応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の1467年(応仁元)~1477年(文明9)までの約11年間にわたって継続した内乱で、応仁・文明の乱とも呼ばれてきました。足利将軍家ならびに管領畠山、斯波両氏の継嗣問題に端を発し、細川、山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって、東軍(細川勝元方)と西軍(山名宗全方)に分かれて、天下を二分する戦いが続きます。
最初は京都を舞台に戦いが繰り広げられましたが、戦火は地方にも広がっていき、有力守護家内部における家督争いと有力守護大名間の対立も絡み合いました。1473年(文明5)に、細川勝元と山名宗全の両将が亡くなっても、まだ継続したものの、1477年(文明9年11月11日)に、大内軍が京から撤収し、終結します。
この戦いにより、京都は焦土と化し、将軍の権威は失墜、幕府体制・荘園制は破壊され、戦国大名の領国制が大きく展開されることとなりました。
以下に、この戦いを記した『応仁記』の冒頭の一部を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
最初は京都を舞台に戦いが繰り広げられましたが、戦火は地方にも広がっていき、有力守護家内部における家督争いと有力守護大名間の対立も絡み合いました。1473年(文明5)に、細川勝元と山名宗全の両将が亡くなっても、まだ継続したものの、1477年(文明9年11月11日)に、大内軍が京から撤収し、終結します。
この戦いにより、京都は焦土と化し、将軍の権威は失墜、幕府体制・荘園制は破壊され、戦国大名の領国制が大きく展開されることとなりました。
以下に、この戦いを記した『応仁記』の冒頭の一部を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『応仁記』とは?
室町時代後期の戦記物で、応仁の乱(1467~1477年)の原因と洛中合戦のようす、東軍細川勝元、西軍山名宗全の死に至る模様を叙述しています。作者不詳で、流布本は3巻3冊からなり、『太平記』の影響を受け、漢字片仮名交じり文で書かれました。本編は「乱前御晴之事」以下30段に分かれ、足利将軍家や管領家の内紛事情、洛中戦の状況などを詳述していて、『群書類従』合戦部に収録されています。
巻第一
(1)乱前晴儀之事
(2)熊谷訴状之事
(3)若君誕生之事
(4)武衛家騒動之事附畠山之事
(5)義就・政長闘乱之事
(6)御霊合戦之事
巻第二
(7)勝元方蜂起之事
(8)所々合戦之事
(9)一条大宮猪熊合戦之事
(10)井鳥野合戦之事
(11)焼亡之事
(12)三宝院攻落事
(13)岩倉合戦之事
(14)室町亭行幸之事
(15)今出川殿勢州下向之事
(16)相国寺炎上之事
(17)蓮池合戦附政長武勇之事
巻第三
(18)赤松家伝之事附神璽之御事
(19)但州合戦之事
(20)醍醐山科合戦之事
(21)船岡山合戦之事
(22)相国寺塔炎上之事
(23)後花園院崩御之事
(24)今出川殿御上洛之事
(25)洛中大焼之事
(26)義視西陣ヘ御出之事付五壇法之事
(27)一条政房卿御最後之事
(28)近江越前軍之事
(29)山崎天王寺合戦之事
(30)山名入道逝去之事付漢寳嬰事
〇『応仁記』巻第一(冒頭)
(1)乱前ノ晴儀[1]ノ事
応仁丁亥ノ歳[2]天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道[3]悉ク乱ル。其起ヲ尋ルニ尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政[4]公ノ天下ノ成敗[5]ヲ有道[6]ノ管領[7]ニ不任、タダ御台所[8]或ハ香樹院[9]或ハ春日局[10]ナド云、理非[11]ヲモ不弁、公事政道[12]ヲモ知リ給ハザル青女房[13]、比丘尼[14]達計ヒ[15]トシテ酒宴淫楽ノ紛レニ[16]申沙汰セラレ[17]、亦伊勢守貞親[18]ヤ鹿苑院ノ蔭凉軒[19]ナンドト評定セラレケレバ、今迄贔負ニ募テ[20]論人[21]ニ申与ベキ所領ヲモ、又賄賂ニ耽ル訴人ニ理ヲ付ケ[22]、又奉行所ヨリ本主安堵ヲ給レバ[23]、御台所[8]ヨリ恩賞ニ被行。