ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:発禁処分

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となり、石川と編輯者雨宮庸蔵・発行人牧野武夫が検挙された日です。
 『生きてゐる兵隊』(いきているへいたい)は、石川達三著の長編小説で、中国に従軍記者として赴いた時の経験に基づいた作品でした。1937年(昭和12)12月12日の南京陥落直後に、中央公論社特派員として中支(華中)戦線に従軍、翌年1月に上海に上陸し、京都第16師団津歩兵第33連隊の兵士に、直接取材します。
 1ヶ月余で帰国し、日本兵の残虐な生態、戦線にかり出されて変貌していく青年たちの姿などをルポ的手法によって多彩に描き、雑誌『中央公論』1938年(昭和13)3月号に掲載されました。しかし、すぐに発禁処分となって、「新聞紙法」第41条(安寧秩序紊乱)違反に問われ、作家本人も編輯者、発行人と共に起訴され、検事控訴で二審までいき、石川達三は禁錮4ヶ月、執行猶予3年の判決を受けています。
 この本は、太平洋戦争後の1945年(昭和20)12月に、河出書房から公刊されました。

〇石川達三(いしかわ たつぞう)とは?

 昭和時代に活躍した小説家です。明治時代後期の1905年(明治38)7月2日に、秋田県平鹿郡横手町(現在の横手市)で、中学校の英語科教員だった父・石川祐助(ゆうすけ)と母・うんの12人兄弟の三男として生まれました。
 父の転勤や転職に伴って、秋田市、東京、岡山市などを転々としますが、1914年(大正3)に9歳で母を亡くしています。岡山県立高梁中学校を経て、関西中学校を卒業し、第二早稲田高等学院から、1927年(昭和2)に早稲田大学文学部英文科に入学しました。
 在学中に『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選しましたが、学資が続かず1年で退学します。電気業界誌『国民時論』に入り、自活しつつ小説を書きますがうまくいかず、1930年(昭和5)に退職し、その退職金で移民団に投じ、ブラジルへ渡航したものの、半年で帰国しました。
 その経験を書いた『蒼氓』で1935年(昭和10)に第1回芥川賞を受け、社会派作家として出発します。翌年結婚し、1938年(昭和13)に『生きてゐる兵隊』で「新聞紙法」違反に問われ発禁処分と禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける一方、ベストセラーとなった『結婚の生態』を執筆しました。
 太平洋戦争後は、旺盛に作家活動を展開し、『望みなきに非ず』(1947年)、『風にそよぐ葦』(1949~51年)、『人間の壁』(1957~59年)、『傷だらけの山河』(1962~63年)、『金環蝕』(1966年)など、時代感覚に富んだ社会批評的作品を多く発表し、1969年(昭和44)に第17回菊池寛賞を受賞しています。また、日本ペンクラブ第7代会長(1975~77年)、日本芸術院会員、日本文芸家協会理事長などを歴任しましたが、1985年(昭和60)1月31日に、東京において、79歳で亡くなりました。

☆石川達三の主要な著作

・『蒼氓(そうぼう)』(1935年)第1回芥川賞受賞
・『心猿』(1935~36年)
・『日蔭(ひかげ)の村』(1937年)
・『生きてゐる兵隊』(1938年)
・『三代の矜持』(1938年)
・『結婚の生態』(1938年)
・『武漢作戦』(1939年)
・『転落の詩集』(1940年)
・『望みなきに非(あら)ず』(1947年)
・『泥にまみれて』(1948年)
・『風にそよぐ葦(あし)』(1949~51年)
・『四十八歳の抵抗』(1955~56年)
・『人間の壁』(1957~59年)
・『充たされた生活』(1961年)
・『僕たちの失敗』(1961年)
・『傷だらけの山河』(1962~63年)
・『金環蝕(きんかんしょく)』(1966年)
・『青春の蹉跌』(1968年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、この日付の週刊「平民新聞」第53号(新聞創刊1周年記念号)に、日本で初めて堺利彦、幸徳秋水によって翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載されましたが、発禁処分となります。そして、秩序を壊乱したとして起訴され、裁判の結果、関係者はそれぞれ罰金刑に処せられました。
 その後、堺利彦が訳文に多少の修正を加へ、第三章を新たに訳し添え、学術研究の資料として、「社會主義研究」第1号(明治39年3月15日発効)に掲載したものの、1910年(明治43)の大逆事件当時に発売禁止となります。それでも、何人かの手により、祕密出版として数回発行されました。
 1929年(昭和4)になると、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する400ページの大册(リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、200ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』も収載)が発行され、禁止にはなりましたが、それ以前に、少からぬ部数が頒布されています。
 以下に、『共産党宣言』翻訳の経緯を記した「共産党宣言」日本訳の序(堺利彦)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「共産党宣言」日本訳の序

カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス著
堺利彦、幸徳秋水訳

日本譯の序

 この日本譯は、最初、第三章を除いて、週刊『平民新聞』第五十三號(明治三十七年十一月十三日發行)に載せられたところ、忽ち秩序壞亂として起訴され、裁判の結果、關係者はそれぞれ罰金に處せられた。しかしその裁判の判決文には、『古の文書はいかにその記載事項が不穩の文字なりとするも、……單に歴史上の事實とし、または學術研究の資料として新聞雜誌に掲載するは、……社會の秩序を壞亂するといふ能はざるのみならず、むしろ正當なる行爲といふべし』とあつた。そこで私は次にその譯文に多少の修正を加へ、および第三章を譯し添へて、今度は『單に歴史上の事實』として、また『學術研究の資料』として、『社會主義研究』第一號(明治三十九年三月十五日發行)に載せた。(その時には、前の共譯者幸徳はアメリカに行つてゐたので、第三章は私ひとりで譯した。)
 しかるに、その『社會主義研究』も程へて後(大逆事件當時)發賣を禁止され、その後今日に至るまで、『共産黨宣言』日本譯の公刊は不可能の状態になつてゐるが、いかに日本が野蠻國で、いかに保守的反動が強いにしても、もう遠からずして、言論自由の範圍が、せめて明治三十九年當時くらゐに復舊する時節は來るだらうと思はれる。その時には、私はぜひともこの『學術研究の資料』を出來るだけ早く世に出したいと思つてゐる。ところが、近ごろその古い譯文を讀み返してみると、第一、文體の古くさいことが厭で堪らない。それにあの時は、單にイギリス譯から重譯したのでもあり、また譯し方の拙いところや、不正確なところや、間違つたところも大ぶんある。そこで私は今度、その古い譯文をドイツ語の原文と引合せ、また部分的には河上肇氏および櫛田民藏氏の譯文をも參照し、出來るだけ精密に訂正を加へて、口語體に書き直すことにした。幸徳が生きてゐたら何といふか知らんが、私はやはりこの新譯に彼と二人の名を署しておく。
 ドイツ語の新版には、一八七二年のマルクス、エンゲルスの序文のほか、一八八三年のと一八九〇年のと、エンゲルスの序文が二つ載つてゐる。しかしその内容は次に記したイギリス譯の序に盡されてゐる。

大正十年五月

堺利彦

(日本では、その後、この私の譯文が何人かの手により、祕密出版として數回發行された。また昨年、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する四百ページの大册が發行され、禁止にはなつたが、それ以前、少からぬ部數が頒布された。この大册には『宣言』の本文のほか、リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、二百ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』――實は『宣言』の草案――等が附録されてゐる。一九三〇年七月追記。堺)

    「青空文庫」より

〇「平民新聞」とは?

 明治時代後期の1903年(明治36)11月15日に幸徳秋水、堺利彦等による平民社の設立後に、創刊された週刊新聞です。日露戦争反対を高唱したり、足尾鉱毒事件について、被害者支援の記事を度々掲載したりして、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えました。しかし、1904年11月6日付の第52号(教育特集号)が、社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヶ月、西川光二郎が同七ヶ月、罰金それぞれ五十円の刑に処せられた上、 印刷機械も没収されます。次いで、11月13日付の第53号(新聞創刊1周年記念号)に「共産党宣言」を訳載したところ、これも発売禁止で没収されます。こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くのしかかり、財政がひっ迫して、経営が困難となり、自発的廃刊が決定され、1905年(明治38)1月29日の第64号で、廃刊のやむなきに至りました。そこで、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで、全紙赤刷りとし、「終刊の辞」を掲載して終止符が打たれています。この間、1年2ヶ月にわたり、計64号で延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割を果たしました。その2年後、日刊の「平民新聞」が創刊されたものの、再び政府による弾圧などにより、3ヶ月で廃刊せざるを得なくなっています。

〇堺利彦とは?

