ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:異国船打払令

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 今日は、江戸時代後期の1842年(天保13)に、江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出された日ですが、新暦では8月28日となります。
 「天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)」は、江戸幕府が、1825年(文政8)に出した「異国船打払令」を撤廃し、来航した外国船には薪水、食料を与え、速やかに退去させることを命じた法令でした。この間に、1837年(天保8)のモリソン号事件を契機に幕政批判が高まり、1840年(天保11)のアヘン戦争における清の劣勢に驚いて攘夷の不得策を知ったこと、また、天保の改革の進行が幕府の外交方針変更の背景となり、それまでの異国船打払の方針を緩和したものです。
 その後、1853年(嘉永6)のペリー来航までに、3回にわたって「異国船打払令」の復活が図られましたが、いずれも実現せず、開国へ向かっていくこととなりました。
 以下に、「天保の薪水給与令」を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「天保の薪水給与令」 1842年(天保13年7月23日)発布

天保十三寅年七月二十三日、異国船打払いの儀停止御書付

異国船渡来の節、二念無く打払い[1]申すべき旨、文政八年仰せ出され候。然る処当時[2]万事御改正[3]にて、享保・寛政の御政事に復せられ[4]、何事によらず御仁政[5]を施され度との有難き思召に候。右については、外国のものにても難風に逢ひ、漂流にて食物薪水を乞候迄に渡来候を、其の事情相分らざるに、一図に打払い[6]候ては、万国に対せられ候御処置とも思召されず候。これに依って文化三年異国船渡来の節、取計方[7]の儀につき仰せ出され候趣相復し候様仰せ出され候間、異国船と見受け候はば、得と様子相糺し[8]、食料薪水等乏しく帰帆[9]成り難き趣候はば、望の品[10]相応に与へ、帰帆[9]致すべき旨申し諭し、尤上陸は致させ間敷候。併し此の通り仰出され候に付ては、海岸防禦の手当[11]ゆるがせにいたし置き、時宜など心得違ひ[12]、又は猥に異国人に親み候儀等はいたす間敷筋に付、警衛向の儀は弥々厳重に致し、人数共武器手当等の儀は、是よりは一段手厚く、聊にても心弛み[13]これ無き様相心得申すべく候。若し異国船より海岸様子を伺ひ、其の場所人心の動静を試し候ためなどに、鉄砲を打懸け候類これ有るべき哉も計り難く候得共、夫等の事に動揺致さず、渡来の事実能々相分り、御憐恤[14]の御主意貫き候様取計い申すべく候。され共 彼方より乱妨の始末[15]これ有り候歟、望の品[9]相与へ候ても帰帆[8]致さず、異儀[16]に及び候はば速に打払ひ、臨機の取計は勿論の事に候。備向手当の儀[17]は猶追て相達し候次第もこれ有るべき哉に候。文化三年相触れ候紙面[18]はこれ有るべく候得共、心得の為[19]、別紙写し相達すべく候。
    七月
右の通り相触れべく候。
  文化三年寅年相触れ候趣(省略)

  「徳川禁令考」より

【注釈】

[1]二念無く打払い:にねんなくうちはらい=1825年(文政8)に出した「異国船打払令」のことを指す。
[2]当時:とうじ=現在。
[3]万事御改正:ばんじごかいせい=天保の改革が進行していることを指す。
[4]享保・寛政の御政事に復せられ:きょうほう・かんせいのごせいじにふくせられ=享保・寛政の両改革にならって。
[5]仁政:じんせい=恵み深く、思いやりのある政治。
[6]一図に打払い:いちずにうちはらい=「異国船打払令」の条文中にある語。
[7]文化三年異国船渡来の節、取計方:ぶんかさんねんいこくせんとらいのせつ、とりはからいかた=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」のこと。
[8]得と様子相糺し:とくとようすあいただし=念を入れて事情を調べ。よく事情を聞き。
[9]帰帆:きはん=帰国。
[10]望の品:のぞみのしな=希望する品物。
[11]海岸防禦の手当:かいがんぼうぎょのてあて=江戸幕府の海岸防備強化の指示。
[12]心得違ひ:こころえちがい=対応を誤ること。
[13]聊にても心弛み:いささかにてもこころゆるみ=少しでも油断する。
[14]憐恤:れんじゅつ=あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。
[15]乱妨の始末:らんぼうのしまつ=暴力を使って物を奪い取る次第。
[16]異儀:いぎ=他と違った議論や意見。また、相手の期待したのとは反対の意志を表わすこと。異論。異存。
[17]備向手当の儀:そなえむきてあてのぎ=警備体制のこと。
[18]文化三年相触れ候紙面:ぶんかさんねんあいふれそうろうしめん=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」の書付。
[19]心得の為:こころえのため=心得るため。物事の細かい事情などを理解してもらうため。理解のため。会得のため。