此ノ如ク錯乱セシ間[24]、畠山ノ両家(義就・政長)[25]モ文安元年甲子ヨリ今年ニ至ル迄廿四年ノ間ニ、互ニ勘道ヲ蒙ル[26]事三ケ度、赦免セラルル事三ケ度ニ及ブ。何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ[27]。之ニ依テ京童[28]ノ諺ニ、『勘道ニ科[29]ナク赦免ニ忠ナシ』ト笑ケル。又武衛両家(義敏・義廉)、ワヅカニ廿年ノ中ニ改動[30]セラルゝ事両度也、是皆伊勢守貞親[18]色ヲ好ミ、淫着[31]シ贔負セシ故也。加之大乱ノ起ルベキ瑞相[32]ニヤ。公家武家共ニ大ニ移リ、都鄙[33]遠境[34]ノ人民迄花麗[35]ヲ好ミ、諸家大営[36]、万民ノ弊[37]言語道断[38]也。之依万民憂悲苦悩[39]シテ、夏[40]ノ世ノ民ガ桀王[41]ノ妄悪[42]ヲ恨デ、此日何カ亡ン。我爾与倶ニ亡ント謳シガ如。若此時忠臣アラバ、ナドカ之ヲ諌メ奉ラザランヤ。然レドモタダ天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ一段瑩羹様[43]ニ振舞ント成行ケリ。五、六年ノ間、一度ノ晴儀[1]サヘユユシキ諸家ノ大儀ナルニ、此間打続キ九ヶ度迄執リ行ハレケル。先ズ一番ニ将軍家ノ大将ノ御拝賀結構、二番ニ寛政五年三月、観世[44]ガ瓦猿楽[45]、三番ニ同年七月、後土御門院[46]ノ御即位、四番に同六年三月、花頂山・若王子・大原野ノ花見ノ会、五番に同年八月、八幡ノ上掲[47]、六番に同年九月、春日御社[48]参、七番二同年十二月、大嘗会[49]、八番二文政元年三月、伊勢[50]御参宮、九番に花の御幸[51]ナリ。去レバ花御覧ノ結構ハ百味百菓ヲ以ツクリ、御前ノ御相伴衆[52]ノ筋ヲバ金ヲ以テ之ヲ展ベ、御供衆ノ筋ヲバ沈ヲ以テ之ヲ削リ、金ヲ以テ逆鰐口[53]ヲカク。此如面面粧ヲノミ刷ント奔走[54]セシマヽ、皆所領ヲ質ニ置キ、財宝ヲ沽却[55]シテ之動。諸国土民百姓ニ課役ヲカケ、段銭[56]・棟別[57]ヲ色々ノ様ヲカヘテ譴責[58]スレハ、国々ノ名主[59]・百姓ハ耕作ヲシエズ、田畠ヲ捨て乞食[60]シ、足手[61]ニマカセテモダヘ行ク。之ニ依テ萬邦[62]ノ郷里村県ハ、大半郊原[63]ト成ニケリ。鳴呼、鹿苑院殿[64]御代ニ倉役[65]四季ニカカリ、普黄院殿[66]ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル、当御代[67]臨時ノ倉役[65]トテ大嘗会[49]ノ有リシ十一月ハ九ケ度十二月八カ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政[68]ト云フ事ヲ此御代ニ十三カ度迄行ハレケレバ、倉方[69]モ地下方[70]ヘ皆絶ハテケリ。サレバ大乱ノ起ルベキヲ天予[71]メ示サレケルカ、寛正六年九月十三日夜亥ノ刻[72]ニ、坤方[73]ヨリ艮方[74]ヘ光ル物飛渡リケル。天地鳴動[75]シテ乾坤[76]モ忽折レ、世界モ震裂[77]スルカト覚エケル。アン浅猿シ[78]。
(後略)
『応仁記』巻第一より
【注釈】
[1]晴儀:せいぎ=はれがましい儀式。盛儀。
[2]応仁丁亥ノ歳:おうにんていがいのとし=1467年(応仁元)のこと。
[3]五畿七道:ごきしちどう=五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。また、日本全国の意味。
[4]将軍義政:しょうぐんよしまさ=室町幕府第8代将軍足利義政のこと。
[5]成敗:せいばい=政治を行なうこと。政務を執ること。執政。政務。
[6]有道:うどう=正しい道にかなっていること。正道を行なうこと。徳が備わっていること。
[7]管領:かんれい=室町幕府の職名。政務の最高責任者として将軍を補佐した。
[8]御台所:みだいどころ=将軍の婦人日野富子のこと。
[9]香樹院:きょうじゅいん=当時政界で暗躍していた女性。
[10]春日局:かすがのつぼね=当時政界で暗躍していた女性。
[11]理非:りひ=道理に合うことと背くこと。
[12]公事政道:くじせいどう=裁判や政治。
[13]青女房:くじせいどう=若い女房。ここでは春日局のこと。
[14]比丘尼:びくに=尼僧。ここでは香樹院のこと。
[15]計ヒ:はからい=考え定める。計画する。
[16]酒宴淫楽ノ紛レニ:しゅえんいんらくのまぎれに=酒盛りの席上や淫らな楽しみのさなかに政務を行う。
