
1ヶ月余で帰国し、日本兵の残虐な生態、戦線にかり出されて変貌していく青年たちの姿などをルポ的手法によって多彩に描き、雑誌『中央公論』1938年(昭和13)3月号に掲載されました。しかし、すぐに発禁処分となって、「新聞紙法」第41条(安寧秩序紊乱)違反に問われ、作家本人も編輯者、発行人と共に起訴され、検事控訴で二審までいき、石川達三は禁錮4ヶ月、執行猶予3年の判決を受けています。
この本は、太平洋戦争後の1945年(昭和20)12月に、河出書房から公刊されました。
父の転勤や転職に伴って、秋田市、東京、岡山市などを転々としますが、1914年(大正3)に9歳で母を亡くしています。岡山県立高梁中学校を経て、関西中学校を卒業し、第二早稲田高等学院から、1927年(昭和2)に早稲田大学文学部英文科に入学しました。
在学中に『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選しましたが、学資が続かず1年で退学します。電気業界誌『国民時論』に入り、自活しつつ小説を書きますがうまくいかず、1930年(昭和5)に退職し、その退職金で移民団に投じ、ブラジルへ渡航したものの、半年で帰国しました。
その経験を書いた『蒼氓』で1935年(昭和10)に第1回芥川賞を受け、社会派作家として出発します。翌年結婚し、1938年(昭和13)に『生きてゐる兵隊』で「新聞紙法」違反に問われ発禁処分と禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける一方、ベストセラーとなった『結婚の生態』を執筆しました。
太平洋戦争後は、旺盛に作家活動を展開し、『望みなきに非ず』(1947年)、『風にそよぐ葦』(1949~51年)、『人間の壁』(1957~59年)、『傷だらけの山河』(1962~63年)、『金環蝕』(1966年)など、時代感覚に富んだ社会批評的作品を多く発表し、1969年(昭和44)に第17回菊池寛賞を受賞しています。また、日本ペンクラブ第7代会長(1975~77年)、日本芸術院会員、日本文芸家協会理事長などを歴任しましたが、1985年(昭和60)1月31日に、東京において、79歳で亡くなりました。