 日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家です。明治時代前期の1871年1月15日(明治3年11月25日)に、旧小笠原藩士だった貧乏士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれました。自由民権思想の感化を受けて育ち、福岡県立豊津中学校(現在の育徳館高等学校)を首席で卒業後、上京して第一高等中学校に入学しましたが、放蕩生活で学費を滞納し、除籍処分を受けます。1889年(明治22)に大阪に出て英語教員をしながら、枯川の名で小説を発表、実業新聞、福岡日日新聞などを経て、同郷の末松謙澄に招かれて上京し、毛利家編集所で『防長回天史』の編纂に従事しました。1899年(明治32)に「万朝報」に入社、1901年(明治34)には社主黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水らと社会正義を求めて「理想団」を結成、非戦論を主張しましたが、1903年(明治36)に主戦論に転換した「万朝報」を幸徳秋水・内村鑑三と共に退社します。1903年(明治36)に幸徳秋水と二人で平民社を創立、週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義の立場から日露非戦論を展開、翌年の週刊「平民新聞」第53号に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載しました。その後「直言」や「光」によって、旺盛な論陣を張り、1906年(明治39)に日本社会党を結成し評議員・幹事となります。1908年(明治41)の赤旗事件で入獄中に、大逆事件が起こりましたが、連座を免れ、1910年(明治43)に出獄しました。1910年(明治43)に日本初の翻訳会社である売文社を大杉栄らと始め、1914年(大正3)に戯文と随筆を主とした雑誌「へちまの花」を創刊、翌年には「新社会」と改題して再出発を宣言、社会主義思想の紹介や研究を行います。1920年(大正9)に日本社会主義同盟結成の発起人となりましたが、翌年禁止されると、1922年(大正11)には日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加、初代委員長となりました。しかし、翌年の第一次共産党事件で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れます。1927年(昭和2)に山川均らと政治雑誌「労農」を創刊、社会民主主義左派の立場をとり、翌年には鈴木茂三郎らと無産大衆党を結成、1929年(昭和4)に合同後の日本大衆党から出馬し、東京市会議員に当選しました。無産政党の結集に全力を注ぎ、1931年(昭和6)の満州事変勃発に対しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦の姿勢を貫きます。ところが、同年に脳出血で倒れ、療養生活に入り、1933年(昭和8)1月23日に様態が悪化し、東京麹町の自宅において、64歳で亡くなりました。

〇幸徳秋水とは?

 明治時代に活躍した思想家・社会運動家で、本名を傳次郎といいます。1871年(明治4年9月23日)に、 高知県幡多郡中村町(現在の四万十市)の薬種業・酒造業幸徳篤明と多治の次男として生まれました。子供の頃から聡明で神童と呼ばれ、1887年(明治20)に政治家を志して上京し、林有造の書生となります。しかし、同年「保安条例」により東京を追われ、大阪で同郷の中江兆民の門弟となり、「秋水」の号を贈りました。1891年(明治24)再び上京し、国民英学会に学び、卒業後は、いくつかの新聞社を経て、1898年(明治31)に『萬朝報』の記者となります。同年に社会主義研究会に入り、社会主義協会の会員ともなりました。1900年(明治33)に、旧自由党系政党の憲政党が、かつての政敵であった藩閥出身の伊藤博文と結んで立憲政友会を結成することを批判した「自由党を祭る文」を掲載しますが、名文として知られています。1901年(明治34)には、堺利彦、安部磯雄、片山潜らとともに社会民主党を結成しますが、即日禁止されました。また、足尾鉱毒問題で奔走する田中正造の依頼で直訴文を起草します。日露戦争を前にして『万朝報』によって非戦論を主張しますが、創業者で主筆だった黒岩涙香が主戦論に転じたため、社内が分裂して退社しました。その後、堺利彦等と共に平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発刊、自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱え、反戦論を展開します。尚、同紙上に『共産党宣言』を初めて邦訳掲載したことでも知られてきました。しかし、1905年(明治38)に筆禍事件により「新聞紙条例」違反に問われ禁錮5ヶ月に処せられ、出獄後は保養を兼ねて渡米し、無政府主義に傾き始めます。1910年(明治43)に、弾圧により平民社を解散後は、大逆事件に連座し、検挙されて、天皇暗殺計画の主謀者とされ、1911年(明治44)1月24日に、41歳で絞首刑となりました。著書には、『廿世紀之怪物帝国主義』 (1901年)、『社会主義神髄』 (1903年) 、『平民主義』、『基督抹殺論』などがあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細


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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、軍部・右翼団体の攻撃で、河合栄治郎の『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分(河合栄治郎事件)となった日です。
 河合栄治郎事件(かわいえいじろうじけん)は、この年から1943年(昭和18)まで続いた、東京帝国大学経済学部教授の河合栄治郎に対する、思想弾圧事件でした。河合栄治郎は1933年(昭和8)に、ナチスの台頭を目のあたりにしてドイツ留学より帰国、その後ファシズム批判の姿勢を強めます。
 天皇機関説事件の時の批評や二・二六事件に際して軍部批判を公にしたことにより、右翼・軍部より攻撃を受けるようになり、1938年(昭和13)10月5日に、内務省より、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分とされました。これを契機に、東京帝国大学新総長平賀譲は経済学部内の派閥対立問題の解決とからめて河合の処分を決意、翌年1月に河合の休職を文官高等分限委員会に具申、河合は休職処分となり(平賀粛学)、学内外の大問題となります。
 同年2月には、著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴され、1940年(昭和15)10月に第一審で無罪となったものの、1941年(昭和16)の控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受け、1943年(昭和18)6月の大審院で控訴棄却となり、有罪が確定しました。この事件は、自由主義者を弾圧した、1937年(昭和12)の矢内原事件に次ぐものであり、続いて1940年(昭和15)の津田左右吉事件へと至ります。

〇河合栄治郎とは?

