ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:画家

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 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、画家・海北派の祖海北友松の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 海北友松(かいほう ゆうしょう)は、戦国時代の1533年(天文2)に、近江国坂田郡(現在の滋賀県)において、浅井長政麾下の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(一説に三男)として生まれましたが、名は紹益(しょうえき)と言いました。1535年(天文4年)の2歳の時、父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行し、この時に絵を狩野派を学んだとされます。
 1573年(天正元)に、織田信長によって、浅井氏が滅亡し、兄達も討ち死にした後、41歳で還俗し海北家の再興を目指しました。画事のかたわら武芸にも励みましたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去ります。
 深く宋元画を研究、特に南宋の画院画家梁楷(りょうかい)の影響を強く受け、人物画を能くし、独自の気迫と情感に富む画風を完成させました。1597年(慶長2年)頃に、禅居庵障壁画を描き、友松様式を確立、1599年(慶長4年)頃には、石田三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の建仁寺障壁画を描きます。
 1602年(慶長7年)には、『飲中八仙図屏風』および『山水図屏風』を描き、この頃から八条宮智仁親王邸に出入りし、やがて後陽成天皇など宮中の御用をも勤めることとなりました。最晩年の軽妙なタッチの水墨の押絵は宮中や禅僧の間で好評を博したものの、1615年(慶長20年6月2日)に、京都において、数え年83歳で亡くなっています。

〇海北友松の主要な作品

・建仁寺禅居庵障壁画(1599年頃)
・『飲中八仙図屏風(びょうぶ)』(1602年)京都国立博物館蔵
・『山水図屏風』(1602年)東京国立博物館蔵
・『浜松図屏風』
・『網干(あぼし)図屏風』
・『雲竜図屏風』北野天満宮蔵
・『牡丹(ぼたん)図屏風』妙心寺蔵

☆海北友松関係略年表

・1533年(天文2年) 近江国坂田郡(現在の滋賀県)において、浅井長政麾下の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(一説に三男)として生まれる
・1535年(天文4年) 2歳の時、父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行する
・1573年(天正元年) 浅井氏が滅亡し、兄達も討ち死にしたのち、41歳で還俗し海北家の再興をめざす
・1597年(慶長2年)頃 禅居庵障壁画を描く(友松様式確立)
・1598年(慶長3年) 石田三成に従い九州へ赴く
・1599年(慶長4年)頃 石田三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の建仁寺障壁画を描く
・1602年(慶長7年) 『飲中八仙図屏風』および『山水図屏風』を描く 
・1615年(慶長20年6月2日) 京都において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)平清盛が遷都を目指して福原(現在の神戸市)への行幸(福原遷都)を決行する(新暦6月26日)詳細
1582年(天正10)京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する詳細
1716年(享保元)画家・工芸家尾形光琳の命日(新暦7月20日)詳細
1743年(寛保3)陶工・絵師尾形乾山の命日(新暦7月22日)詳細
1859年(安政6)前年締結の「日米修好通商条約」により、横浜・長崎が開港される(新暦7月1日)詳細
1907年(明治40)愛媛県の別子銅山で運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動)が始まる詳細
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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の生まれた日ですが、新暦では3月24日となります。
 下岡蓮杖(しもおか れんじょう)は、伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市)で、下田問屋六十三軒衆の一人だった父・桜田与惣右衛門の三男として生まれましたが、通称は久之助と言いました。幼い頃から絵を好み、1835年(天保6)の13歳の時、江戸に出て日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公をしたものの、3年で辞め、下田へ帰ります。
 1843年(天保14)に父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につきましたが、翌年頃には江戸へ行き、絵師狩野董川(とうせん)に弟子入り、玄関番などを勤めつつ絵師を志しました。偶然オランダ船のもたらしたダゲレオタイプを見る機会を得て写真に開眼、外国人に近づこうと、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得ましたが、うまくいかずに下田へ戻ります。
 そこで、「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺い、1856年(安政3)に横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、写真術の原理や基本概要を学びました。1859年(安政6)に下田開港場は閉鎖されお役御免になり、江戸へ出ましたが、翌年頃には横浜へ移り、アメリカ人商人ラファエル・ショイヤーのもとで働きつつ、かたわらショイヤーの妻から西洋風のパノラマ油彩画の技法を学びます。
 また、アメリカの写真家ジョン・ウィルソンの写真術を学び、写真機材一式を入手、1862年(文久2)に横浜野毛に日本最初の営業写真館を開業しました。外国人中心に写真撮影を行っていましたが、1864年(元治元)に来日し、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、石版印刷を学びます。
 1867年(慶応3年)頃に、横浜馬車道の太田町に「全楽堂」の名称で、富士山の大看板を掲げた新築店舗を構え、一方で、馬車を輸入し東京・横浜間で乗合馬車事業を興し、日本初の石版印刷業、牛乳搾取業を始めるなど、文明開化期の様々な新事業にも手を染めました。それらが陰りを見せ始めると、1882年(明治15)には、浅草第五区に写真館を移したものの、写真業から遠ざかり、油絵茶屋などを開き、電車の模型を作ったりして晩年を過ごします。
 門下からは、横山松三郎、鈴木真一、江崎礼二、中島待乳ら、明治期に活躍した高名な写真師を輩出し、日本の商業写真の開祖の一人とされますが、1914年(大正3)3月3日に、東京・浅草において、92歳で亡くなりました。

