学校卒業後、慶応予科を経て、慶應義塾大学文学部国文学科へ進み、折口信夫に師事しました。1938年(昭和13)に大学卒業後、明治製菓の宣伝部でPR誌「スヰート」の編集に携わり、翌年頃から、内田水中亭の句会に出席して作句するようになります。
 1943年(昭和18)に山水高等女学校に国語教師として勤務しましたが、翌年には日本演劇社に入社して「日本演劇」編集に従事するようになりました。1948年(昭和23)の33歳の時、『歌舞伎の周囲』を刊行、翌年には、『丸本歌舞伎』、『わが歌舞伎』正続で、第1回戸川秋骨賞を受賞します。
 1950年(昭和25)に日本演劇社を退社して演劇評論家となり、1952年(昭和27)には、『劇場の椅子』、『今日の歌舞伎』で、第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)を受賞しました。44歳の時江戸川乱歩の熱心な勧めによって執筆した『車引殺人事件』で推理作家としてデビュー、1960年(昭和35)に推理小説『団十郎切腹事件』で、第42回直木三十五賞を受賞、1969年(昭和44)には、劇作『マリー・アントワネット』も発表しています。
 1976年(昭和51)に推理小説『グリーン車の子供』で第29回日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞、同年に第24回菊池寛賞も受賞、1977年(昭和52)には評論活動で、第33回日本芸術院賞(文芸部門)を受賞しました。1978年(昭和53)に随筆『ちょっといい話』を刊行し、ベストセラーとなり、1985年(昭和60)に句集『花すこし』を刊行、1987年(昭和62)には第3回東京都文化賞を受賞しています。
 1991年(平成3)に第17回明治村賞を受賞、日本芸術院会員ともなりましたが、1993年(平成5)1月23日に、東京都品川区旗の台の昭和大学病院において、脳血栓のため93歳で亡くなりました。

〇戸板康二の主要な著作

・『丸本歌舞伎』(1949年)第1回戸川秋骨賞受賞
・『演劇五十年』(1950年)
・『今日の歌舞伎』(1952年)
・『劇場の椅子(いす)』(1952年)第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)受賞
・『今日の歌舞伎』(1952年)第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)受賞
・『新劇史の人々』(1953年)
・『忠臣蔵』(1957年)
・推理小説『車引殺人事件』(1959年)
・推理小説『団十郎切腹事件』(1959年)直木賞受賞
・『久保田万太郎』(1967年)
・戯曲『マリー・アントワネット』(1969年)
・『尾上菊五郎』(1973年)
・推理小説『グリーン車の子供』(1975年)第29回日本推理作家協会賞受賞
・随筆『ちょっといい話』(1978年)
・句集『花すこし』(1985年)
・随筆『句会で会った人』(1987年)
・句集『袖机』(1989年)