<現代語訳>

天保13年(1842年)7月23日、「異国船打払い令」停止の公文書

外国船が渡来した時、無条件に打払うべきことを文政8年(1825年)に命令された。しかしながら、現在すべてのことが改革中(天保の改革)なので、享保・寛政の両改革にならって、何事によらず恵み深く、思いやりのある政治を行いたいという有り難いお考えである。これについては外国船でも暴風に遭遇して、漂流等で食物、薪水を乞う為に来航した際は、その事情が分らない内に、一様に打払うのは、諸外国に対する適切な処置とも思われない。従って、文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の趣旨に戻すように命令されたので、外国船を見かけたならば、念を入れて事情を調べ、食料や薪水などが欠乏して帰国出来ないのであれば、希望する品物を相応に与えて、帰国させるように、とはいっても、上陸はさせてはならないこと。しかし、この命令が出されたからと言って、幕府の海岸防備強化の指示などをゆるがせにして、適切な対応を誤ったり、またむやみに外国人と親しくしたりしないこととし、警備体制についてはさらに厳重にし、守備人数や武器の準備等はこれまでよりいっそう充実させ、少しでも油断することが無い様に心得ること。もし外国船が海岸の様子をうかがって試しに鉄砲を撃ちかけるようなことが有っても、それらのことに動揺せず、来航の目的をよくよく把握し、情をかけて物を施すという通達の趣旨を貫いて取り計らうべきこと。しかし、相手より暴力を使って物を奪い取る次第で、希望する品物与えても帰国せず、異存がある時は、速やかに打払い、臨機応変に対応することは当然である。警備体制については追って通達することもあると思われる。文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の書付は有るとは思うが、理解のために別紙として添付するものである。
   7月
右のように通達するものである。
   文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」(省略)

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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」に基づいて砲撃した、モリソン号事件が起きた日ですが、新暦では7月30日となります。
 モリソン号事件(モリソンごうじけん)は、日本人漂流民(音吉ら7人)を伴い、通商を求めて、マカオから浦賀沖に来航したアメリカ合衆国の商船モリソン(Morrison)号が、「異国船打払令」に従った浦賀奉行の砲撃を受け、さらに鹿児島湾に入港しようとして砲撃された事件でした。1837年(天保8)に、中国の広東のアメリカ商社オリファント商会は社船モリソン(Morrison)号で、日本人の海難船員のの7名(岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松)を日本に送還し、それを契機に日本との貿易とアメリカ海外宣教団の日本布教の端緒を開こうとします。マカオを出帆し、浦賀沖に至りましたが、「異国船打払令」に基づいて6月28、29日と砲撃され、やむなく鹿児島湾へ回航したものの、再び砲撃を受けて、引き返すことになりました。
 これに関わって、幕府の対外政策を批判して、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語)』を著し、蛮社の獄を引き起こす原因となります。

〇蛮社の獄とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。
<蛮社の獄で逮捕された主要な人物>
・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

☆渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

<『慎機論』抜粋>
 「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。(中略)今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」

☆高野長英著『夢物語 (戊戌夢物語)』とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「戊戌夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする打払令がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