[17]申沙汰セラレ:もうしさたせられ=訴訟の取次や判決が行われ。
[18]伊勢守貞親:もうしさたせられ=当時の政所執事伊勢貞親。
[19]鹿苑院ノ蔭凉軒:ろくおんいんのいんりょうけん=相国寺鹿苑院の寮舎。ここでは軒主の季瓊真蘂のこと。
[20]贔負ニ募テ:ひいきにつのって=気に入った者に格別に力添えをしていたのに。
[21]論人:ろんにん=被告。
[22]訴人ニ理ヲ付ケ:そにんにりをつけ=原告に道理がかなっているとこじつける。
[23]本主安堵ヲ給レバ:ほんしゅあんどをたまわれば=本主が所領の安堵を給与されると。
[24]錯乱セシ間:さくらんせしあいだ=政治が乱れていた間に。
[25]畠山ノ両家(義就・政長):はたけやまのりょうけ(よしひろ・まさなが)=三管領家の一つで、兄弟の家督相続問題が起きた。
[26]勘道ヲ蒙ル:かんどうをこうむる=譴責を受ける。勘気を蒙る。
[27]何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ:なんのふぎなくまたなんのちゅうもなし=何の落ち度もなかったし、また何の忠節があったわけではない。
[28]京童:きょうわらんべ=京都の口さがのない者。
[29]科:とが=罪科。
[30]改動:かいどう=職や地位、また、いったん決定した事柄などをあらため動かすこと。変動。更迭。
[31]淫着:いんちゃく=淫らとなる。
[32]瑞相:ずいそう=前ぶれ。前兆。きざし。
[33]都鄙:とゆう=都会と田舎。
[34]遠境:えんきょう=遠く離れた土地、または場所。遠国。遠地。
[35]花麗:かれい=はなやかで美しいこと。はでであること。また、そのさま。
[36]大営:だいえい=規模の大きな仕事や計画。大事業。
[37]弊:へい=疲れ、おとろえること。疲弊。
[38]言語道断:ごんごどうだん=あまりひどくてことばも出ないほどであること。きわめて悪くて、何ともいいようがないこと。もってのほか。
[39]憂悲苦悩:ゆうひくのう=憂い悲しみ、苦しみ悩む。
[40]夏:か=紀元前1900年頃~紀元前1600年頃にあったとされる、史書に記された中国最古の王朝。夏后氏ともいう。
[41]桀王:けつおう=中国古代の夏王朝最後の王。姓名はじ履癸。妹喜を溺愛し,酒池肉林を楽しみ民心を失い、殷の湯王に滅ぼされたとされる。
[42]妄悪:ぼうあく=筋道がなく、でたらめであくどいこと。
[43]瑩羹様:かがやかんよう=光輝くように。きらびやかに。
[44]観世:かんぜ=能楽師。
[45]瓦猿楽:かわらさるがく=糺河原の勧進(寄付を募る)猿楽(古代~中世に盛んに行われた芸能)のこと。
[46]後土御門院:ごつちみかどいん=第103代とされる天皇(1442―1500年)で、在位は1464~1500年。
[47]八幡ノ上掲:はちまんのしょうけい=石清水八幡宮の祭事。
[48]春日御社:かすがみやしろ=奈良市春日野町、春日山の西側のふもとにある神社。
[49]大嘗会:だいじょうえ=天皇即位後の最初の新嘗祭、ここでは1465年(寛正6)の土御門天皇の時のもの。
[50]伊勢:いせ=三重県伊勢市の伊勢神宮のこと。
[51]御幸:みゆき=天皇の外出をいう。行幸(ぎょうこう)。
[52]相伴衆:しょうばんしゅう=将軍 が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。
[53]鰐口:わにぐち=神殿や仏殿の軒先などにつるす円形・中空で、下方が横長にさけている銅製の具。
[54]奔走:ほんそう=走りまわること。忙しく立ちまわること。
[55]沽却:こきゃく=物品を売り払うこと。売却。
[56]段銭:たんせん=臨時の税。田の面積一段別に銭何文宛と算定したのでこの名がある。
[57]棟別:むなべつ=家屋の棟別に賦課された臨時の税。
[58]譴責:けんせき=きびしく責めること。責めうながすこと。
[59]名主:みょうしゅ=名田 (みょうでん) の所有者。
[60]乞食:こつじき=食物や金銭を人から恵んでもらって生活すること。また、その人。
[61]足手:あして=足と手。てあし。また、からだ。
[62]萬邦:ばんぽう=多くの国。あらゆる国。万国。
[63]郊原:こうげん=野原。原野。野辺。荒地。
[64]鹿苑院殿:ろくおんいんどの=第3代将軍足利義満のこと。
[65]倉役:くらやく=土倉に対する課税。営業税。土倉役。