☆戸板康二関係略年表

・1915年(大正4)12月14日 東京市芝三田四国町(現在の東京都港区)で、藤倉電線に勤める父・三郎、母・ひさの長男として生まれる
・1923年(大正12)7月9日 母方の祖母戸板関子の養子になり「康二」と改める
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災のとき、鎌倉材木座の別荘にいた母親が幼い次男をかばって圧死する
・1929年(昭和4) 14歳の時、祖母を亡くす
・1938年(昭和13) 慶応義塾大学文学部国文科を卒業する
・1939年(昭和14)頃 内田水中亭の句会に出席して作句するようになる 
・1943年(昭和18) 山水高等女学校に国語教師として勤務する
・1944年(昭和19) 日本演劇社に入社して「日本演劇」編集に従事する
・1948年(昭和23) 33歳の時、『歌舞伎の周囲』を刊行する
・1949年(昭和24) 『丸本歌舞伎』、『わが歌舞伎』正続で、第1回戸川秋骨賞を受賞する
・1950年(昭和25) 日本演劇社を退社して演劇評論家となる
・1952年(昭和27) 『劇場の椅子』、『今日の歌舞伎』で、第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)を受賞する
・1960年(昭和35) 推理小説『団十郎切腹事件』で、第42回直木三十五賞を受賞する
・1969年(昭和44) 劇作『マリー・アントワネット』を発表する
・1976年(昭和51) 推理小説『グリーン車の子供』で第29回日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞する
・1976年(昭和51) 第24回菊池寛賞を受賞する
・1977年(昭和52) 評論活動で、第33回日本芸術院賞(文芸部門)を受賞する
・1978年(昭和53) 随筆『ちょっといい話』を刊行し、ベストセラーとなる
・1985年(昭和60) 句集『花すこし』を刊行する
・1987年(昭和62) 第3回東京都文化賞を受賞する
・1989年(平成元) 句集『袖机』を刊行する
・1991年(平成3) 第17回明治村賞を受賞する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1993年(平成5)1月23日 東京都品川区旗の台の昭和大学病院において、脳血栓のため93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、小説家藤沢周平の亡くなった日です。
 藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)12月26日に、山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)で農業を営む父・小菅繁蔵と母・たきゑの第4子として生まれましたが、本名は小菅留治(こすげ とめじ)と言いました。1946年(昭和21)に山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部を卒業後、山形師範学校(現在の山形大教育学部)に入学し、文芸に親しみます。
 1949年(昭和24)に卒業後、中学校教師となったものの、結核が見つかり、2年で退職し、1952年(昭和27)に東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、5年間の闘病生活を送りました。退院後、1957年(昭和32)から業界紙の編集に携わるようになり、1960年(昭和35)には株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となります。
 その一方で、1963年(昭和38)から小説の投稿を始め、『赤い夕日』が読売新聞短編小説賞の選外佳作となり、1965年(昭和40)から藤沢周平のペンネームを使いはじめました。1971年(昭和46)に『溟い海』で、第38回「オール讀物」新人賞受賞、1973年(昭和48)に『暗殺の年輪』で、第69回直木賞受賞、1974年(昭和49)には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入ります。
 不遇な下級武士や市井に生きる庶民を描いたものを中心に時代小説、歴史小説の各分野で幅広く活躍し、流行作家となって、作品のテレビドラマ化や映画化もされました。1985年(昭和60)に直木賞選考委員、1986年(昭和61)に『白き瓶―小説 長塚節』で、第20回吉川英治文学賞、1989年(平成元)に『市塵』で、第40回芸術選奨文部大臣賞、同年に作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞と数々の栄誉に輝きます。
 さらに、1994年(平成6)に朝日賞受賞、第10回東京都文化賞を受賞、翌年には紫綬褒章を受章しましたが、1997年(平成9)1月26日に東京において、69歳で亡くなりました。尚、2010年(平成22)に出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館しています。

〇藤沢周平の主要な著作

・『溟(くら)い海』(1971年)オール読物新人賞受賞
・『暗殺の年輪』(1973年)第69回直木賞を受賞
・『闇(やみ)の梯子(はしご)』(1974年)
・『又蔵の火』(1974年)
・『用心棒日月抄(ようじんぼうじつげつしょう)』(1976年)
・『一茶(いっさ)』(1977年)
・「回天の門』(1979年)
・『闇の傀儡師』(1980年)
・『春秋の檻』(1980年)
・『孤剣』(1980年)
・『夜の橋』(1981年)
・『密謀』(1982年)
・『愛憎の檻』(1982年)
・連作短編集『用心棒日月抄』(1983年)
・『海鳴り』(1984年)
・『白き瓶(かめ)―小説 長塚節(たかし)』(1985年)吉川英治文学賞受賞
・『風の果て』(1985年)
・『本所しぐれ町物語』(1987年)
・『たそがれ清兵衛』(1988年)
・『蝉(せみ)しぐれ』(1988年)
・『市塵(しじん)』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・『三屋清左衛門残日録』(1989年)
・『玄鳥』(1991年)
・長編『漆の実のみのる国』(1997年)
・『日暮れ竹河岸(たけがし)』(1996年)
・時代小説集『静かな木』(1998年)
・エッセイ集『小説の周辺』(1986年)
・『早春―その他』(1998年)
・自伝『半生の記』(1994年)
・『漆の実のみのる国』(1996年)遺作