<『夢物語 (戊戌夢物語)』抜粋>
「冬ノ夜ノ更行マゝニ、人語モ漸ク聞ヘ、履声モ稀ニ響キ、妻戸ニ響ク風ノ音スサマシク最物凄サニ、物思フ身ハ殊更眠リモヤラレス、独リ机ニ倚テ燈ヲ掲テ書ヲ讀ケルニ、夜イタク更ヌレハ、イツシカ眠ヲ催シ気モツカレ夢トナク幻トナク恍惚タル折節、或方ヘ招カレイト、廣キ座敷ニイタリケレハ、碩学鴻儒ト覚シキ人々数十人集會メイロイロ物語シ待ケル。
 其方中ニ甲ノ人乙ノ人ニ向テ云ケルハ。
 近来珍ラシキ噂ヲ聞ニ、英吉利国ノモリソント云モノ頭ト成テ、船ヲ仕出シ日本漂流人七人乗セ、江戸近海ニ船ヲ寄セ、是ヲ餌トシテ交易ヲ願フ由和蘭陀ヨリ申出ントナシ、抑英吉利国ト云フハ如何ナル国ニ候ヤ。
 乙ノ人答ケルハ、
 英吉利国ト申ス国ハ、阿蘭陀国王都アハステルタシムト申所ヨリ百八十里許モ隔リ、順風ノ時ハ一日夜位ニテモ通船イタス所ニテ、国之大サハ日本ホトモコレ有ヨシニ候ヘトモ、寒国ニテ人数ハ日本ヨリ少ク、總括シテ人口一千七百七十萬六千人ト申候。国人敏掟ニシテ事ヲ勉強シ怠惰セス、文学ヲ勤メ工技ヲ研究シ、武術ヲ練磨シ、民ヲ富シ、国ヲ彊クスルヲ先務ト仕候。海濱浅灘礁多ク、外冦入カタク候ニ付、近来歐羅巴大乱ノ時モ、英吉利ハ孤立シテ国民干戈ノ災ヲ免レ申候。
 国都ロンドント申所ハ、至テ繁昌ノ所ニテ、待坊美麗人戸稠蜜ニシテ、人口ノ凡百萬許モ居リ候。由海運ノ都合宜シキ所ニテ、専ラ諸方交易ヲ改メ諸国ニ航海仕リ不毛ヲ開キ人民ヲ蕃殖シ夷人ヲ教導シテ服従セシメ此節ニ至リテハ外国領分ノ人数ハ七千四百廿四萬人ト申候左候得ハ本国四倍ニモ至リ申候。其国々ノ名ハ、一ツハ北アメリカ南アメリカ西側ニ候。二ハ西印度ト名付テ南北アメリカノ間ノ嶋也。三ハアフリカ州ノ内ニテ天竺ノ西南ニ当ル。四ハ新阿蘭陀ト申テ日本極南ニアタリ。五ハアメリカト申候テフラシリト国名コイ子ア并カリホルニア邊ニテ、日本ノ東ニ当ル所也。六ハ又天竺ノ内モコル抔唱候国中ニテ、雲南邏羅ノ南ニテ、天竺ノ地ニ候。七ハ東天竺ト申テ、日本ノ近海南洋ノ諸嶌無人近所ヨリ南ノ嶌ニテ候。
 以上国々夫々役人共ヲ差向ケ支配イタサセ候故其者共ノ乗候船ハ軍船ニテ一船ニ石火矢四五十門モ備ヘ差ツカハシ候由ニテ、其船ノ数ハ二萬五千八百六十艘ト申候。其船ニノリ候上役人ハ、都合十七萬八千六百二拾人、下役人ハ四十萬六千人、水主コンロン等取集括百萬程モコレ有リ。誠ニ廣大ノ事ニ相聞申候。