〇下岡蓮杖関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1823年(文政6年2月12日) 伊豆国下田中原町(現在の静岡県下田市)で、桜田与惣右衛門の三男として生まれる
・1835年(天保6年) 13歳の時、江戸に出て日本橋横山町の足袋問屋に丁稚奉公をする
・1838年(天保9年) 丁稚奉公を辞め、下田へ帰る
・1843年(天保14年) 父のコネで、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽の職につく
・1844年(弘化元年)頃 江戸の絵師狩野董川(とうせん)に弟子入り、玄関番などを勤めつつ絵師を志す
・1856年(安政3年) 横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、写真術の原理や基本概要を学ぶ
・1859年(安政6年12月) 下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になり、江戸へ出る
・1860年(万延元年)頃 横浜へ移り、アメリカ人商人ラファエル・ショイヤーのもとで働きつつ、かたわらショイヤーの妻から西洋風のパノラマ油彩画の技法を学ぶ
・1862年(文久2年) 横浜野毛に日本最初の営業写真館を開業する
・1864年(元治元年) 来日し、石版の技術を有していたアメリカ人の建築技師リチャード・ブリジェンスと親しくなり、そこで石版印刷を学ぶ
・1867年(慶応3年)頃 横浜馬車道の太田町に「全楽堂」の名称で、富士山の大看板を掲げた新築店舗を構える
・1876年(明治9年) 写真師としては第一線から退き、東京・浅草へ転居、浅草公園にパノラマ館を開設する
・1878年(明治11年) 蒸気機関車の模型や空に上がると音を出すアドバルーンなどの話を、読売新聞に書く
・1882年(明治15年) 浅草第5区で営業する
・1914年(大正3年)3月3日 東京・浅草において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、画家・歌人・随筆家小杉放庵の生まれた日です。
 小杉放庵(こすぎ ほうあん)は、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、二荒山神社の神官だった父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれましたが、本名は国太郎(くにたろう)と言いました。1895年(明治28)の15歳の時、宇都宮中学一年で中退、翌年には、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入ります。
 1898年(明治31)の18歳の時、画業を志して無断で上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通ったものの、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷しました。1900年(明治33)の20歳の時、師匠の許可をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門します。
 1902年(明治35)に太平洋画会に入会、翌年からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画も描くようになり、太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点を出品、未醒と号しました。1906年(明治39)に独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわします。
 1907年(明治40)に美術雑誌「方寸」を創刊、翌年の第2回文展に「湟槃会」が初入選しました。1910年(明治43)の第4回文展で「杣」が三等賞、翌年の第5回文展で「水郷」が二等賞、翌々年の第6回文展で「豆の秋」が二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定します。
 1913年(大正2)に渡欧し主にフランスに滞在、翌年シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加しました。1920年(大正9)に日本美術院を脱退、1922年(大正11)には、春陽会創立に参加、しだいに画風、題材に東洋的な傾向を示し、1929年(昭和4)には放庵と改号します。
 1935年(昭和10)に帝国美術院会員、帝国芸術院会員となりましたが、1945年(昭和20)には、太平洋戦争の空襲で東京・田端の画室を焼失、住居を新潟県赤倉に移し定住しました。1959年(昭和34)に日本芸術院会員を辞退、1961年(昭和36)には肺炎により肉体の衰えが目立ち、1964年(昭和39)4月16日に、新潟県赤倉において、84歳で亡くなっています。
 尚、歌人、随筆家としても知られ、歌集『山居』、『石』、『炉』、反戦詩画集『陣中詩篇』、随筆『帰去来』、『故郷』など多くの著作を残しました。