[66]普黄院殿:ふこういんどの=第6代将軍足利義教のこと。
[67]当御代:とうみよ=第8代将軍足利義政(院号:慈照院)のこと。
[68]徳政:とくせい=債権・債務の破棄令。
[69]倉方:くらかた=幕府御用の土倉。
[70]地下方:じげがた=幕府御用でない一般の土倉。
[71]天予:てんよ=天の啓示。
[72]亥ノ刻:いのこく=午後10時頃。
[73]坤方:ひつじさるかた=未申の方向。南西方向。
[74]艮方:うしとらかた=丑寅の方向。北東方向。
[75]鳴動:めいどう=大きな音をたててゆれ動くこと。鳴りうごくこと。また、その音響と震動。
[76]乾坤:けんこん=天と地。天地。
[77]震裂:しんれつ=地面が揺れ動き、裂けること。
[78]浅猿シ:あさまし=驚歎。興ざめ。嘆かわしい。
<現代語訳>
(1)乱前のはれがましい儀式の事
応仁元年丁亥(1467年)、天下は大動乱となり、それ以来、長期にわたって、日本全国は悉く乱れることとなった。その原因は、初代足利尊氏より七代目の将軍義政公が、天下の政務を徳が備わっている管領に任せず、もっぱら夫人(日野富子)や香樹院、春日局などといった、物事の道理もわきまえず、裁判や政治をも知らない若い女房や尼僧たちの考えで、酒盛りの席上や淫らな楽しみのさなかに政務を行なわせたことだ。また、伊勢守貞親や鹿苑院の蔭凉軒(季瓊真蘂)などと相談して行ったので、いままでのお気に入りの者が訴えられると訴えられた者に所領を与え、被告から賄賂をもらうと今度は被告の勝訴とするありさまだった。また、奉行所から本主が所領の安堵を給与されると、その一方で、夫人(日野富子)が恩賞として他の者に与えられるという具合であった。政治が乱れていた間に、畠山の両家(義就・政長)も、文安元年甲子(1444年)からこの年(1467年)に至るまでの24年間に、譴責を受けたことは三度、赦免されたことも三度に及んだ。何の落ち度もなかったし、また何の忠節があったわけではない。そのため京都の口さがのない者は、「勘当に当たって罪科無く、赦免に当たって忠義無し」と言って笑ったものである。また、武衛両家は、わずか20年の間に二度更迭された。これは、伊勢守貞親が色を好み淫らとなって、贔屓したためである。これに加え、大乱の起こるべき前兆であったのか、公家も武家も共におおいに対象が変わり、都会でも田舎でも遠国の人々まで華やかで美しいことを好み、諸家は大きな儀式を企て、多くの人々の疲弊はあまりひどくてことばも出ないほどであった。こうして多くの人々は憂い悲しみ、苦しみ悩み、夏の人々が桀王の筋道がなく、でたらめであくどいことを恨んで、「この世はいつか亡びるであろう。我と汝と、共に亡びよう。」と歌ったのと同じ様な状況であった。もしこの時に忠臣がいたならば諌言しないはずはなかった。しかし、天下が破れるなら破れてよい。世の中が滅びるなら滅びてよい。他人はどうでも我が身さえ富栄えれば、他人より一段ときらびやかに振舞おうという風潮となっていた。五、六年の間に一度のはれがましい儀式でさえ諸家のやっかい事なのに、この期間に続けて九回も執行された。まず一番に、将軍家の大将の御拝賀の準備。二番に、寛正5年(1464年)3月の観世の河原猿楽(糺河原の勧進猿楽)。三番に、同年7月の後土御門院の御即位。四番に、同6年(1465年)3月の花頂山・若王子・大原野の花見の会。五番に、同8月の石清水八幡宮の上卿。六番に、同年9月の春日御社参拝。七番に、同12月の大嘗会。八番に、文正元年(1466年)3月の伊勢御参宮。九番に、花の御幸である。それゆえに、花御覧の準備には百味百菓を作って、将軍に随従・相伴する人々の道筋を金で飾り、御供衆の道筋は沈香で削って、金で作った逆鰐口を掛けた。このように、人々は装いのみを調えようと走りまわったので、みな所領を質に置き、財宝を売却して、これに勤めた。諸国の土民に課役をかけ、田の面積毎の臨時税・家屋の棟別の臨時税を徴収したので、国々の名主、百姓は耕作することができず、田畑を捨てて乞食になり、その身を食いつなぐがやっとの有様となった。これによって、国々の郷里村県は、大半が荒地となってしまった。ああ、鹿苑院殿(足利義満)の御代に、土倉に対する課税が四季にかかることになり、普広院殿(足利義教)の御代になって、一年に十二度かかることになった。当代(足利義政)になっては、臨時の土倉に対する課税が、大嘗会のあった11月には9回、12月には8回もかけられた。また、借金を反古にしようと、前代未聞の債権・債務の破棄令というものをこの御代に13回も行われたので、幕府御用の土倉も幕府御用でない一般の土倉も、皆いなくなってしまった。このような有様だったので、大乱が起こることを天の啓示によって示されたのか、寛正6年(1465年)9月13日の夜、午後10時頃に、南西方向から北東方向に光る物が飛んだ。天地は鳴り動いて、天と地も裂けるかと思われた。嘆かわしいことであった。