 河合栄治郎(かわい えいじろう)は、大正から昭和時代前期に活躍した社会思想家・経済学者です。1891年(明治24)2月13日に、東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれました。
 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に学びます。1915年(大正4)に卒業後、農商務省に入省、1918年(大正7)には、「工場法」の研究のためアメリカに出張、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、労働運動の指導者と会見しました。
 1920年(大正9)に東京帝国大学助教授となり、経済学史を担当、1922年(大正11)にイギリスへ留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受け、1925年(大正14)に帰国します。1926年(大正15)に東京帝国大学教授となり、社会政策講座を受け持ち、1932年(昭和7)にドイツに留学してナチスの台頭を目のあたりにして、1933年(昭和8)に帰国しました。
 政治的には自由主義、経済的には社会主義を主張、天皇機関説事件を批評、1934年(昭和9)に『ファシズム批判』、翌年に『改訂社会政策原理』を刊行、1936年(昭和11)には、2.26事件で軍部を批判します。1936年(昭和11)に経済学部長となり、翌年には、『時局と自由主義』、『第二学生生活』を刊行したものの、経済学部長を辞めました。
 1938年(昭和13)には、軍部・右翼団体の攻撃で、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分となります。また、翌年1月に東大経済学部の内紛がらみのいわゆる“平賀粛学”で休職処分となり、2月には著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴されました。
 その後、1940年(昭和15)の第一審で無罪となったものの、翌年の控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受け、1943年(昭和18)の大審院で控訴棄却となり、有罪が確定します。人間の尊厳、人間自由の理想を死を賭して守りぬこうとしてきましたが、1944年(昭和19)2月15日に、東京において、54歳で亡くなりました。

〇河合栄治郎の主要な著作

・『労働問題研究』(1922年)
・『社会思想史研究』(1923年)
・『在欧通信』(1926年)
・『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)
・『社会政策原理』(1931年)
・『ファシズム批判』(1934年)
・『改訂社会政策原理』(1935年)
・『社会思想家評伝』(1936年)
・『時局と自由主義』(1937年)
・『第二学生生活』(1937年)
・『学生に与ふ』(1940年)

☆河合栄治郎関係略年表

・1891年(明治24)2月13日 東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる
・1915年(大正4) 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、農商務省に入省する
・1918年(大正7) 「工場法」の研究のためアメリカに出張、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、労働運動の指導者と会見する
・1920年(大正9) 東京帝国大学助教授となり、経済学史を担当する
・1922年(大正11) イギリスへ留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける
・1925年(大正14) イギリス留学から帰国する
・1926年(大正15) 東京帝国大学教授となり、社会政策講座を受け持つ
・1932年(昭和7) ドイツに留学してナチスの台頭を目のあたりにする
・1933年(昭和8) ドイツ留学から帰国する
・1934年(昭和9) 『ファシズム批判』を刊行する
・1935年(昭和10) 『改訂社会政策原理』を刊行する
・1936年(昭和11) 2.26事件で軍部を批判する
・1936年(昭和11)3月31日 経済学部長となる
・1937年(昭和12) 『時局と自由主義』、『第二学生生活』を刊行、経済学部長を辞める
・1938年(昭和13)10月5日 軍部・右翼団体の攻撃で、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分となる
・1939年(昭和14)1月 東大経済学部の内紛がらみのいわゆる“平賀粛学”で休職処分を受ける
・1939年(昭和14)2月 著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴される
・1940年(昭和15)10月 第一審で無罪となる
・1941年(昭和16) 控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受ける
・1943年(昭和18)6月 大審院で控訴棄却となり、有罪が確定する
・1944年(昭和19)2月15日 東京において、54歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1274年(文永11)モンゴル軍が対馬に初来襲し第1回元寇(文永の役)が始る(新暦11月11日)詳細
1773年(安永2)江戸幕府第11代将軍徳川家斉の誕生日(新暦11月18日)詳細
1950年(昭和25)アメリカのUP通信社が、アメリカの対日講和7原則を報道する詳細
1964年(昭和39)日本初の高速バスである国鉄・日本急行の名神ハイウェイバスが運行開始する詳細


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