〇小杉放庵の主要な作品

<絵画>
・『山幸彦』(1917年)
・『泉,採薬,静意,動意』(1925年)東京大学安田講堂壁画
・『奥の細道帖』(1927~29年)
・『大宰帥大伴旅人卿讃酒像』(1935年)
・『荘子』(1940年)
・『瘤取』(1949年)出光美術館蔵
・『四季画諧』(1961年)
・『水郷』
・『西遊記』

<著作>
・随筆集『故郷』
・随筆集『帰去来』
・歌集『山居』
・歌集『石』
・歌集『炉』
・歌集『放庵歌集』
・反戦詩画集『陣中詩篇』(1904年)
・『放庵画論』
・『東洋画総論』

☆小杉放庵関係略年表

・1881年(明治14)12月30日 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれる
・1886年(明治19) 6歳の頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう
・1888年(明治21) 8歳の時、日光小学校に入学する
・1895年(明治28) 15歳の時、宇都宮中学一年で中退する
・1896年(明治29) 16歳の時、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る
・1898年(明治31) 18歳の時、画業を志し上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通い、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷、再び文哉宅に帰る
・1899年(明治32) 19歳の時、吉田博日光へ来遊、はじめて知る
・1900年(明治33) 20歳の時、師匠の許をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門、同期生に青木繁、荻原守衛らがいた
・1901年(明治34) 21歳の時、田端で自炊生活をする
・1902年(明治35) 22歳の時、太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催、会員となる
・1903年(明治36) 23歳の時、不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品、未醒と号す
・1904年(明治37) 24歳の時、渡鮮、日露戦争画勃発して従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信、帰国後近事画報社の正社員として入社する
・1905年(明治38) 25歳の時、太平洋画会第4回展に「戦友」他数展を出品する
・1906年(明治39) 26歳の時、独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす、独歩の仲人で春夫人と結婚する
・1907年(明治40) 27歳の時、美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍する
・1908年(明治41) 28歳の時、第2回文展に「湟槃会」が初入選する
・1909年(明治42) 29歳の時、第7回太平洋画会展に「黄昏」を出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり
・1910年(明治43) 30歳の時、第8回太平洋画会展に「浦島」、「一本杉」を出品、第4回文展で「杣」が三等賞となる
・1911年(明治44) 31歳の時、第9回太平洋画会展に「河原の杉」を出品、第5回文展に「水郷」を出品し二等賞となる
・1912年(明治45) 32歳の時、第6回文展に「豆の秋」を出品、二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定する
・1913年(大正2) 33歳の時、渡欧し主にフランスに滞在、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学する
・1914年(大正3) 34歳の時、シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加する
・1920年(大正9) 40歳の時、院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退する
・1922年(大正11) 42歳の時、春陽会創立に参加する
・1923年(大正12) 43歳の時、第1回春陽会展に「泉」を出品する
・1924年(大正13) 44歳の時、第2回春陽会展に「採薬」を出品する
・1925年(大正14) 45歳の時、第3回春陽会展に「泉」を出品、東大安田講堂に壁画「泉,採薬,静意,動意」を製作する
・1927年(昭和2) 47歳の時、芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ
・1929年(昭和4) 49歳の時、中国に遊び、この機会に「放庵」と改号する
・1935年(昭和10) 55歳の時、帝国美術院会員、帝国芸術院会員となる
・1945年(昭和20) 65歳の時、戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する
・1959年(昭和34) 79歳の時、日本芸術院会員を辞退する
・1960年(昭和35) 80歳の時、小杉放庵の画集60年展を開催する
・1961年(昭和36) 81歳の時、肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」を出品する
・1963年(昭和38) 83歳の時、再三の肺炎に体力を失い寡作となる
・1964年(昭和39)4月16日 新潟県赤倉において、84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の生まれた日です。
 北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)は、京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都府京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれましたが、本名は房次郎(ふさじろう)と言いました。誕生前に父は亡く、養子先を転々として幼年時代を送り、1894年(明治27)の10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業後、京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ出されます。