 右故自然航海ノ術并水軍ニハ殊ノ外熟練仕リ、外国出張次第ニ廣大ニ相成、交易ノ道モ漸々旺盛ニ相成、五大州比駢無之様ニ相成候ニ付、諸方ノ者共是ヲ恐羨ミ申候由。
 支那ニモ前々ヨリ交易仕候ニ付、廣東側ニ地所ヲ給リ、商館ヲ営シ、總督并偖役人ヲ差遣シ置、年々南海諸島并アメリカ産物ヲ数十艘ニ積廣東ヘ輸送イタシ、専ラ茶ト交易仕候、右ヲ本国ヘ送リ候。事ニナシ然ル處イキリスハ雲南邏羅辺ニ領分所有リテ支那ノ属国ニ界ヲ接シ候ニ付、邊民共擾乱仕リ堺ヲ越互ニ闘争接戰仕事時々有之候。故支那人イギリス人ヲ疎ミ申候。
 加フルニホルトカル即日本ノ南蛮ト唱ル国ナリ、阿蘭人廣東ヘ同様交易仕候ニ付、イキリスノ交易盛ニ相成候ヘハ、自然ト自己ノ衰微ニモ相成候。故イロイロ讒言ヲ搆種々誹謗仕候ニ付、元ヨリホルカル和蘭陀ハ、清朝革命ノ此大功モコレ有リ、夫ニ廣ク地面ヲ給リ外ナラヌ親愛ヲ受候モノ儀ニ付、右讒ヲ信シ猶々イキリスハ忌憚ラレ、交易物取捌キ方モ不宜、既ニ乾隆年中ノ比ハ貸ノミ日ニ増シ、崇ク相成交易方立行不申候。ヤウニ至リ候依之本国ニテモイロイロ評議イタシ、以来廣東交易方相休メ候方可然抔申候説モ有之候処、近来イキリスニテ茶殊ノ外流行仕人々相用候儀ニ付支那交易相休メ候得ハ人々迷惑ニ相成、且又イキリス領南海諸嶌天竺及アメリカ辺茶モ多クコレ有レトモ其品支那ニハ遥ニ劣リ其上沢山ニハ産シ不申候、交易相休候事何ハ成カタク、尚亦評議致候處右交易方不取捌儀ハ廣東下役人ノ所為ニテ全ク支那ノ意ニ出ルニハコレ無キヤウ存シシラレ候ニ付、其時嘉慶帝誕生有之間右誕生ヲ賀シ貢物ヲ数多北京ニ呈シ候ヲ名トシテ使節ヲ遣シ直ニ帝ヘ愁訴仕候方可然ト申事ニ一決シ、本国ヨリ人物ヲ撰シコルトマカルテ子リト申者其撰ニ当ル正使ニ仕リ、天文地理医術物産ハ未熟ノ由ニ存、右熟練仕候者ヲ撰ミ同船為仕、右ニ関係仕ル書籍ハ勿論諸器諸物ニ至ルマテ一切相整、其餘支那通用ノ者モ相撰ミ、正使副使ノ船各一艘、兵船案内船一艘、都合四艘ニテ本国ヨリ乗出シ、其序日本朝鮮ヘモ交ヲ結度、国王ノ書簡ヲ相遣候由。右ニテ廣東交易ノ儀宜シク相成候。ヤヤ近来ニテハ、廣東ニ有之候西洋諸国ノ商館ノ内、イキリス尤大ニ相聞ヘ申候。(後略)」

    ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代後期の1825年(文政8)に、江戸幕府が「異国船打払令」を出した日ですが、新暦では4月6日となります。
 これは、 江戸幕府が出した外国船追放令で、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じたもので、「無二念打払令」または「文政の打払令」ともいいます。
 江戸幕府は、1806年(文化3)に漂流船には薪水を給与すると同時に、江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じていました。
 しかし、1808年(文化5)にフェートン号事件が起こり、日本近海にイギリスとアメリカの捕鯨船が頻繁に出没し始め、さらに1818年 (文政元) 、イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求したり、1824年(文政7)には常陸、薩摩などで外国船員が上陸するという事態も起こったのです。
 そこで、1825年(文政8)に、これによって、日本の沿岸に近づく外国船に対し、無差別に砲撃を加えて撃退することを命じました。
 そして、1837年(天保8)にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えたりしたのです。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられた情報が伝わると、急いで水野忠邦らがこれについて評議した末、老中真田幸貫の意見を容れて、同年にこれを廃止し、.元の薪水供給令に戻りました。

〇異国船打払令 (全文) 1825年(文政8年2月18日)

 異国船打払令

 文政八酉年二月十八日
 異国船[1]渡来の節取計方[2]、前々より数度仰出されこれ有り、をろしや船[3]の儀に付いては、文化の度改めて相触れ候[4]次第も候処、いきりすの船[5]、先年長崎において狼籍[6]に及び、近年は所々[7]へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年[8]に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞[9]、其上邪宗門[10]に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮[11]・西洋の儀は御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方[12]におゐても異国船乗寄候を見請候はゞ、其所に有合候人夫を以て有無に及ばず[13]一図[14]に打払い、迯延候はゞ追船等差出に及ばず、其侭に差置き、若し押して上陸致し候はば、搦捕又は打留候ても苦しからず候。本船近寄り居り候はば、打潰し候共、是又時宜次第取計らるべき旨、浦方末々の者迄申含み、追て其段相届け候様、改て仰出され候間、其意を得、浦浦手立の儀は土地相応、実用専一に心掛け、手重過ぎ申さざる様、又怠慢もこれ無く、永続致すべき便宜を考へ、銘々存分に申付けらるべく候。
 尤唐[15]・朝鮮・琉球などは船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分けも相成かね申すべく、右等の船万一見損い、打誤り候共、御察度[16]は之有間敷候間、二念無く[17]打払いを心掛け、図を失わざる様[18]取計らい候処、専用の事に候条、油断無く申付けらるべく候。

                『御触書寛保集成』より
           *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】
[1]異国船:いこくせん=外国船(オランダ、中国、朝鮮、琉球のものは除く)
[2]取計方:とりはからいかた=取り扱う方法。
[3]をろしあ船:おろしあせん=ロシア船。
[4]文化の度改めて相触れ候:ぶんかのどあらためてあいふれそうろう=1806年(文化3)の文化の撫恤令のこと。
[5]いきりすの船:いぎりすのふね=イギリス船。
[6]長崎において狼藉:ながさきにおいてろうぜき=1808年(文化5)のフェートン号事件のこと。⇒詳細
[7]所々:しょしょ=イギリス船がしばしば浦賀、長崎、琉球に来航したことを指す。
[8]去年:きょねん=1824年(文政7)に、イギリス捕鯨船が常陸大津浜や薩摩国宝島に上陸したことを指す。
[9]追々横行の振舞:おいおいおうこうのふるまい=だんだん勝手な行動がひどくなり。
[10]邪宗門:じゃしゅうもん=キリスト教のこと。
[11]南蛮:なんばん=ポルトガル、イスパニアを指す。
[12]浦方:うらかた=海辺の村。
[13]有無に及ばず:うむにおよばず=迷わず。
[14]一図:いちず=ひたすらに。ただちに。軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した金のこと。
[15]唐:から=中国のことで、当時は清国。
[16]御察度:ごさっと=非難すること。違法を咎めること。
[17]二念無く:にねんなく=迷うことなく。考えることなく。
[18]図を失はざる様:ずをうしなわざるよう=時期を逃さぬよう。

