
1936年(昭和11)に満鉄調査部東京支社に入り、1937年(昭和12)に宮崎正義が率いる日満財政研究会に、法学部助手だった戒能通孝らとともに参加、1940年(昭和15)には、東亜経済懇談会参事、中央大学経済学部講師となりました。1941年(昭和16)に日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長となり、1943年(昭和18)に上海で法幣の価値維持工作に従事、1944年(昭和19)には、三井本社研究室次長となります。
太平洋戦争後、1946年(昭和21)に日本経済再建委員会常務理事、1949年(昭和24)には、國學院大學政経学部教授となりました。1951年(昭和26)に都市不燃化同盟常務理事となりましたが、一方で小説を書くようになり、『出べそ物語』で、週刊朝日懸賞小説に入選します。
1952年(昭和27)に立正大学教授となり、『マルフーシャ』が、「サンデー毎日」の懸賞小説に入選、1953年(昭和28)には、歴史小説『子守の殿』で、第1回オール讀物新人杯を受賞しました。1956年(昭和31)に首都圏整備委員会専門委員となり、『燈台鬼』で第35回直木三十五賞を受賞して一躍人気作家となり、1959年(昭和34)には、武家社会の非情さをえがいた短編集『残酷物語』で残酷ものブームを起こします。
大学では、金融論を講義し、1960年(昭和36)には、『日本金融資本論』を刊行しました。1975年(昭和50)に紫綬褒章を受章しましたが、1979年(昭和54)には、國學院大學を定年退官となり、小説執筆に専念することとなります。
1982年(昭和57)に『細香日記』で第16回吉川英治文学賞を受賞、また、勲三等瑞宝章も受章し、高齢となっても執筆を続けてきたものの、2004年(平成16)10月30日に、東京において、肺炎のために、95歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
735年(天平7) | 皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日) | 詳細 |
1918年(大正7) | 武者小路実篤が宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に「新しき村」を建設する | 詳細 |
1951年(昭和26) | 天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる | 詳細 |
1971年(昭和46) | 言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日 | 詳細 |
1973年(昭和48) | 関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する | 詳細 |
1986年(昭和61) | 小説家・劇作家円地文子の命日 | 詳細 |