
吉田富三(よしだ とみぞう)は、福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれましたが、1915年(大正4)に浅川小学校卒業後、上京しました。錦城中学校を経て、1923年(大正12)に旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学します。
1927年(昭和2)に卒業し、同大学病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となり、1929年(昭和4)には、佐々木研究所に入所、佐々木隆興(たかおき)の指導を受けました。1932年(昭和7)に、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功、1934年(昭和9)には、「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表します。
1935年(昭和10)に佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に入り、イギリス、アメリカでも学び、1937年(昭和12)に帰国しましたが、この間に、論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京帝国大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞しました。1938年(昭和13)に長崎医科大学教授に就任、病理学を担当、1943年(昭和18)には、ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼びます。
1944年(昭和19)に東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍を発表、1948年(昭和23)には、「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名されました。1951年(昭和26)にラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となります。
1952年(昭和27)に東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発、1953年(昭和28)には、佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞しました。1958年(昭和33)に東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任、1959年(昭和34)には、文化勲章を受章、科学技術会議専門委員ともなります。
その後、1961年(昭和36)にペルジア大学(イタリア)より名誉学位授与、国語審議会委員、1962年(昭和37)に藤原賞受賞、1963年(昭和38)には、東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞、1965年(昭和40)には故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与されました。1966年(昭和41)に国際癌学会会長(東京)に就任、1968年(昭和43)に日本ユネスコ国内委員会副会長など要職にも就きましたが、1973年(昭和48)4月27日に、東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
1927年(昭和2)に卒業し、同大学病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となり、1929年(昭和4)には、佐々木研究所に入所、佐々木隆興(たかおき)の指導を受けました。1932年(昭和7)に、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功、1934年(昭和9)には、「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表します。
1935年(昭和10)に佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に入り、イギリス、アメリカでも学び、1937年(昭和12)に帰国しましたが、この間に、論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京帝国大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞しました。1938年(昭和13)に長崎医科大学教授に就任、病理学を担当、1943年(昭和18)には、ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼びます。
1944年(昭和19)に東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍を発表、1948年(昭和23)には、「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名されました。1951年(昭和26)にラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となります。
1952年(昭和27)に東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発、1953年(昭和28)には、佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞しました。1958年(昭和33)に東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任、1959年(昭和34)には、文化勲章を受章、科学技術会議専門委員ともなります。
その後、1961年(昭和36)にペルジア大学(イタリア)より名誉学位授与、国語審議会委員、1962年(昭和37)に藤原賞受賞、1963年(昭和38)には、東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞、1965年(昭和40)には故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与されました。1966年(昭和41)に国際癌学会会長(東京)に就任、1968年(昭和43)に日本ユネスコ国内委員会副会長など要職にも就きましたが、1973年(昭和48)4月27日に、東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
〇吉田富三の主要な著作
・『癌ノ発生 — 癌原性物質ノ研究概観』(1949年)日本医書出版
・翻訳書『ウィルヒョウ 細胞病理学』(1957年)南山堂
・『吉田肉腫 — 癌化学療法の基礎的研究』(1964年)寧楽書房
・『美と教養 — 心の対話』(1968年)日本ソノサービスセンター
・『雑念雑記』(1972年)南山堂
・『生命と言葉 — 随想集』(1972年)読売新聞社
☆吉田富三関係略年表
・1903年(明治36)2月10日 福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれる
・1915年(大正4) 浅川小学校卒業後、上京する
・1920年(大正9) 錦城中学校を卒業する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学医学部を卒業し、病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となる
・1929年(昭和4) 佐々木研究所に入所する
・1932年(昭和7) 佐々木隆興の指導の下、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功する
・1934年(昭和9) 「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表する
・1935年(昭和10) 佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に学ぶ、癌学会山極賞、服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞する
・1937年(昭和12) 海外留学から帰国する
・1938年(昭和13) 長崎医科大学教授に就任、病理学を担当する
・1943年(昭和18) ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼ぶ
・1944年(昭和19) 東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍(吉田肉腫)を発表する
・1948年(昭和23) 「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名される
・1951年(昭和26) ラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となる
・1952年(昭和27) 東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発する
・1953年(昭和28) 佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任する
・1959年(昭和34) 文化勲章を受章、科学技術会議専門委員となる
・1960年(昭和35) 日本学術会議会員となる
・1961年(昭和36) 第50回日本病理学会会長、ペルジア大学(イタリア)より名誉学位を授与され、国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 第9回国際癌会議組織委員会委員長となり、藤原賞を受賞する
・1963年(昭和38) 東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞する
・1965年(昭和40) 故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与される
・1966年(昭和41) 国際癌学会会長(東京)に就任する
・1968年(昭和43) 日本ユネスコ国内委員会副会長となる
・1971年(昭和46) 第18回日本医学会総会で特別講演(癌の成長)する
・1973年(昭和48)4月27日 東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1439年(永享11) | 鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日) | 詳細 |
1657年(明暦3) | 儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日) | 詳細 |
1904年(明治37) | 「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される | 詳細 |
1929年(昭和4) | 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる | 詳細 |
1940年(昭和15) | 「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる | 詳細 |