 1896年(明治29)に丁稚奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始め、書を書き、絵筆を買い我流で絵を描き始めました。1904年(明治37)の20歳の時、上京して母に会いに行ったが受け入れられず、そのまま残って書家になることを志し、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞します。
 翌年に町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込み、1907年(明治40)には福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立しました。1910年(明治43)に実母と共に朝鮮にいきましたが、1912年(明治45)に帰国後、書道教室を開き、翌年から篆刻も習い始めます。
 1915年(大正4)に陶芸にも手を染め、翌年に母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使い始めました。1917年(大正6)に便利堂の中村竹四郎と交友を深め、1919年(大正8)に共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開き、1921年(大正10)には、会員制食堂「美食倶楽部」を発足します。
 1925年(大正14)に東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮」を始め、1927年(昭和2)には、荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始しました。しかし、1936年(昭和11)に星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心し、戦後の1946年(昭和21)には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店します。
 多種の技法に通じ、様々な古陶を再現しつつ自由な作風を示して評価され、1954年(昭和29)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催、1955年(昭和30)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しました。自由奔放な生活を送ってきたものの、1959年(昭和34)12月21日に肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなっています。

〇北大路魯山人関係略年表

・1883年(明治16)3月23日 京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれる。
・1883年(明治16)9月6日 巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる
・1887年(明治20)頃 4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる
・1889年(明治22)6月22日 木版師の福田武造の養子となり、以後約27年間福田姓を名乗ることとなる
・1894年(明治27) 10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業する
・1894年(明治27)春 京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ出される
・1896年(明治29)1月 奉公を辞める
・1897年(明治30) 14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める
・1904年(明治37) 20歳の時、上京し母に会いに行ったが受け入れられず、残って書家になることを志す
・1904年(明治37) 日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞する
・1905年(明治38) 町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込む
・1907年(明治40) 福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する
・1908年(明治41)2月17日 結婚する
・1910年(明治43)12月 実母と共に朝鮮に旅立つ
・1912年(明治45)夏 帰国し書道教室を開く
・1913年(大正2) 29歳の時から篆刻(てんこく)も習い始める
・1915年(大正4) 陶芸に手を染め始める
・1916年(大正5) 母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使いはじめる
・1917年(大正6) 便利堂の中村竹四郎と交友を深める
・1919年(大正8) 中村竹四郎と共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開く
・1921年(大正10) 会員制食堂・「美食倶楽部」を発足する
・1925年(大正14)3月20日 東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を始める
・1927年(昭和2) 荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始する
・1928年(昭和3) 日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う
・1936年(昭和11) 星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心する
・1945年(昭和20) 空襲により「星岡茶寮」が焼失する
・1946年(昭和21) 銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店する
・1951年(昭和26) 結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させる
・1954年(昭和29) ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される
・1955年(昭和30) 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退する
・1959年(昭和34)12月21日 肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなる
・1998年(平成10) 管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細


