ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:白樺派

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、武者小路実篤らが宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に「新しき村」を建設した日です。
 新しき村(あたらしきむら)は、白樺派の文学者武者小路実篤らによって設立された生活共同体の村でした。自然主義から脱却し、理想主義文学を志した武者小路の現実的具体的な表現であり、各人が一定の義務労働を分担して衣食住が無料で得られる社会をめざしたものです。
 実篤自身も1926年(大正15)に一身上の都合で村外会員となるまで、ここに居住していました。全国から40余名が集まって生活したものの、1939年(昭和14)にダム工事により水田を失い、埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」を建設し、主力はここに移ります。
 1948年(昭和23)に、「東の村」は「財団法人新しき村」となり、水田や果樹園に加え養鶏が始まり、1958年(昭和33)には、ついに自活できるようになりました。1980年(昭和55)に、武者小路実篤の書画、書簡、著書等を収めた「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が毛呂山町に開館します。
 近年、高齢化と共に村内会員が減少し、2018年(平成30)には、村の存続を願う村外会員らが「日々新しき村の会」を発足させました。

〇新しき村関係略年表

・1918年(大正7)11月14日 宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に武者小路実篤らの推進により創設される
・1926年(大正15) 武者小路実篤は一身上の都合で村外会員となる
・1939年(昭和14) ダム工事により水田を失い、埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」を開設する
・1948年(昭和23) 「東の村」は「財団法人新しき村」となり、水田や果樹園に加え養鶏が始まる
・1958年(昭和33) ついに自活できるようになる
・1980年(昭和55) 武者小路実篤の書画、書簡、著書等を収めた「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が開館する
・2018年(平成30)8月 村の存続を願う村外会員らが「日々新しき村の会」を発足させる
・2022年(令和4)5月 公益法人化を目指し認定のための申請を行なう

☆武者小路実篤とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した小説家・劇作家です。1885年(明治18)5月12日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の武者小路子爵家の父・武者小路実世と母・秋子の第8子として生まれました。
 学習院を経て、1906年(明治39)に、東京帝国大学東大哲学科社会学専修に進学しましたが、1年で中退することとになります。その後、1910年(明治43)に志賀直哉、有島武郎、有島生馬、里見弴らと文学雑誌『白樺』を創刊し、1911年(明治44)には小説『お目出たき人』を刊行しました。
 1918年(大正7)には、人道主義の立場から「新しき村」を宮崎県につくることになります。それと前後して、小説『世間知らず』『幸福者』『友情』、戯曲『その妹』などを発表し、独特な口語文体で、個人や人間生命を賛美しました。
 白樺派の代表的作家として活躍し、詩や画業にも挑み、1937年(昭和12)には、帝国芸術院会員ともなります。しかし、太平洋戦争に協力したために、戦後公職追放されることになりました。
 その解除後、1951年(昭和26)に文化勲章を受章し、晩年は野菜の絵に文を添えた色紙を揮毫したりしています。そして、1976年(昭和51)4月9日に、東京都において、尿毒症によって90歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細
1986年(昭和61)小説家・劇作家円地文子の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の生まれた日です。
 尾崎喜八(おざき きはち)は、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれました。1909年(明治42)に京華商業学校(現在の学校法人京華学園)を卒業し、中井銀行に就職、この頃から文学を愛好するようになります。
 1911年(明治44)に銀行を退職して三省堂器械標本部に就職、「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知りました。翌年に高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあけ、1913年(大正2)に三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社、1914年(大正3)には、武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始めます。
 1915年(大正4)に父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社、翌年には、ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載したものを『近代音樂家評傅』として刊行しました。1920年(大正9)に朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るものの、病気を理由として辞職し、東京に戻り、翌年には、「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿するようになります。
 1922年(大正11)に第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場、30歳を過ぎてから山へ登るようになり、1924年(大正13)に詩集『高層雲の下』、1927年(昭和2)に詩集『曠野の火』を刊行、“山と高原の詩人”と称されました。1928年(昭和3)に家督を相続し、東京都京橋区新川の実家へ転居、1933年(昭和8)に詩集『旅と滞在』、1938年(昭和13)には散文集『雲と草原』を刊行しています。
 1945年(昭和20)に太平洋戦争下の空襲で、東京の青山南町の家を焼かれ、戦後の1946年(昭和21)には、妻子と共に長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住みました。その中で、1948年(昭和23)に詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』、1951年(昭和26)には散文集『碧い遠方』を刊行しています。
 1952年(昭和27)に東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居、1955年(昭和30)に詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行、1958年(昭和33)には、串田孫一らと「アルプ」を創刊しました。1966年(昭和41)に神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居、晩年は鎌倉で過ごすこととし、翌年には紫綬褒章を受章します。
 それからも独自の詩境を深め、1969年(昭和44)に随筆集『夕べの旋律』、1970年(昭和45)に詩集『その空の下で』を刊行するなどしましたが、1974年(昭和49)2月4日に、神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなりました。