(後略)
☆応仁の乱関係略年表
<応仁元年(1467年)>
・1月18日 畠山義就が上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まる
・5月26日 京都市街戦が決行(上京の戦い)される
・6月3日 足利義政、牙旗を細川勝元に授ける
・6月11日 恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺される
・8月 伊勢貞藤(貞親の弟)が京から追放される
・10月3日 後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発する
<応仁2年(1468年)>
・京の洛外の主要社寺もほとんど兵火にみまわれる
・11月23日 足利義視が山名宗全の陣に投ずる
<文明元年(1469年)>
・九州の大友親繁、少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻する
<文明2年(1470年)>
・2月 大内教幸自身が反乱を起こす
・7月頃 山城の大半が西軍の制圧下となる
<文明3年(1471年)>
・越前守護代朝倉孝景の幕府帰参は東軍の優勢を決定づける
<文明4年(1472年)>
・細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める
<文明5年(1473年)>
・3月18日 山名宗全が死去する
・5月11日 細川勝元が死去する
・12月19日 足利義政が義尚に将軍職を譲って隠居する
<文明6年(1474年)>
・4月3日 山名政豊と細川政元が講和する
・7月 富樫幸千代と富樫政親・朝倉孝景・本願寺門徒連合軍が戦う
<文明7年(1475年)>
・2月 甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命される
・11月 斯波義廉が守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶つ
<文明8年(1476年)>
・9月 足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送くる
・12月 足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答する
<文明9年(1477年)>
・9月 畠山義就が長期にわたり占領していた山城を退去する
・9月22日 畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、河内国に下国する
・11月3日 大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵される
・11月11日 大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1045年(寛徳2) | 第69代の天皇とされる後朱雀天皇の命日(新暦2月7日) | 詳細 | |||||
1657年(明暦3) | 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す(新暦3月2日) | 詳細 | |||||
1911年(明治44) | 大逆事件で起訴された幸徳秋水ら24人に死刑判決が出される | 詳細 | |||||
1944年(昭和19) | 「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員が強化される | 詳細 | |||||
1957年(昭和32) | 植物学者牧野富太郎の命日 | 詳細 | |||||
1984年(昭和59) | 三井三池炭鉱有明鉱(福岡県)で坑内火災が起き、死者83人、負傷者13人を出す | 詳細 |