1573年(天正元)に、織田信長によって、浅井氏が滅亡し、兄達も討ち死にした後、41歳で還俗し海北家の再興を目指しました。画事のかたわら武芸にも励みましたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去ります。
深く宋元画を研究、特に南宋の画院画家梁楷(りょうかい)の影響を強く受け、人物画を能くし、独自の気迫と情感に富む画風を完成させました。1597年(慶長2年)頃に、禅居庵障壁画を描き、友松様式を確立、1599年(慶長4年)頃には、石田三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の建仁寺障壁画を描きます。
1602年(慶長7年)には、『飲中八仙図屏風』および『山水図屏風』を描き、この頃から八条宮智仁親王邸に出入りし、やがて後陽成天皇など宮中の御用をも勤めることとなりました。最晩年の軽妙なタッチの水墨の押絵は宮中や禅僧の間で好評を博したものの、1615年(慶長20年6月2日)に、京都において、数え年83歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1180年(治承4) | 平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市)への行幸(福原遷都)を決行する(新暦6月26日) | 詳細 |
1582年(天正10) | 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する | 詳細 |
1716年(享保元) | 画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日) | 詳細 |
1743年(寛保3) | 陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日) | 詳細 |
1859年(安政6) | 前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日) | 詳細 |
1907年(明治40) | 愛媛県の別子銅山で運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動)が始まる | 詳細 |