☆藤沢周平関係略年表

・1927年(昭和2)12月26日 山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)の農家である父・小菅繁蔵と母・たきゑの第4子として生まれる
・1934年(昭和9) 青龍寺尋常高等小学校へ入学する
・1942年(昭和17) 15歳の時、黄金村国民学校高等科を卒業する
・1946年(昭和21)3月 山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部を卒業する
・1946年(昭和21)4月 山形師範学校(現在の山形大教育学部)に入学する
・1949年(昭和24)3月 山形師範学校(現在の山形大教育学部)を卒業する
・1949年(昭和24)4月 山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任し、国語と社会を担当する
・1951年(昭和26) 『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加する
・1952年(昭和27)2月 東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院する
・1957年(昭和32) 業界紙の編集に携わる
・1959年(昭和34) 三浦悦子と結婚する
・1960年(昭和35) 株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる
・1963年(昭和38) 小説の投稿を始める
・1963年(昭和38) 『赤い夕日』が読売新聞短編小説賞の選外佳作となる
・1963年(昭和38) 長女・展子が生まれ、東京都清瀬市上清戸で間借り生活を始める
・1963年(昭和38)10月 妻・悦子が急逝する
・1965年(昭和40) 藤沢周平のペンネームを使いはじめる
・1969年(昭和44) 高澤和子と再婚する
・1970年(昭和45) 東京都東久留米市に引っ越しする
・1971年(昭和46) 『溟(くら)い海』で、第38回「オール讀物」新人賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『暗殺の年輪』で、第69回直木賞を受賞する
・1974年(昭和49) 日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る
・1976年(昭和51) オール讀物新人賞選考委員となる
・1985年(昭和60) 直木賞選考委員となる
・1986年(昭和61) 『白き瓶(かめ)―小説 長塚節(たかし)』で、第20回吉川英治文学賞受賞する
・1988年(昭和63) 山本周五郎賞選考委員となる
・1989年(平成元) 『市塵(しじん)』で、第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1989年(平成元) 作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞を受賞する
・1994年(平成6) 朝日賞受賞、第10回東京都文化賞を受賞する
・1995年(平成7) 紫綬褒章を受章する
・1997年(平成9)1月26日 東京において、69歳で亡くなる
・1997年(平成9) 鶴岡市特別顕彰、山形県県民栄誉賞を受賞する
・2010年(平成22)4月29日 出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

2006年(平成18)重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細


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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、小説家藤原審爾の亡くなった日です。
 藤原審爾(ふじわら しんじ)は、1921年(大正10)3月7日に、東京市本郷で生まれましたが、3歳で母と生別、6歳で父と死別し、父の郷里である岡山県片上町(現在の備前市)で祖母に育てられました。閑谷中学校を経て、青山学院高等商業部に入学したものの、1940年(昭和15)に肺結核に罹患して中退します。
 療養生活を続けながら創作活動を行い、同人誌「曙」を発行しましたが、1945年(昭和20)の岡山空襲で吉備津に疎開しました。太平洋戦争後は、倉敷市に転居し、同人誌「文学祭」を発行、これに掲載した『煉獄の曲』で河盛好蔵に認められます。
 1947年(昭和22)に、奥津温泉を舞台に両親のいない少年を描く清洌な恋愛小説『秋津温泉』を雑誌「人間」に発表し、文壇での評価を得ました。翌年に上京して、本格的に作家活動に入り、話題作『魔子を待つ間』などを発表しますが、肺結核が再発して療養・治療を余儀なくされます。
 1952年(昭和27)に『罪な女』他で、第27回直木賞を受賞と、その後は風俗小説や推理小説へと執筆領域を広げました。推理小説『赤い殺意』(1959年)、『泥だらけの純情』(1962年)などでも評価を得て映画化され、『殿様と口紅』(1963年)では第9回小説新潮賞を受賞します。
 その後は、『さきに愛ありて』(1973~77年)、『死にたがる子』(1978年)、『落ちこぼれ家庭』(1979年)などで社会性の濃い問題小説も手がけました。「藤原学校」と呼ばれる勉強会を自宅で開き、三好京三、山田洋次、江國滋、色川武大、高橋治らの後進を育てましたが、1984年(昭和59)12月20日に、入院先の病院において、63歳で亡くなっています。

〇藤原審爾の主要な著作

・『秋津温泉』(1947年)
・『魔子』(1950年)
・『罪な女』(1952年)第27回直木賞受賞
・『赤い殺意』(1959年)
・『泥だらけの純情』(1962年)
・『殿様と口紅』(1963年)第9回小説新潮賞受賞
・『新宿警察』(1968年)
・『さきに愛ありて』(1973~77年)
・『死にたがる子』(1978年)
・『落ちこぼれ家庭』(1979年)
・『まだ愛を知らない』(1984~85年)未完

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1879年(明治12)青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛(霧信号所)が設置された(霧笛記念日)詳細
1930年(昭和5)岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間で省営自動車が運行開始される詳細
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