〇尾崎喜八の主要な著作

・翻訳『近代音楽家評伝』(1916年)
・詩集『空と樹木』(1922年)
・詩集『高層雲の下』(1924年)
・詩集『曠野の火』(1927年)
・詩集『旅と滞在』(1933年)
・随想集『山の絵本』(1935年)
・詩集『行人の歌』(1940年)
・詩集『高原詩抄』(1942年)
・詩集『花咲ける孤独』(1955年)
・詩集『田舎(いなか)のモーツアルト』(1966年)

☆尾崎喜八関係略年表

・1892年(明治25)1月31日 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)南小田原町で、裕福な回漕(かいそう)店を営む父・尾崎喜三郎の長男として生まれる
・1898年(明治31) 新港町の築地小学校に入学する
・1904年(明治37) 京華商業学校(現在の学校法人京華学園)へ入学する
・1909年(明治42) 京華商業学校を卒業し、中井銀行に就職する
・1911年(明治44) 「文章世界」、「スバル」などで高村光太郎を知り、銀行を退職して三省堂器械標本部に就職する
・1912年(明治45) 高村を本郷駒込のアトリエに訪問し、文学志望の気持ちをうちあける
・1913年(大正2) 三省堂を退職し、年末に高田商会へ入社する
・1914年(大正3) 武者小路実篤を識り、白樺派の理想主義の影響下に詩作を始める
・1915年(大正4) 父との仲が不和となり、尾崎家を廃嫡となり、高田商会を退社する
・1916年(大正5) ロマン・ロラン「今日の音楽家」を翻訳して雑誌「白樺」に連載、『近代音樂家評傅』として刊行する
・1920年(大正9) 朝鮮銀行に就職し京城に渡り、本店に入るが、病気を理由として辞職し、東京に戻る
・1921年(大正10) 「詩聖」、「新詩人」に詩や文章を毎号寄稿する
・1922年(大正11) 第一詩集『空と樹木』で詩壇に登場する
・1924年(大正13) 詩集『高層雲の下』を刊行する
・1927年(昭和2) 詩集『曠野の火』を刊行する
・1928年(昭和3) 家督を相続し東京都京橋区新川の実家へ転居する
・1933年(昭和8) 詩集『旅と滞在』を刊行する
・1938年(昭和13) 散文集『雲と草原』を刊行する
・1945年(昭和20) 東京の青山南町の家を空襲で焼かれる
・1946年(昭和21) 『麥刈の月』を刊行、妻子とともに長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住む
・1948年(昭和23) 詩集『残花抄 尾崎喜八集』、散文集『高原暦日』、散文集『美しき視野 自然隨筆集』を刊行する
・1951年(昭和26) 散文集『碧い遠方』を刊行する
・1952年(昭和27) 東京都世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居する
・1955年(昭和30) 詩集『花咲ける孤獨』、『新譯ヘッセ詩集』を刊行する
・1958年(昭和33) 串田孫一らと「アルプ」を創刊する
・1966年(昭和41) 詩集『田舎のモーツァルト』刊行、神奈川県鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居する
・1967年(昭和42) 紫綬褒章を受章する
・1969年(昭和44) 随筆集『夕べの旋律』を刊行する
・1970年(昭和45) 詩集『その空の下で』を刊行する
・1974年(昭和49)2月4日 神奈川県鎌倉市大町額田病院で、急性心不全のため82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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satomiton01