<現代語訳>

異国船打払令

 外国船が渡来した時の取扱う方法は、これまでに数回通達されているロシア船については、1806年(文化3)の文化の撫恤令の通りであるが、イギリス船も先年長崎で狼藉を行い(1808年(文化5)のフェートン号事件のこと)、最近では所々へ小船でやってきては薪水、食糧を要求し、昨年はみだりに上陸して、廻船の米穀や島の牛を奪う等だんだん勝手な行動がひどくなり、その上キリスト教を勧める等があり、いずれにしても放置しておくわけには行かない。
 もともとイギリスに限らず、ポルトガル、イスパニアなど西洋の国々は日本で禁止されているキリスト教の国であるので、今後はどこの海辺の村でも、外国船が近付いたら、その場に居合わせた者達で迷わず打払い、逃げた場合は船を出して追う必要なくそのままで良い。もし強硬に上陸してきたならば捕縛しても打ち殺しても構わない。本船が近寄ってきたならば、打ち壊すにしても何にしても臨機応変に実行すべきであるということを末端まで相談し、おってその事を届ける様に改めて通達する。その趣旨を理解して、それぞれの海岸をその土地の状況に応じて、実際に役立つよう守り、過度にならず怠慢にならないように継続可能な体制をとる様に言い渡す事である。
 もっとも中国・朝鮮・琉球などは船の形、人物などの見分けも付くが、オランダ船は見分けがつきにくく、これらの船を万一見誤ったりしても咎めはないので、迷うことなく打払いを心掛け、時機を逃さないようにする事が重要であるので、油断することがないように言い渡す事である。
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 今日は、江戸時代後期の1808年(文化5)に、フェートン号事件の起きた日ですが、新暦では10月4日となります。
 この事件は、鎖国政策をとっていた日本の長崎港で勃発したイギリス軍艦による狼藉事件でした。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダとイギリスは交戦国の関係にあり、東インド総督ミントーの政策を受けて、イギリス軍艦フェートン号が、偽ってオランダ国旗を掲げて長崎港へ入港しました。そして、オランダ商館員2名を逮捕し、長崎奉行に飲料水と薪、食糧などを供給するよう要求したのです。当時、長崎警固にあたっていた佐賀藩兵は実質100余名にすぎず、まともに対処することができず、翌日に長崎奉行は要求を受け入れて、フェートン号は退去したのです。
 その責任を取って、長崎奉行松平康英は切腹自殺し、幕府に大きな衝撃を与えました。
 その後、蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要性を上申しましたが容れられず、逆に、江戸幕府は1825年(文政8) に「異国船打払令」を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐ契機となったのです。

〇「異国船打払令」とは?
 江戸幕府が、江戸時代後期に1825年(文政8)に出した外国船追放令で、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じたもので、「無二念打払令」または「文政の打払令」ともいいます。江戸幕府は、1806年(文化3)に漂流船には薪水を給与すると同時に、江戸湾ならびに全国の沿岸の警備を強化することを諸大名に命じていました。しかし、1808年(文化5)にフェートン号事件が起こり、日本近海にイギリスとアメリカの捕鯨船が頻繁に出没し始め、さらに1818年 (文政元) 、イギリス人 G.ゴルドンが直接浦賀に来航して貿易を要求したり、1824年(文政7)には常陸、薩摩などで外国船員が上陸するという事態も起こったのです。そこで、1825年(文政8)に、この法令によって、日本の沿岸に近づく外国船に対し、無差別に砲撃を加えて撃退することを命じました。そして、1837年(天保8)にアメリカ船モリソン号が浦賀に入港した際に砲撃を加えたりしたのです。しかし、1842年(天保13)にアヘン戦争で清がイギリスに敗れて開国を強制させられた情報が伝わると、急いで水野忠邦らがこれについて評議した末、老中真田幸貫の意見を容れて、同年にこれを廃止し、.元の薪水供給令に戻りました。
 以下に、全文を掲載しておきます。

 文政八酉年二月十八日
異国船渡来の節取計方、前々より数度仰出されこれ有り、おろしや船の儀に付いては、文化の度改めて相触れ候次第も候処、いきりすの船、先年長崎において狼籍に及び、近年は所々へ小船にて乗寄せ、薪水食糧を乞ひ、去年に至り候ては猥りに上陸致し、或いは迴船の米穀島方の野牛等奪取候段、追々横行の振舞、其上邪宗門に勧入れ候致方も相聞え、旁捨置れ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮・西洋の儀は御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方におゐても異国船乗寄候を見請候はゞ、其所に有合候人夫を以て有無に及ばず一図に打払い、迯延候はゞ追船等差出に及ばず、其侭に差置き、若し押して上陸致し候はば、搦捕又は打留候ても苦しからず候。本船近寄り居り候はば、打潰し候共、是又時宜次第取計らるべき旨、浦方末々の者迄申含み、追て其段相届け候様、改て仰出され候間、其意を得、浦浦手立の儀は土地相応、実用専一に心掛け、手重過ぎ申さざる様、又怠慢もこれ無く、永続致すべき便宜を考へ、銘々存分に申付けらるべく候。
尤唐・朝鮮・琉球などは船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分けも相成かね申すべく、右等の船万一見損い、打誤り候共、御察度は之有間敷候間、二念無く打払いを心掛け、図を失わざる様取計らい候処、専用の事に候条、油断無く申付けらるべく候

『御触書天保集成』より
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