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 今日は、江戸時代中期の1716年(正徳6)に、画家伊藤若冲の生まれた日ですが、新暦では3月1日となります。
 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)は、京都・錦小路にあった青物問屋の桝屋源左衛門の長男として生まれましたが、名は汝釣(じょきん)と言いました。家業のかたわら、15歳頃から絵を学びはじめ、狩野派の流れを汲む大岡春卜に師事したとされますが、宋・元・明画なども学んでいます。
 1738年(元文3)の23歳の時、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名しました。しかし、商売にはあまり熱心でなく、遊び事はあまりしませんでしたが、妻もめとらず、1755年(宝暦5)の40歳の時、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居してしまいます。
 1758年(宝暦8年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年には鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を制作しました。1765年(明和2年)の50歳の時、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進、翌年の父の三十三回忌には相国寺にさらに6幅を寄進しています。
 1771年(明和8年)に枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めましたが、市場の営業を巡っていさかいがあり、紆余曲折の末、1774年(安永3)に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認されました。1788年(天明8年)の天明の大火で自宅を焼失し、翌年頃 京都・海宝寺の方丈へ「群鶏図障壁画」、翌々年には豊中・西福寺の「仙人掌群鶏図襖」を描いています。
 晩年は、伏見深草の石峯寺に隠遁し、義妹の心寂と暮らしていましたが、1800年(寛政12年9月10日)に数え年85歳で亡くなり、同寺に埋葬されました。

〇伊藤若冲の主要な作品

・『鹿苑寺大書院障壁画』(1759年)京都市・鹿苑寺蔵 国指定重要文化財
・『釈迦三尊像』3幅(1765年)相国寺蔵
・『野菜涅槃図』京都国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『動植綵絵(どうしょくさいえ)』30幅(1757~66年) 宮内庁蔵
・『群鶏図障壁画』(1789年頃)京都・海宝寺蔵
・『仙人掌群鶏図襖絵(さぼてんぐんけいずふすまえ)』(1790年)豊中市・西福寺蔵 国指定重要文化財

☆伊藤若冲関係略年表(日付は旧暦です)

・1716年(正徳6年2月8日) 京都・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生まれる
・1730年(享保15年)頃 15歳頃から絵を学びはじめ、狩野派の流れを汲む大岡春卜に師事する
・1738年(元文3年) 23歳の時、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する
・1755年(宝暦5年) 40歳の時、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する
・1758年(宝暦8年)頃 「動植綵絵」を描き始める
・1759年(宝暦9年10月) 鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を制作する
・1764年(明和元年) 金刀比羅宮奥書院襖絵を描く
・1765年(明和2年) 50歳の時、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する
・1766年(明和3年) 父の三十三回忌には相国寺にさらに6幅を寄進する
・1771年(明和8年) 枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤める
・1771年(明和8年12月) 京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来る
・1771年(明和9年1月15日) 帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される
・1771年(明和9年2月末) 冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開される
・1771年(明和9年7月) 再び営業停止になる
・1773年(安永2年) 萬福寺住職伯珣照浩から印可を得て、「革叟」の号と僧衣を貰う
・1774年(安永3年8月29日) 年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認される
・1776年(安永5年) 石峯寺五百羅漢石像の下図を描く、
・1788年(天明8年) 天明の大火で、自宅を焼失する
・1789年(天明9年)頃 京都・海宝寺の方丈へ「群鶏図障壁画」を描く、
・1790年(天明10年) 「仙人掌群鶏図襖」(大阪西福寺蔵)を描く
・1800年(寛政12年9月10日) 京都において、数え年85歳で亡くなり、石峯寺に土葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1899年(明治32)高等女学校令」が公布される詳細
1915年(大正3)歌人・小説家長塚節の命日(節忌)詳細


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