 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、小説家里見弴の亡くなった日です。
 里見弴(さとみ とん)は、明治時代前期の1888年(明治21)7月14日に、神奈川県横浜市で、父・有島武と母・幸子の四男としてに生まれましたが、本名は英夫(ひでお)と言いました。出生直後に、母の実家山内家を継いで養子となり、山内姓となりましたが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられます。
 学習院を経て東京帝国大学文学部英文科へ入学したものの、1909年(明治42)に中退しました。翌年に武者小路実篤、志賀直哉らと文芸雑誌「白樺」を創刊、『君と私と』(1913年)などを発表します。
 大阪での芸者との恋愛、結婚を清新に描いた『晩い初恋』(1915年)、『妻を買ふ経験』(1917年)と志賀らとの青春の彷徨を描いた第一短編集『善心悪心』(1916年)によって文壇に認められました。1919年(大正8)に久米正雄、吉井勇らと「人間」を創刊、『多情仏心』(1922~23年)、『今年竹』(1919~26年)、『安城家の兄弟』(1931年)と長編の代表作を書き継ぎます。
 また、1932年(昭和7)より6年間、明治大学文芸科教授も務め、1939年(昭和14)には第2回菊池寛賞を受賞しました。戦時下においてもリベラルな立場を堅持し、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に川端康成らと鎌倉文庫創設に参加、1947年(昭和22)には日本芸術院会員となります。
 1955年(昭和30)に『恋ごころ』で第7回読売文学賞小説賞受賞、1959年(昭和34)には文化勲章を受章しました。その後も創作活動を続け、1970年(昭和45)には『五代の民』で第22回読売文学賞随筆・紀行賞も受賞しましたが、1983年(昭和58)1月21日に、神奈川県鎌倉市の病院において、94歳で亡くなっています。
 尚小説家の有島武郎、画家の有島生馬は共に実兄にあたります。

〇里見弴の主要な著作

・『君と私と』(1913年)
・『晩 (おそ) い初恋』(1915年)
・第一短編集『善心悪心』(1916年)
・自伝小説『妻を買ふ経験』(1917年)
・『銀二郎の片腕』(1917年) 
・『多情仏心』(1922~23年)
・『今年竹 (ことしたけ) 』(1919~26年)
・『大道無門』(1926年)
・『安城家の兄弟』(1931年)
・『かね』(1937年)
・随筆集『銀語録』(1938年)
・『十年』(1947年)
・『美事な醜聞』(1947年)
・『恋ごころ』(1955年)第7回読売文学賞小説賞受賞
・『彼岸花』(1958年)
・『極楽とんぼ』(1961年)
・『五代の民』(1970年)第22回読売文学賞随筆・紀行賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1530年(享禄3)武将・戦国大名上杉謙信の誕生日(新暦2月18日)詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
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nagayoyoshirou01

 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、小説家・劇作家・評論家長与善郎の亡くなった日です。
 長与善郎(ながよ よしろう)は、明治時代前期の1888年(明治21)8月6日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、医学者長與專齋の五男として生まれました。学習院高等科在学中思想書・文学書に接し、1911年(明治44)に志賀直哉や武者小路実篤らの同人誌『白樺』に参加します。
 同年、東京帝国大学文学部英文科へ入学しましたが、翌年退学しました。その後、自らの失恋体験に即した『盲目の川』(1914年)、結婚の経緯を描いた『彼等の運命』(1915~16年)などの自伝小説や戯曲『項羽と劉邦』(1916~17年)で人道主義的作家として認められます。
 以後、戯曲『夜の戯曲』(1920年)、小説『青銅の基督 (キリスト) 』(1923年)などを書いて高く評価されました。1923年(大正)の関東大震災で『白樺』が廃刊になった後は、翌年に『不二』を主宰し、同誌に思想小説『竹沢先生と云(い)ふ人』(1924~25年)を連載して広く世に迎えられます。
 大正時代末に病を得て、数年創作から離れた後に、1933年(昭和8)に明治大学講師として東洋思想を講じ、1935年(昭和10)から2年ほど満鉄嘱託として満州、中国を旅行しました。その中で、東洋の思想・美術への関心を深め、『大帝康煕』、『文化の問題』(ともに1938年)、『東洋の道と美』(1943年)、『東洋芸術の諸相』(1944年)などを刊行します。
 太平洋戦争後も幅広く活躍し、1948年(昭和23)に芸術院会員となり、1959年(昭和34)には、自伝的大作『わが心の遍歴』で第11回読売文学賞・評論伝記賞を受賞しました。しかし、1961年(昭和36)10月29日に、東京都世田谷区の自宅において、73歳で亡くなっています。

〇長与善郎の主要な著作

・小説『盲目の川』(1914年)
・小説『彼等の運命』(1915~16年)
・戯曲『項羽と劉邦』(1916~17年)
・小説『陸奥(むつ)直二郎』(1918年)
・戯曲『夜の戯曲』(1920年)
・小説『青銅の基督 (キリスト) 』(1923年)
・小説『竹沢先生と云(い)ふ人』(1924~25年)
・『大帝康煕(こうき)』(1938年)
・『文化の問題』(1938年)
・『韓非子』(1942年)
・『東洋の道と美』(1943年)
・『東洋芸術の諸相』(1944年)
・小説『野性の誘惑』(1947年)
・小説『その夜』(1948~51年)
・小説『押し花帖(ちょう)』(1954年)
・自伝『わが心の遍歴』(1957~59年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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